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メッセージ
「張子の虎」ということばがあります。張子とは、木や竹の骨組みの上に紙を重ね合わせた張りぼてで、「張子の虎」は張りぼての虎のこと。外見は立派で強そうでも、なかみは空っぽの人のことを言います。
以前、人気はあっても、ちっとも強くなかった阪神タイガース、毎年最下位争いをしていた阪神が「タイガースは張子の虎」と揶揄されたこともあります。外見の立派な者、有名人にはまがいものも多いということでしょう。
それから、上方落語の世界では、「あの人はうどん屋の釜」という言い方もあるそうです。うどん屋の釜の中にはいつもお湯しかない。「湯しかない」に「言うしかない」をかけて、言うしかない人、ことばだけの人、つまり、言うだけで中味や行動の伴わない人を指しています。
ところが、今日のルカ福音書第七章に登場したローマの百人隊長は、張子の虎でも、うどん屋の釜のような人でもなく、むしろ無名ながら、その人格、行動、信仰において福音書中第一の人物、まるで夜空に輝く星のような存在、それも一際明るく輝く一等星でした。
しかも、登場するといっても、主イエスのもとに使者を立てておことばを頂きたいと願うのみで、自らは最後まで姿をあらわさなかったという謙遜さが印象的です。
このルカの福音書は、すぐ前のところで「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(6:20)で始まるイエス様の説教を記していますが、神の前における心の貧しさ、つまり謙遜を説いた主の教え、その精神を現したのは、当の弟子たちでも、ユダヤ人でもなく、異邦人・ローマ人であった、それも軍人であったというのは意外や意外でした。
神の国の意外性です。「ここにこそ」!というところに真のクリスチャンは居ず、「まさか」と思うところに、大クリスチャンが発見されるという一例です。
7:1〜3「イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。」
すでに、この百人隊長の優しく、慈愛の人であることが伝わってきます。この隊長は、そのしもべ即ち使用人の病をとても心配していたというのです。自分自身のことではない。家族のことでもない。また、部下の兵士のことでもなくして、ただ、一介のしもべ、使用人のために胸を痛め、心砕いていたというのです。
当時、しもべなど主人に使い捨てられて当然と言う風潮でした。隊長は功名のため、部下の兵士さえ消耗品のように使い捨てた、と言われます。
それなのに、この百人隊長は兵士でもなく、ただ家の中で雑用をするしもべのことを心底心配して、イエス様に「何とか助けていただきたい」、と切望しました。ために、わざわざ地元の長老たちを使者に立てて、お願いしてきたというのです。
何故使者を立てたのか。なぜ、自分で来なかったのか。自分のような外国人が直接行くよりも、地元で信頼されている長老さんに立っていただくのが礼儀と考えたのか。それとも、しもべのための看病で附きっきりだったためか。
そして、もう一つは、あとでわかるように、いかにもこの百人隊長らしく、自分の様なつまらぬ人間は主にお会いしてお願いする資格などないと本気で思っていたのです。
普通この世は逆でしょう。それこそ、自分のこととなると、家中、近所中をさわがせるくせに、他人のこととなると無関心、よくてもお愛想程度。
まして、使用人ともなれば、「なんだ使用人のくせに病気なんかして、使い物にもならない」と考えて、冷淡な態度をとるということだってあるでしょう。それだからこそ、この百人隊長の心遣い、同情ぶりは一際輝くのです。
ユダヤ人の長老たちも、このような人柄を知っていたので、快く引き受けて使者に立ちます。
7:4,5「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
当時ユダヤは大ローマ帝国の占領地。占領軍の隊長といえば、普通占領民であるユダヤ人からは良く思われていないはずなのに、この心からの推薦ぶりはどうでしょう。
「この百人隊長さんは、土地の民を愛し、会堂まで建ててくれた。今は今でしもべの病気に心を砕き、このように、私たちを使者に立てて回復を願う心優しき人なのです。」長老さんたちのことばにも自然と熱が入り、「イエス様、何とかこの人のために一肌脱いでくれませんか。」と願う様子が眼に浮かぶようです。
それにしても、このような百人隊長に恵まれた従僕は幸せでした。
7:6、7「イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は(再び)友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」
こう伝えたというのです。念のために読みかえしてしまいます。謙遜な百人隊長は、自分のような者が主イエスの前に立つ資格なしと心得て、今度は友人を使者に出すと、「私のほうから伺うことさえ失礼と存じますので、ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」と、伝えたというのです。
イエス・キリストのきよさを知り、自分の罪を知ってへりくだる人。イエス・キリストのみ力と栄光を覚え、「私の家にお迎えするなんて勿体無い。おことばさえもらえれば十分です。」と控える人。
終始変わらぬ謙虚な態度、言葉、そして、「御言葉だけで私のしもべは癒されます」という信頼。すごい信仰者がいたものだと思われます。
その頃のローマの兵士と来たら、占領軍の権威を振りかざし、行きずりの者をつかまえると、重い荷物を担がせて歩かせたり、寒いからといって、通行人の着物を寄こせと命じたり。その乱暴、横暴振りが伝えられていました。
キリストの有名な山上の説教には、愛敵の教えがあり、その中に「あなたがたを告訴して下着をも取ろうとする者には上着をもやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:40,41)とありますが、これはこうしたローマ占領軍の横暴が背景にあったものでしょう。
こんな兵隊さんたちが多い中、この百人隊長のあり方は、イエス・キリストの心をも動かしました。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」
何度読み返しても、凄い信仰告白と思わされます。聖書の中に、忘れてはならない見事な信仰の告白はいくつかありますが、これは間違いなくそのひとつでしょう。
果たして、これほど神を畏れかしこみ、罪人であることをわきまえる心を自分はもっていただろうか。これ程の厚い信頼を神にささげて、神のみわざを待つという姿勢を、自分はとったことがあっただろうか。そう反省させられます。
順調な時は、神に感謝することを忘れているのに、逆境に落ちると「神がいるなら、早く癒してみろ。」と、そう騒ぎ立てる浅ましい信仰ではなかったか、と心刺される思いがします。
しかし、主イエスは、この百人隊長のような霊魂をこそ喜びたもう。このような人には頼まれなくったって、進んで手を差しのべるのが私たちの救い主イエス様でしょう!
けれども、だからといって、この人は優しいだけの軟弱な男ではありませんでした。彼は名にしおうローマ軍の隊長、軍人なのです。その魅力が八節に現れます。
7:8「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
この隊長さん、よほど日頃から部下の兵士を愛し、仕えていたのでしょう。「私が行け」と命ずれば、百人の部下はどこにでも行き、進み続ける。「私が来い」と命ずれば、百人が百人一人残らず従ってくる、と言うのです。
これぞ軍隊でした。隊長のもと、そのことばひとつで東にも、西にも行く、危険な所にもついてくる、そんな統率の取れた百人部隊。「主イエスよ。それが私の部隊です。ですから、主イエスよ御命令を下さい。一言「病魔よ立ち去れ。」とあなたがご命令下されば、私のしもべを襲っている病気も即座に退散いたしましょう。」と告白したのです。軍人的、男性的信仰告白という気がします。
しもべに対する慈愛、イエス様を神として、どこまでも自分を低くする謙遜さ、また「おことばをもらうだけで十分です」、という絶対的な信頼。これを聞いたイエス様がいかに喜び、感心されたことか。
7:9「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。『あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。』」
昔の文語訳では「われ汝らに告ぐ、イスラエルの中にかかるあつき信仰は見しことなし。」とあります。これほどイエス様から喜ばれ、賞賛を受けた人は、福音書中にも、いや聖書中にも極めて珍しく、まれなことでした。
さて、それと同じ頃、家の中では、彼が懸命につきそっていたであろうしもべが見る見る生気をとり戻すのを百人隊長は感じます。
7:10「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」
しもべと手を取り合い、主に感謝する百人隊長の姿が見えるようです。以後、この慈愛に富み、謙遜で、信仰篤き人は聖書の舞台に姿をあらわしません。果たして、この百人隊長はこの後イエス様に直にお会いできたのかどうか。
しかし、もし直接会えなかったとしても、生涯お互いに顔を見ることがなかったとしても、イエス様とこの百人隊長はすでに会っていた、とは言えないでしょうか。
実際に眼で見て、お会いできなくても、この異邦ローマの軍人は、その信仰によってすでにイエス・キリストと親しい交わりを体験していたと言えるのではないでしょうか。
そう言えば、私たち人間同士でも、年柄年中会っているのに、親しみや尊敬を感じるほど会った、交わりをしたとは感じられない人がいるかと思えば、まだ、一度も会ったことがないのに、四六時中お会いしているかのような、親しみや尊敬を覚える相手というのもいます。百人隊長とイエス・キリストの関係は後者でした。
使徒ペテロが、迫害に苦しむ小アジアの教会の兄弟姉妹に送った手紙には、こうあります。
Tペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
まさに、これは今日の主人公、無名の百人隊長のことを物語ることばでした。と同時に、百人隊長や小アジアの教会の兄弟姉妹と同じく、異邦人・外国人で、直接イエス・キリストにお会いしたことのない私たちが入れていただいた関係、また私たちがこれからも目指すべき主との親しい関係でもあるでしょう。
イエス・キリストを眼で見たことはないけれども、愛している。
お会いしたことはないけれど、みことばによってイエス・キリストの存在、その愛、そのみ力、真の救い主であることを信じている。
イエス・キリストと親しく交わる時、ことばに尽くすことのできない聖なる喜びが心に満ちる。
こうした関係の中に生かされていた百人隊長の、人に対する心づかいや物腰、御ことばをそのまま信じきる信仰の見事さを思って、私たちもキリスト教徒としての歩みを深めてゆきたいと思います。
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