2011年11月20日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(26)」
−神の選び−
  聖書
創世記11章10〜32節

11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。
11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。
11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。
11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。
11:21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。
11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。
11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。


  メッセージ
 世界の初めの歴史第26回目。今日が最後となる聖書による世界の初めの歴史は、創世記の11章後半、ご覧の通り系図、カタカナの人名の羅列です。
 ところで、聖書冒頭の書、私たちが読み進めてきた創世記は「旧約の中の福音書」と呼ばれてきました。福音、つまり神の恵みによる救いが、新約の福音書に劣らず、高らかに語られているものとして、重んじられてきたのです。
 皆様に思い出して頂きたいのですが、聖書の最初のことば、第一声は何だったでしょうか。「初めに神が天と地を創造した。」昔の文語訳では「はじめに神天地を造りたまえり。」雄大な第一声でした。
 この天地宇宙は自然に発生したものではなく、おひとりの神の人格的な意志によって創造されたものとの大宣言です。この世界も、人間も偶然の産物ではなく、神によって尊く造られたもの、まして、私たち人間は世界の中で、最も神に愛された者、最上の者として造られた、と教えられます。
 この世界には神に造られたものとして秩序があり、人間もまた神と造られた者として、神と交わり、人間同士お互いに愛し合うために生きるという目的があることを、私たち創世記で確認することができたのです。
 しかし、残念なことに、人間が幸福この上ないという時代は、長くは続きませんでした。エデンの園の真ん中に生えた禁断の木の実に手を出した人類の先祖アダムとエバは、園から追放され、地も呪われてしまいました。
 その子どもであるカインは弟アベルを殺した最初の殺人者となります。神の赦しにより、命ながらえたものの、ついに罪を悔い改めることのなかったカインの子孫は自分たちの力を誇る、高慢な人々ばかり。
 やがて地上は乱れに乱れ、人間の罪のレベルはさらに悪化し、落下します。ついに不信仰と暴虐で満ちた世界は、神の審判である大洪水で覆われ、一掃されたのです。
 しかし、この時、ただひとり神信仰に生きた人、義人ノアとその一家八人が箱舟に乗り込んで救われ、彼らによって新しい世界がスタートしました。
 「生めよ。増えよ。地上に広がれ。」と、最初の創造の時と全く同じく、神によって祝福された人間は、子孫を増やし、世界の各地に散って文明を興します。これも神の恵みでした。
 しかし、その文明の恵みを使って何をするかと思えば、バベルの塔を押し立て、人間の、被造物の分際で神と肩を並べようとする始末だったのです。性懲りもなく、神に背き、反逆する人間たち。罪の中を歩み続け、神に立ち返ろうとしない人間たち。
 パスカルと言う人が、「私たち人間は、本来あるべきところからいかに落ちてしまったことか。」と告白しましたが、創世記に見る世界の最初の歴史は、エデンの園における幸いな状態、本来あるべきところから落ちてしまった人間の歴史、残念無念な人間の歩みと言ってよいでしょう。
 けれども、これまでもそうであったように、なおこんな人間に救いをもたらそう、世界を良くしようと忍耐の限りを尽くして、手を差し伸ばすのが神様と言うお方だったのです。
 この私たちの信じる救いの神が、世界に散った人類が皆罪人というひどい有様のなか、せめて一つの民族だけは、と選んだのが、ノアの子どもセム、ハム、ヤペテのうち、セムの子孫でした。その系図がこれなのです。

 11:10〜26「これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。
 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。
 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。」


 系図と言えば、前の創世記5章に出てきたアダムの系図がありますが、それと比べてみると、二つのことに気がつきます。
 ひとつは、人間の寿命が激減している、ということです。最高齢は11節のセムで600歳、その子どものアルパクシャデは438歳。真ん中辺のペレグで239歳となり、最後のナホルは148歳でした。
 これが大洪水の前となると、アダムからノアまで、最高が962歳、最低でも895歳、一人を除いて全員が900歳台の長寿だったわけで、それが一気に500,400、200、100と、坂道を転げ落ちるように下ったことになります。
 まさに激減でした。天候不順、土地の荒廃、劣性遺伝、病気の多種多様化、栄養等、様々な環境が悪化して、人間の寿命を縮めたものと考えられます。
 創造の最初は、悪い所等一つもなく、豊かで美しかった自然環境も、アダムの罪によってひびが入り、ノアの大洪水によって凄まじく悪化した、ということでしょう。人間の罪とともに狂い始めた自然が、罪の広がりとともに、さらに悪化する。神に造られたもの同士、自然と人間は一体なのだとも思わされます。
 ふたつめは、この11章の系図には、「誰々が誰々を生んだ」とはありますが、「誰々が何歳で死んだ」ということばは省かれていると言う事実です。つまり、子孫誕生というおめでたい響きが感じられる系図なのです。
 確かに、人間を取り巻く自然環境は悪化した。人間の寿命も激減した。しかし、「生めよ。増えよ。」との神の祝福は着実、確実に実現していたのです。自然環境の悪化も、寿命の激減も、人間の自業自得。それにもかかわらず、神は世界を守り、人間を祝福し、何としても生かそう、広げようとする。ありがたい、神の恵みでした。
 さて、この後は、セムの子孫のうちでも、テラの家族のことが詳しく記されてゆきます。テラはアブラムの父で、アブラムは次の創世記12章からの主人公。このアブラムから出る子孫が旧約聖書の主人公イスラエル民族で、このイスラエル民族から、時至って救い主イエス・キリストが誕生する。そんな流れとなります。

 11:27〜31「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。
 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。」

 ここで注目したいのは、テラという人が息子のアブラムやその家族とともに、わざわざ故郷ウルを旅立ち、カナンの地、現在のパレスチナを目指したことです。
 彼らの故郷ウルは当時の大都会でした。人口はおよそ五十万、ジグラットと呼ばれる高い塔を建設できるほど高度な文明の町でしたが、月の神ナンナールを礼拝すること盛んな偶像の町でもありました。
 そして、聖書によれば、テラはこの町で何と偶像の神に仕えていた、というのです。そればかりか、テラは偶像作りの職人で、これで家族を養いよく栄えていたと記す文書さえ残っていました。
 そうだとするなら、どうしてテラはそんな居心地の良いはずの故郷から旅立ったのか。どうも、これは正しい信仰を受け継いだ息子アブラムの勧めによるものらしいのです。
 新約聖書使徒の働きでは、メソポタミアのウルの町で、主なる神から「約束の地に旅立て」と召しを受けたのは、息子アブラムだったことを、ステパノが語っています。

 使徒7:2,3「そこでステパノは言った。兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地(約束の地カナン、パレスチナ)に行け。と言われました。』」

 もともと、偶像に仕える町故郷テラで、居心地の悪い思いをしていたアブラムが、神からの召しを受けたことで、神に従って故郷を離れる決意をする。やがて意を決して、これをお父さんに告げ、説得する。すると、最初は渋ったものの、漸く父テラも腰を上げて、ともに旅立つこととなった。そんな事情だったのでしょう。
 こうして、テラとアブラムと奥さんのサラと、甥のロトと、親族一同が旅の人となります。しかし、何故か、旅の途中カランに着くと、彼らはとどまりました。
 そこが住みやすい土地だったのか。父親テラが、もうこれ以上故郷から遠くへは行きたくないと思い、他の人々をもとどめたのか。あるいは、疲れてしまったのか。
 いずれにしても、テラは旅の途中カランで死んだと記録されます。他方アブラムは父の死を悲しみつつも、カランにとどまることなく、ひたすら約束の地に向かい、そこでイスラエル民族の祖となり、信仰の生涯を送ったことは、この後の12章以降に記されています。

 さて、以上創世記11章後半を読み終えて、私たち覚えたいことがふたつあります。
 ひとつは、信仰の生涯を全うする者でありたい。神に従い通す生涯を送らせて貰いたいということです。
 昔から、テラは中途半端な信仰の人と理解されてきました。目的まで行かず、途中でとどまってしまった人。偶像を離れるという大決心をしながら、徹底しなかった人。神の約束とこの世の富や繁栄、両方に心引かれ、中途半端な信仰で終わってしまった人。このテラの生涯を息子アブラムのそれと比べる時、いっそう残念な気がします。
 信仰とは、ただ神の存在を信じることにあらずして、実際に神に信頼し、本気で神に従うこと、と聖書は教えています。とは言っても、ひとり自分の力で神信仰を貫くことは誰にとっても至難のわざでしょう。
 そうであるなら、私たちは自分の弱さを自覚して、神礼拝を、神との交わりを、神を信じる兄弟姉妹との交わりを、神のみことばを心に刻むひと時を、他の何ものよりも大切なこととして取り組んでゆきたく思います。
 ふたつ目は、神の選びの信仰に立つということです。創世記の11章後半は、ノアの三人の子孫セム、ハム、ヤペテのうち、セムが救い主誕生の家系、民族として選ばれたこと、そのセム族の中からアブラムが救いの民として選ばれゆく様子を描いていました。
 しかし、神の選びと聞くと、「なぜ、セムの家系だけを選んだのか。どうしてアブラハムだけが選ばれたのか。神が愛なら、なぜすべての者を救いに選ばないのか。」という不平、不満の声が聞こえてきそうです。
 これについては、様々な答えがあるでしょう。今日、私が一つお伝えしたいのは、神は愛であると同時に、義であるお方だということです。そして、神が義である、正しい方であるという点からすれば、すべての人が罪に汚染された地上は何ともひどい状態。即刻さばかれ、滅ぼされて当然の状態にあります。
 しかし、神の愛はそれを耐えがたく感じ、何とかこのひどい状態の中から、ひとりの魂でも救い出すために全力を尽くそうとされる。そこで、せめてセムの子孫だけはとこれを選び、アブハムとその子孫だけはとこれを選んで、何としても救い主イエス・キリストを信じる者たちを起こそうとされたのです。
 ですから、神の選びは、罪人の滅びに心痛める神の愛の表れ、ご自分に背き続ける人間たちのためにどこまでも心砕かれる神の救いの熱心の表れ。そう私たち受けとめて、感謝したいのです。
 私たちもセム族やアブラムと同じく、神の救いに預かれるような良きものを何一つももってはいません。ただ一方的な神の恵みによって尊い救いのうちに選んでいただいた者です。この救いの選びに入れられたことを知ったパウロは、その感動をこう告白しました。今日の聖句です。

 エペソ1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

 この世界が創造される前から私たちのことを大切に思っておられた神。私たちのひどい弱さも、罪も、すべてを知った上でキリストによる救いに選んでくださった神。そして、救われてもなおこんな罪人の私たちをきよく、傷のない者に造り変えることを保証してくださる神。
 神に愛され、確実な、揺らぐことなき救いに選ばれたわが身の幸いを思い、感謝しつつ、それにふさわしい者として、これからの日々を歩んでゆけたらと思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師