2011年11月27日
礼拝メッセージ


「聖書から学ぶストレス対処法」
  聖書
マタイの福音書11章28〜30節

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」


  メッセージ
 今日はウェルカム礼拝です。初めて来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。来て下さったことを大変嬉しく思いますし、次週以降、再度来て下さることを楽しみに期待しています。今日は「ストレス」をテーマに、聖書の話をしたいと考えています。
 皆様はストレスを感じていますでしょうか。ストレスに対する何かしらの対処が必要だと考えていますでしょうか。一週間を振り返り、特にストレスと感じたことが、明確にあるでしょうか。
 私はこの一週間を振り返り、一番ストレスになったことを考えました。本当に正直に言いますと、まず思い浮かぶのは、今日の聖書の話を作ることでした。少し前から考えていたのですが、なかなかまとまらない。日曜日が近づくにつれ、ストレスが増すということを経験しました。ストレス対処法の話を準備することが一番のストレスというのは、実に皮肉なものです。
 もう一つ挙げるとすれば、食事中の妻の態度です。食事中に子どもが遊び、なかなか集中して食べない。それに腹を立てる妻。それをストレスに感じる夫。妻に言わせれば、子どものしつけを手伝ってもらえないストレスを感じていたかもしれません。聖書の話の準備と、妻の態度が、最もストレスになっているというのは、牧師としてどうなのかと思うのですが、現実なのでしょうがありません。そのようなわけで、ストレス対処法というのは、私にとって切実なテーマです。皆様は、聖書がどのようにストレス対処を勧めているか、興味はありますでしょうか。
 いかにストレスを対処するか。これは多くの人にとって切実な課題です。日常生活のありとあらゆるところに、ストレスを感じる出来事が散らばっています。私のような若造が言うことを許されるならば、生きるというのは大変なことです。
 職場での重圧。育児での疲労。経済的な課題。家庭内の問題。様々な人間関係。自分で自分を否定する思い。募っていく怒りや恨み。将来への不安。それらが、私たちの心に重くのしかかります。大きな災害が起こると、それによるストレスも非常に大きなものとなると言われますが、日本に住む私たちは、特に大きなストレスを抱える年となりました。
 多くの人がストレスを感じ、何かしらの対処法を知りたいと考えているのだと思います。テレビ、ラジオ、インターネット、本や雑誌で、ストレスにまつわる情報が続々と流されている状況。どのような「ストレス対処法」があるのか。調べてみようと思い、図書館に行き、ストレス関係の本を検索すると、それだけで数百冊ありました。
 「食事」「脳科学」「フィットネス」「マッサージ」「趣味」「整理整頓」など、様々な分野からストレス対処法が語られています。今回、何冊も確認してみたのですが、運動、音楽、ペットを飼うなどは、よく見かけました。面白いというか、興味深いと思うのは、何を食べるにもよく噛んで食べると良いとか、チョコレートやコーヒーが良いとか。ストレス解消のための料理本もありました。「夫よ、あなたがいちばんストレスです!」という題の本を見つけた時は、「怖いなぁ」と感じました。
 私たちの生活のあらゆる場面にストレスはあり、そして様々なストレス対処法が語られている。それでは、聖書はストレスに対して、どのように対処すべきと語っているのでしょうか。今日はこの点に焦点を当てて考えたいと思っています。「聖書から学ぶストレス対処法」です。
 ところで、なぜ聖書からストレス対処法を学ぶ必要があるのでしょうか。聖書から学ぶ意味、意義はどこにあるのでしょうか。
 聖書は世界で最も多くの言語に訳され、最も多く出版された本。あまりに多く出版され過ぎていて、正確な部数が不明。一応、1999年のギネスブックでは、推定3880億冊と言われていますが、それ以上ではないかと思われています。何千年と引き継がれ、多くの人に影響を与え、多くの人の人生を変えてきた本。聖書が素晴らしい本であるという権威付けをすることは簡単です。
 しかし、ただ素晴らしい本であるから、そこからストレス対処について学ぶというのではないのです。聖書はこの世界を造り主である神様からのメッセージ。宗教や道徳の世界、教会の中だけで通用することが記されているのではなく、私たちの毎日の生活で実際に有益であることが記されている。聖書に従って生きる時、私たちの実際の生活に変化をもたらすものです。そこで、ストレスに対する対処という視点でも、他にもまして聖書にあたってみたいのです。
 さて、具体的に聖書の箇所を見ていきたいと思いますが、その前にストレスについて一般的に言われていることを、一つ確認しておきます。
 それは、人によって何がストレスに感じるのか、異なるということです。卑近な例ですが、中日ファンにとっては、今年の日本シリーズはストレスだったと思います。ソフトバンクファンにしてみれば、爽快。野球のことを知らない人からすれば、このような話自体がストレスになるでしょうか。同じ出来事、同じ話でも、人によって感じかたが異なります。
 共通して多くの人がストレスと感じることもあります。家族の死とか、大きな病気にかかる、引越などで環境が大きく変わるなどは、大きなストレスです。しかし、それも人によって、ストレスの受け方が変わります。同じ出来事でも、ある人にとっては巨大なストレスとなり、ある人にとっては軽微なストレスであるということがあります。
 そのため、ストレスを強く感じるかどうかは、状況・出来事をその人がどのように受け止めるかにかかっていると言われています。つまり、どのようなストレス対処法を考える時でも、自分の物の見方、自分の考え方をどうするのかということが大事になるということです。
 以上、長い前口上になりましたが、一つの聖書の箇所からストレス対処法を考えていきたいと思います。

 マタイ11章28節〜30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 これは約二千年前にイエス・キリストが語られた言葉。聖書の中でも有名なものです。教会に来たことのない方でも、どこかで目にし、耳にしたことがあるかもしれません。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は」と呼びかけられます。今日のテーマに合わせて言えば、ストレスで苦しんでいる人、心が疲れ切った人への呼びかけ。つまり私たちに対する呼びかけと言って良いでしょう。何が呼びかけられているのでしょうか。「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と続きます。良い響き、耳に聞こえ良い言葉です。
 ところが、どのように休ませてもらえるのか、続くところを読むと、少し印象が変わります。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われるのです。「おや?」と思わないでしょうか。「休ませてあげる」と言われていたのに、「くびきを負いなさい、学びなさい。」となるのです。くびきを負って、キリストから学ぶ。そうすると、「たましいに安らぎが来ます。」と言われます。
 これらの言葉は何を意味しているのでしょうか。私たちはどうしたら、「たましいに安らぎが来る」のでしょうか。
 ここに記されているイエス・キリストの言葉を理解するためには、「くびき」がどのような物なのか、知っておく必要があります。「くびき」をご存知でしょうか。※(スクリーンに画像有)「くびき」とは、荷物を引く際、牛や馬の首につける道具のことです。この画像のように、二つの首を入れられるものを用いる時は、一つの荷物を二頭で引くことが出来ます。つまり、牛や馬にとって、荷物を引きやすくなるわけです。畑を耕す際、このような「くびき」は、ベテランの牛と、新人の牛をコンビにして使われるそうです。そうすることで、新人の牛は、ベテラン牛と同じ動きをすることになり、それにより新人の牛は動き学ぶことが出来るわけです。
 ここでイエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言っています。つまり、イエス様のくびきを負うとは、イエス様と同じ歩みをする。イエス様と同じ考え方をする。そのことを学ぶということです。
 キリストの「くびき」を負うというのは、キリストと同じ歩みをする、同じ考え方をすることだとして、それでは、具体的にどのような歩み、どのような考え方でしょうか。
 実を言うと、ここで「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言っているイエス様自身が、この少し前のところで、ストレスを強く感じながらうめいている姿が記されています。

 マタイ11章20節
 「それから、イエスは、数々の力ある業の行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」

 イエス・キリストの働き。それは、神を無視して生きる者たちを悔い改めに導く者。神を信じる者へと伝道することでした。イエス様が様々なことを行い、教えを語っても、悔い改めなかった町々があった。そこで、責め始められたと言います。

 マタイ11章21節〜22節
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれたわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンの方が、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」

 ツロとシドンというのは、聖書の中で、罪深く悪名高き町々です。その町々よりも、キリストが伝道したコラジンやベツサイダの方がひどい。同じことを、あのツロやシドンで行っていたら、とうの昔に悔い改めていた。それが、コラジンやベツサイダは悔い改めなかったと言って責めている言葉です。「ああコラジン。」「ああベツサイダ。」という嘆きの言葉が、重く聞こえてくるところ。
 つまり、イエス様ご自身、強いストレスのもとにあった場面。更に、この嘆きの言葉は、カペナウムという別の町にまで向けられ、24節まで続きます。
 しかしその次、25節から全く異なる雰囲気となるのです。重圧に満ちた言葉から、喜びに満ちた言葉となります。

 マタイ11章25節〜26節
 「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」

 なぜ直前まで嘆いていたのが、ここでいきなり「神様をほめたたえます。」となったのでしょうか。それは、問題となる出来事、ストレスとなる出来事を直視していた視線を、「天地の主である父」へ向けたからです。ゴラジンやベツサイダ、カペナウムという町々を見た時に、嘆きの言葉が溢れていたイエス・キリストが、「天地の主である方」に目を向けた時、「これがみこころにかなったことでした。」として、「神様をほめたたえる」に至るのです。この時、問題となっていたコラジンやベツサイダは何も変わっていないのですが、神様の視点で見た時に、「みこころにかなっていたことだ。」として、喜びに満ちた言葉を発するようになる。
 このような中でイエス様が語られたのが今日の箇所でした。

 マタイ11章28節〜30節
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 イエス様はここで「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言っていました。何を学ぶのでしょうか。もうお分かりかと思います。問題自体に目を留めて終わるのではなく、この出来事を神様はどのように扱われるのか。この出来事を通して、神様は私をどのように導こうとされているのか。それを考える。それを見出す。キリストがされた、その考え方、その視点を学ぶということです。
 聖書から学ぶストレス対処法。今日の箇所から言えることは、キリストの「くびき」を負うこと。それはつまり、神様の視点で自分自身を見ること。神様の視点で状況・出来事を見るということ、です。
 最初に確認しました。ストレスについて一般的に言われていること。ストレスを強く感じるかどうかは、状況・出来事をその人がどのように受け止めるかにかかっていると言われています。そして、これは聖書にも通じているものでした。神無しとして世界を見るのか。この世界を造り、支配している方を意識して、この世界を見るのか。全く異なる見え方、感じ方になるのです。キリストの「くびき」を負う生き方。状況、出来事を神様の視点で見る生き方をすることで、「たましいに安らぎが来る」という約束を実際に味わいたいと思うのです。
 教会に初めて来られた方。普段、来られていない方に申し上げます。この世界を造り、支配している神様を信じて生きる。信頼して生きる時、それまでの人生と大きな変化が起こります。このことは、確信を持ってお伝えすることが出来ます。とはいえ、神を信じて生きる、信頼して生きるとはどういうことか。神様の視点で状況・出来事を見ていくとは、より具体的にどういうことなのか。今日の聖書の話の時間では、言うことが出来ません。毎週、礼拝の中で聖書の話の時間がありますので、次週以降、再度来て下さることを楽しみに期待しています。個別に聖書の話を聞きたいという方がいましたら、どうぞ牧師に声をかけて下さい。
 教会員の方、普段から教会に来ている方に申し上げます。神を信じる者でも、多くのストレスを抱えています。本当に苦しいということがあります。神様の視点で見ると言っても、なぜ神はこのような苦しみを与えるのか。なぜこのようなことを許すのか、という気になることが度々あります。
 覚えておいて頂きたいことは、神様は私たちを苦しめるために、ストレスを与えているわけではないということです。神様は、ストレスの多い状況を通しても、私たちをよりキリストに似た者とするために働いています。その状況や出来事を通して、私たちが神様をより信頼するよう導いています。真のストレス対処法というのは、苦しみを和らげることではなく、私たちの人生に働かれている神様を見出すこと、その神様を信頼することです。その時に、与えられる「たましいの安らぎ」を皆様とともに味わいたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師