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メッセージ
いきなり私事で恐縮ですが、私が卒業した学校は外国語を専門に学ぶ学校、外国語大学でした。大学とはとても思えない小さな建物、小さなキャンパス、道路向い側にある高校の方がはるかに立派で、大学らしく見え、新入生にはちょっとショックでした。
尤も、外国語等机と本さえあればどこでも学べるわけで、文部省がお金をかけない理由も分る気がします。
但し、学校の歴史はとても古く、江戸時代の末幕府が創設した「洋学所」というのが始まりだそうです。明治の時代になると、西洋の文化、歴史、産業を学んで、これを取り入れることが国を盛んにすることとされ、外国語のできる人がどうしても必要と言うことで、本格的な外国語大学に生まれ変わることになります。
入学してから、ある先生がしてくれた話が心に残っています。シュリーマンという人の話でした。
シュリーマンは、子どもの頃聞いた神話が忘れられず、散々人に馬鹿にされ、批判されながら、ついにギリシャのトロイ遺跡発掘という歴史的大発見を成し遂げた人として有名ですが、語学の天才でもありました。
シュリーマンは貧乏のため十四歳で学校を中退。以後正規の学校に行くことは出来ず、生活のため商店の丁稚として働くことになります。1日10時間以上働きながら、毎日外国語を独学し、ついに英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、ギリシャ語など十数ヶ国語をマスター、自由自在に使いこなしたという驚きのことばの達人です。
そんなシュリーマンの勉強法のひとつは教会の礼拝でした。英語を習得するために、イギリスの教会の礼拝に出席し、牧師のメッセージを覚え、何度も練習し、翌週それを聞いてもらい、添削してもらうことを繰り返したそうです。
先生の趣旨は、「君たちもシュリーマンのように努力せよ」ということであったと思いますが、私自身はシュリーマンさんには遠く及ばず、ひとつの外国語さえろくにマスターできない劣等生で、その後神学校でも聖書の言語、ギリシャ語、ヘブル語の学びには苦労しました。
現在世界の人口は70億、言語の数は6000と言われます。シュリーマンをこえる語学の天才がいたとしても、すべてのことばをマスターすることはとうてい不可能でしょう。
しかし、考えてみると、同じ人間同士なのに、どうして言葉がちがうのか。犬も、猫も、空を飛ぶ鳥もその鳴き声は皆同じ、世界共通ですのに、人間だけはまるっきり違う言葉を喋るという有様。これは、一体何故なのか。
聖書創世記によれば、もともと人類のことばはひとつで、どこに住む人でも共通のことばを話していた−つまり、外国語学校もシュリーマンのように苦労して外国語をマスターすることも必要もない時代があった−しかし、ある事件をきっかけに、混乱、分裂、お互いのことが通じなくなってしまった、というのです。
先の10章は、ノアの子どもセム、ハム、ヤペテと言う共通の先祖から、世界中に広がる様々な民族が広がっていた様子を描いていました。それに対して、この11章は、何故ひとつの共通のことばを有していた人類が、今日6000はくだらないと言う、こんなにも多くの言語をもつことになったのか。その原因を物語っています。
11:1〜3「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」
乱れに乱れた地上の世界に対する神の審判、ノアの大洪水が終わってから、どのぐらいたった頃でしょうか。
最初はノアの家族八人で出発した新世界は人口が増加し、人々は各地に移動するようになりました。中でも有力な民族が移動した場所がシヌアルです。
シヌアルと言うのはチグリス川とユーフラテス川と言う大河の間にある土地で、メソポタミア地方の事。世界最古の文明発祥の地です。現在の世界地図では、ちょうどイラクとイランの国境地帯で、聖書ではバビロンとかバビロニア地方として登場してきます。
当時、この地方には、建築に使える石というものがなく、ために土を固めたレンガが代わりに用いられたようです。但し、太陽で乾燥させたレンガは脆いので、火でよく焼いて固めたうえ、それを瀝青と呼ばれるアスファルトでくっつけて積み上げてゆく、というのがその頃のやり方でした。
技術、沢山の人手と富、それを動かす権力者の存在がなければ実現できないのが、塔と言う古代の高層建築です。
そして、この文明を持つ人々、高度な建築物にたずさわる人々には共通の思いがありました。それは、天にいます神への挑戦です。
11:4「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
古代の人々にとって、天とは「神の住みか」を意味していました。塔の頂、てっぺんを天に届かせるという思いは、自分たちが神のみもとに到達して、神に挑戦するまでの存在になった、という人間の高慢を示しています。
彼らの先祖ノアは、神に命じられて箱舟を造り、神に許されて箱舟に入り、神の指示を待って箱舟を出たという信仰の人でした。それなのに子孫たちは、地上にちょっとした塔を建てられるようになると、もう神を忘れ、神を恐れることをしなくなった、というのです。
文明栄えて驕り高ぶるシヌアルの人々。「ついに神と肩を並べるほどになれた、もはや神の助け等要るものか」、と天狗になった人間たち。
彼らが自らの力を誇るために建てた塔、所謂バベルの塔とはどのような形で、どれぐらいの高さがあったのでしょうか。
今日も、この地方にはジグラットと呼ばれる、様々な形の塔の遺跡が数多くあります。60メートルもの高さにまで階段状にレンガを積み上げ、頂上に神殿を戴く塔。戦艦の様な形をした塔や巨大な犀の格好をした塔など。
もしこれらが、昔のバベルの塔の跡であるとすれば、「人間万歳、人間の文明万歳、神など要らない」とする人々の驕り高ぶりは何とひどいものか、何と救いがたいものだったかと思わされます。
さらに、バベルの塔は神への挑戦であるばかりか、神への反抗でもありました。シヌアルの人々は、「我々が全地に散らされるといけないから」塔を建てた、とあります。
先に神は、「生めよ。ふえよ。地に広がれ。」と言って、人間を祝福したはずです。それなのに、人々は神の祝福を信じることなく、これに反抗して、シヌアルの地にかたまり、一大帝国を築いて、自分たちの名を上げることにつとめました。
神の審判の洪水が起こる前、最後まで神の救いを人々に伝えようとしたノアと、自分たちの名を挙げることしか眼中になかったシヌアルの人々。
残念なことに、もう一度地上を新しくするために神が下した審判の洪水も、ノアとその家族が箱舟にのって証しをした神の尊い救いも、それらのことを気にかける子孫はシヌアルの地にはいなかったようです。
一方、とどまることを知らない人間の高慢さを心配した神は、ことばを乱して作業を中断させると言う方法で、これをとどめようとされました。
11:5〜8「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。』こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」
日本一の山富士山は地上から見れば3700メートル、目を上げて仰ぐような高さです。しかし、これを空の上、飛行機から見れば小さな丘、地球の外に出て見たら、地上にくっついている砂粒のような存在に過ぎません。まして、シヌアルの人々がいかに誇ろうとも、大宇宙を創造した神の御眼から見るなら、バベルの塔など地表の砂粒どころか塵にすぎないでしょう。
それなのに、造り主の神はわざわざその地上に降りてこられ、町や塔をご覧になり、最も良いさばきの方法を考えてくださいました。火や洪水で塔や町を壊すという強硬手段をとることもできたはずなのに、むしろ後に続く人類の生活のため文明を残そうと、ただことばを乱すという懲らしめにとどめてくださったのです。ありがたい神のご配慮でした。
11:9「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」
バベルとは混乱と言う意味です。ことばが混乱、分裂した状態で地上に散らされるということは、確かに神の人類に対するさばき、こらしめです。そのために、私たちは外国語を習得するのに苦労しなければなりませんし、時にことばの問題で誤解が生まれ、時に対立しあうことさえあります。
しかし、神に散らされることで、世界の民族、部族はそれぞれの国や地方で、自分たちの言語を形作り、独特の歴史や文化を育むという恵みに預かることもできたのです。
人間のとどまることを知らない高慢を懲らしめること、と同時に文化、文明の恵みの内に人間を生かしてくださること。こらしめを用いて人類に祝福をもたらすこと。本当に神の知恵はすばらしいもの、と賛美したくなります。
そして、神が地上にくだるということで、私たち思い起こすべきは、イエス・キリストのことでしょう。
昔、神は人間の作り上げたバベルの塔をさばくため、シヌアルの地に下られました。同じ神が、今度は罪によって混乱したバベルのような世に生きる私たちを救うため、人の罪を背負って贖いの死を遂げるため、十字架の木が立つ丘にくだられたのです。
聖書には、イエス・キリストが十字架に上る前、弟子たちに語られた預言のことばがあります。
マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証しされ、それから、終わりの日が来ます。」
2000年前、罪人の代わりに十字架に尊い命をささげたキリストが、もう一度この世界に来て、すべてを新しくしてくださる、その様な幸いな日が来る。福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての国民に証しされたら、その日が必ず来る。
このキリストの約束を信じ、世々の教会、世界中の国の教会が福音を宣べ伝えてきましたし、今も宣教師たちは世界に広がり、山の奥の小さな村にも、海に浮かぶ小島にも進み行き、その勢いは衰えることを知りません。
今までに聖書が翻訳されたことばと、聖書翻訳の働きが始まっていることばをあわせると3000弱、まだ聖書翻訳が始まっていないことばはおよそ2000あるそうです。産業や交通、文明の進展とともに、着実にキリストの十字架の福音は世界に広まり、浸透しています。
最後に、キリストを救い主と信じる者が必ずや導かれ、入り行く天国の礼拝の様子を見てみたいと思います。今日の聖句です。
黙示録7:9,10「その後、私は見た。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは大声で叫んでいった。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」
バベルの塔事件で散らされた世界の国民、部族、民族が神を礼拝し、賛美することにおいて心ひとつになる。彼らはイエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じ、義とされたことのしるしとして、みな同じ、共通の白い衣を着ている。
しかし、それでいながらそれぞれ独自のことば、独自の文化を携えて、父の神と救い主イエス・キリストを賛美する。唯一の神を礼拝する、ひとつの礼拝でありつつ、異なった言葉や文化が交じり合いシンフォニーを奏でるような豊かな礼拝。一体どんな礼拝になることか。今からわくわくしてしまいます。
創世記11章の前半、バベルの塔事件は、罪人である人間には世界の様々な民族を統一することは不可能であることを教えると同時に、イエス・キリストが必ずやそれを実現してくださるという希望を仰がせてくれます。
イエス・キリストによって実現される様々な民族によるひとつの礼拝。イエス・キリストがもたらしてくださる様々な文化がひとつに解け合う豊かな交わりの世界。そのようなに国に行き、そのような国に生かされ、そのような国で神を礼拝する者のひとりとなる幸いを覚えつつ、地上での礼拝を大切に、味わって行きたく思います。
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