2011年12月11日
礼拝メッセージ


「クリスマスに備える(2)」
−罪を告白して−
  聖書
マルコの福音書1章1〜8節

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」


  メッセージ
 自分の一週間を振り返った時、自分がよく考えたこと、意識していたことは何でしょうか。仕事のこと、家事、育児、学業のこと。上司や部下、友人、知人、夫婦、恋人、嫁や姑など、様々な人間関係。楽しい思い出を振り返ること、将来に思いを馳せること。逆に、後悔や怒り、悲しみ。将来に対する不安。あるいは自分の趣味や、次の休日の使い方など。私たちが考えること、意識したことは多くあると思います。
 いかがでしょうか。自分の一週間を振り返った時、頭を占めていたのはどのようなことでしょうか。そして、その中に「私たちのためにキリストが誕生したこと」、「クリスマスに備えよう」という意識はあったでしょうか。
 教会は今、アドベントを迎えています。アドベント。ラテン語で「到来」を意味します。二千年前にキリストが誕生(到来)したこと。そのキリストがもう一度来られることを意識して過ごすのが、このアドベントでした。本当のことを言えば、私たちはいつでも、キリストの誕生の意味を味わい、再度キリストが来られることを意識しておくべきなのですが、特にこのアドベントの時は意識するということです。しつこいですが、もう一度お聞きします。私たちはキリストの到来をどれだけ意識しているでしょうか。
 二千年前、キリストの誕生の際、当時の人々のキリストの迎え方はひどいものでした。人間が罪を犯し、人間が神から離れた。世界の作り主を無視し、自分の考えに従って生きることを最上とした。その結果、悲惨な状態に陥っている。その人間に対して、その私たちに対して、神様は救い主を送る。このことを、ユダヤ人は聖書を通して教えられていた民。救い主が来るということを、長らく待ち望んでいたはずの民。
 ところが、キリストが誕生したのは家畜小屋の飼葉桶の中でした。何故か。聖書にはこのように書いてありました。

 ルカ2章6節〜7節
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 約束の救い主の誕生。その場面は飼葉桶。何故なら、宿屋にはいる場所がなかったからというのです。王宮に迎えるでもなく、神殿に迎えるのでもない。せめて、宿の一つでもと思うところ。しかし、救い主には「いる場所がなかった」というのです。悲惨です。
 一体、神様のことをどのように考えているでしょうか。誰のための救い主誕生だと思っているのか。宿の一つすら備えなかった人間。これはひどいと思うところ。
 しかし、自分の一週間を振り返ると、果たして当時の人々を批難出来るだろうかと思います。私たちの心を占めていたものは何か。キリストの誕生、キリストがもう一度来られることを、どれだけ意識して生きてきたでしょうか。本来ならば、私たちの心の王座にキリストを迎え入れるべきところ。しかし、実際には私たちの心に、救い主の「いる場所がない」ということはないでしょうか。
 このアドベントの時、もう一度、救い主の到来に備えること。クリスマスに備えることを皆で確認し、意識したいと思います。
 今日のテーマはクリスマスに備えるということですが、それでは私たちはどのようにクリスマスに備えたら良いのでしょうか。この視点で、今日の箇所を読んでいきたいと思います。

 マルコ1章1節
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

 福音というのは良いニュース、良いメッセージという意味です。マルコという人は、神の子、イエス・キリストご自身こそ、最大の良いニュース、良いメッセージだとして、この福音書を書き始めます。福音書はキリストの生涯に焦点が当てられて記されたものです。
 ところが、マルコがまず記したのはイエス様ご自身のことではなく、旧約聖書の引用でした。

 マルコ1章2節〜3節
預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』』そのとおりに、

 引用された聖書。その中身は、救い主が来る前に、神様より遣わされる者がいるという預言の言葉です。救い主が来る前に、救い主の道を整える。主の通られる道をまっすぐにする。そのような働きをする者が遣わされるのだというのです。
 マルコはこの箇所を通して、次のように言っているようです。
「皆さんに、素晴らしいニュース、良いメッセージを伝えたいと思います。イエスという、救い主のことです。これから、イエス・キリストの生涯をお伝えしたいのです。しかし、少し待って下さい。この救い主のことを伝える前に、一人の人を紹介する必要を感じています。イエス・キリストより前に、神様より遣わされた人物のことです。この人は、救い主の道を整える働きをした人です。それはつまり、皆さんの心を整える働きでもあります。まずは、この救い主の前に遣わされた使者のこと。その使者が為したことを思い、心を整えて、救い主のことを聞いて下さい。」とです。
 救い主の前に、救い主の道を整える者が送られる。それはつまり、救い主を迎えるにあたって、あるべき迎え方。備え方があるのだということ。本当の意味で、クリスマスに備えるというのであれば、救い主の前に遣わされる者が、何を言い、何を為したのか、確認する必要があるのです。
 それでは、救い主の前に遣わされる使者は、誰であり、どのようなことをしたのでしょうか。

 マルコ1章4節
バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

 洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネの登場です。イエス・キリストより半年前の生まれた人物。キリストが公に活動をされる少し前から、その働きを始めました。先駆けのヨハネ、露払いのヨハネです。ルカの福音書にはバプテスマのヨハネの活動開始が、どのような時代だったのか詳しく記されており、AD26年と考えられています。
 マルコはここで簡単に、「(聖書に記された)そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われた」と言っています。しかし、当時の人たちは、救い主の前に遣わされると言われていたのが、このヨハネであると理解していたのでしょうか。分かっていたのでしょうか。
 実は、この洗礼者ヨハネには、誕生の際に重大な出来事が起こっていました。その父のもとに天使が現れ、生まれる子ども、つまりヨハネがどのような働きをするのか、告げていたのです。

 ルカ1章17節
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。

 ここで天使が告げた言葉は、これより約400年前、マラキを通して告げられていた言葉と重なっています。マラキは救い主の前に遣わされる使者について、このように預言していました。

 マラキ4章5節〜6節
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

 マラキの言葉と、天使が告げた言葉を比べれば、一目瞭然です。天使が言っているのは、このヨハネこそ、救い主の前に遣わされると言われていた使者だということです。
 こうして当時の人たちのうちある人たちは、このヨハネが救い主の前ぶれをする働きをすることを知っていました。ヨハネ自身、その父から聞かされていたのでしょう。恐らくは聖書を必死に読み、エリヤがどのような預言者だったのか、整えられた民を主のために用意するために、自分は何をすべきなのか、考えたと思います。そのようにして、救い主の前ぶれの働きに就きました。

 マルコ1章4節〜6節
バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

 洗礼者ヨハネがその働きを始めます。どこでその働きをなしたのか。神殿や宮殿のあるエルサレムではなく、世界の首都ローマでもなく、ユダヤの荒野でした。その格好は、らくだの毛衣に、皮の帯。食べ物はいなごと野蜜。野人です。まさに荒野で叫ぶ声。なぜ、このような格好をしたのかと言えば、この姿は預言者エリヤの姿でした。ヨハネ自身、エリヤの姿を意識していたのでしょう。
 そして、主の通る道を整えるために、彼が為したのは、悔い改めを説くこと。それはつまり、救い主の必要性を説くことでした。キリストの先駆け、主の前に民を整える働きとは、具体的にどのようなものだったのかと言えば、人々に、救い主の必要性を訴えることでした。
 存在理由とか、生きる目的など関係ない。働いて食べて飲んでそれで終わりという世界に、自分は救い主を必要としていることを覚えさせること。罪にたいして無感覚な者に、己の罪深さを自覚させ、このままでは滅ぶことを告げる。それによって救い主を待望せしめること。寝酒に酔っている者らに、水をぶち掛け、塩水を注ぎ込んで、救い主への渇望を覚えさせること。これがキリストの先駆者としてのヨハネの為したことです。果たして、私たちは、救い主への渇望はあるでしょうか。心の底から、自分には救い主が必要だと考えているのでしょうか。
 キリストの到来を前に、私たちがすべきことはこのこと。クリスマスに備えるという時に、私たちがなすべきことの一つは、このことでした。己の状態を確認にし、自分には確かに救い主が必要なのだと思い知ること。このアドベントの時、皆で自分の罪を自覚すること。私には救い主が必要であることを告白することに、取り組んでいきたいと思います。
 バプテスマのヨハネがしたことの一つ。それは悔い改めを説くことでしたが、もう一つなしていたことがありました。それが続くところに出てきます。

 マルコ1章7節〜8節
彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。

 自分の働きが多くの人に認められた場合、我こそは素晴らしいとする誘惑に陥るもの。しかし、バプテスマのヨハネの姿は清々しいものでした。自分がどのように神様に召されているのか、その自覚がある者の姿です。
 私よりも力ある方が来る。私自身は、その方のくつひもを解く値打ちもないと言います。くつひもを解く。当時は奴隷の仕事でした。しかし、救い主と比べるならば、その働きをする値打ちすらないとの宣言。こうして、ヨハネは自分のことを宣べ伝えるのではなく、救い主を伝えるのです。
 更に言います。私は水でバプテスマを授けたが、その救い主は聖霊のバプテスマを授ける、と。
 「私のなしているバプテスマ、洗礼とは、罪の自覚を促し、救い主の必要を覚えさせるもの。水のバプテスマを受けて、それで完全に罪が清くなるというものではない。しかし、救い主がなすのは、聖霊のバプテスマ。それを受ける者の罪を完全に取り除くことが出来る方である。」とです。あくまでも救い主の前ぶれに徹するヨハネ。先駆けのヨハネ。かくありたいと思うところです。
 以上、マルコの福音書の冒頭、バプテスマのヨハネの記事を見てきました。今日のテーマは、キリストの到来に備える。クリスマスにむけて、自分自身を整えるとはどのようなことか、でした。神様は、キリストの到来の前に、先駆けとしてヨハネを備えて下さった。ヨハネの働きは、キリストの前ぶれをし、人々を整えること。
 それではバプテスマのヨハネが為したことは何でしょうか。一つは悔い改めを解くこと。罪の告白を促すことでした。これから二週間、クリスマスに向かっていきます。私たちは自分の生活を省みて、悔い改めることがないか。罪を告白すべきことはないか。真剣に取り組んでいきたいと思います。

 今日の聖句です。
 ヨハネの手紙第一1章9節
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 もう一つ、クリスマスに備えるために、私たちがすべきこと。それは、罪人には救い主が必要であることを知っている者として、それを知らずに生きている人に伝えることです。自分の罪に無自覚な家族、仲間に対して、その本性を指し示し、救い主を待ち望むよう勧める。私たちは、やがてこられる再臨のキリストの道備えをする者であること。バプテスマのヨハネに自分を重ね合わせ、それぞれの立場でキリストを指し示す者でありたいと思います。
 教会ではクリスマスの準備が進められています。飾り物が出され、クリスマスの案内が配布され、集会の準備をしているところ。着々と進められています。しかし、これだけで良いのかというと、そうではなかった。飾りつけや集会の準備も必要ですが、それと同時に、いやそれ以上に、私たち一人一人が、クリスマスに備える必要がある。アドベントにすべきことの一つは、私たちが、本当に悔い改めること。自分には、救い主が必要なのだと頭を垂れること。キリストの誕生の意味を考え、味わうこと。そして、まだキリストを知らない人に、救い主の必要性を伝え、キリストの到来を受け入れるよう導くことでした。
 このアドベントの時期、皆様とともに、キリストを迎える者として、自分自身を整えていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師