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メッセージ
私たち夫婦が結婚する前のこと。なかなか結婚に踏み切ろうとしない私の態度に業を煮やしたのか、牧師の小畑先生が「俊、おまえは何を考えているんだ。聖子はマリヤさんのような女性だ。あんなに純粋で、優しくて、神さまに忠実な女性は、もうお前の生涯に二度と現れないぞ。とっとと結婚しろ。」と勧められたと言いますか、叱られたことがあります。
小畑先生は名うての結婚勧め魔、結婚仕掛屋。別名結婚強制魔。結婚させるためなら手当たり次第に何でも言うという、今振り返るとちょっと信用できない面もありましたが、この一言がいつまでも 妻と友だち気分でいた私の心を、結婚に向けて一歩踏み出させる原因の一つとなった気がします。
結婚してからも、しばらくの間は「マリヤは元気か。お前のことはいいからマリヤの声が聴きたい。あの子にあんまり苦労をかけるなよ。」と、時々我が家に電話がかかってきました。妻がどれほど純粋で、優しいかはともかくとして、神さまに忠実であることは間違いがなく、私も随分助けられました。
今日マリヤと言えばイエス・キリストの母、イエス・キリストの母といえばマリヤ。その名を知らない人はいないでしょう。
ある調査によると、今でもアメリカでは、我が子に娘が生まれたらマリヤと名付けたいという親が一番多いそうです。また、世界中に形を変えて、マリヤという女性の名が存在します。日本にだって、何とかまりやさんという女性が増えてきました。
しかし、マリヤも元はと言えば、ユダヤの田舎ガリラヤの小さな村ナザレに住む名もない娘です。
そのマリヤが、人となってきたりたもうひとり子の神、イエス・キリストをみごもると告げられました。そして、その喜びを歌った歌が「マリヤの賛歌」であり、後にマグにフィカートと呼ばれ、キリスト教会の代表的な讃美歌、貴重な遺産となったのです。
御使いのみ告げを聞いて、「どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように。」と膝づいたマリヤ、神に忠実なマリヤには歌心もあったということでしょう。
当時、ユダヤの人々の信仰は旧約聖書によって養われていましたが、彼女もそのひとりであったようで、特にマリヤはそれを歌にする賜物に恵まれた人、女流歌人だったのです。
先ずは、その歌い出しの第一声からして、マリヤの宗教がいかなるものかを教えられます。
1:46,47「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。』」
マリヤは「わがたましいは」といいます。「わが霊は」と言いました。私の口、私の行いではなく、「私のたましいは」「私の霊は」という宗教です。
ちょっとした自分の善行を誇る宗教家や、規則を守り、行い澄ましていた社会のエリートたちとは違って、彼女は、神が何よりも人間のたましいをご覧になる方、人間の霊、心を重んじるお方であることを知り、恐れていました。
そして、マリヤは、「主」をあがめ「神」を喜びたたえています。彼女があがめたのは、「主」であり、彼女が喜んだのは「神」でした。彼女があがめたのは「主のご利益」ではなく主御自身、彼女が喜んだのは「神の贈り物」ではなく神御自身だったのです。
お母さんが一生懸命作ってくれたご馳走は喜んで食べたのに、作り手であるお母さんを忘れる子どもがいるとしたら、何と薄情なことでしょう。お母さんが夜なべをして編んでくれた手編みのセーターを受け取りながら、与え手であるお母さん自身に感謝しない子どもがいるとしたら、何と恩知らずなと思われます。
しかし、往々にして、私たち人間は「主のご利益」をあがめて「主」を忘れ、「神からの善きもの」を喜んで、「神」を知らない、感謝しない存在ではないでしょうか。
ご利益を感じないと、主を批判する。善い物が見えないと、「神」を呪う。それが常識ともなっているこの世にあって、恵みがあろうが無かろうが、主を主としてあがめる。善き物が有ろうが無かろうが、神を神として喜ぶ。
こうしたマリヤの信仰こそ、神の救いに預かった者のしるしであり、信仰本来の姿であることを、私たち教えられたいのです。
ウエストミンスター小教理問答も、その第一問で「人の主な目的は何ですか。」と問い、「人の主なる目的は、神の栄光を顕し、神を永遠に喜ぶことである」と、答えていました。
神様のくださる何かではなく、神御自身を喜びとするマリヤ的信仰こそ、私たち長老教会が大切にしてきたものであることを確認したいと思います。
しかも、です。マリヤは、その胎から救主を産むという世界でたったひとりの特権、唯一の光栄を受けながら、決して自分を誇ることのない女性でした。マリヤは自分について何と告白していたでしょうか。
「私こそ救い主の母、私こそ聖母」と、歌ったでしょうか。そうではありませんでした。旧約聖書以来預言されてきた神が人となるとき、救い主の母となるという特権が、自分のような者には全くもってふさわしくない、と感じていたのです。
マリヤという人は、そのような大役に値するものを何一つ、自分の中に見つけることが出来ませんでした。彼女が自分の中に見つけることができたのは、ただ卑しさ、罪深さだけ、だったのです。
1:48「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」
カトリック教会では、このようなマリヤのことを「聖母」とか、「神の母」とか持ち上げる人々がいます。「アベ・マリア」とイエス・キリストと等しく崇める人もいます。しかし、そんなことを夢にも思わなかったのが、マリヤという人ではなかったかと思われます。
彼女は聖母、聖なる母どころか、自分の卑しさを人一倍思う人でした。イエス・キリストの母として崇められるどころか、自分もキリストの救いを必要とする罪人のひとりとして、神さまの前に控える人だったのです。
また、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と喜んでいますが、彼女の言う幸せとは、一体何だったのでしょう。
それは、自分が救い主を宿すという特別な光栄に預かったことではなく、自分のような卑しい者に、主なる神様が目を留めてくださったという、事実ひとつでした。
彼女は、自分が人々の前で、聖なる母として、まるで女神のようにたたえられることを願っていたのではなく、むしろ、自分のような者に、信じられないほどの恵みを与えてくださった神がほめたたえられるのを切に願っていたのです。
自分に価値があったからでなく、自分が何かをしたのでもなく、ただこんな罪深い者を恵みと幸せで包んで下さった神がほめたたえられるように。神にのみ栄光があるように。マリヤはこんな女性であり、信仰者でした。
今日、私たちは礼拝のたびに主の祈りを唱え、「御名を崇めさせたまえ」と祈ります。しかし、果たして、自分はひたすら低く、しかし、神はひたすら高くと心から願う信仰がそこに込められていたか。もう一度自分を省みる必要があるように思います。
さらに、マリヤの美点は、主なる神様のあわれみをただ自分独りに限らなかったことです。彼女は、あわれみはすべての主を恐れる者に者に及ぶと歌いました。
1:49,50「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名はきよく、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」
このような場合、もしマリヤが自分一人のことを歌ったとしても、誰も文句を言えないと思われます。しかし、彼女は、「主なる神の憐れみは、私独りのものではありません。すべて主を信じる人々のものです。それも、時代を超えて、代々の人々のものとしてどこまでも広がってゆくものです。」と告白しました。
主なる神様のあわれみを一人じめにしようとは考えなかったマリヤ。むしろ、「私のようなはしためが、こんなにも大きなあわれみをいただいたとすれば、誰でも、いつの時代の、いかなる人も神のあわれみをいただけないことはないはずです。」と、神のあわれみの広さを信じ、人々の幸いを心から願うのがマリヤだったのです。
そして、「代々にわたって及びます」と、歌った時、マリヤの眼は代々にわたって、つまり、長い歴史の中で主なる神がなされた力強いわざへと向けられました。
名もなき女性マリヤの心に、こんなにも大きく、力強い神さまが生きていたかと思わされる、雄渾な調べとなっています。
1:51〜53「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」
これが、本当に女性の歌かと驚かされるような力強い調子です。「御腕をもって力強いわざを」とか、「高ぶっている者を追い散らし」とか、「権力ある者を王座から引き降ろす。」など、女性らしからぬ男勝りの調べとも聞こえます。
事実、遙か昔のアッシリヤ帝国も、バビロン帝国も、ペルシャもローマも、人間が築き上げ、高ぶった権力は、目に見えぬ神様のみ腕によって、次々と泥の人形のように王座から叩き落とされ、宙に消えていきました。
また、「飢えたものを満ちたらせる」とか、「富める者は何も持たせずに追い返す」ということばには、思わずハッとさせられます。クリスマスというお祭りが、果たして自分と自分の家族の幸せを願い、祈るだけのものとなってはいなかったか、と省みさせられるのです。
ナザレ村の貧しい女性マリヤが、自分一人が満ちたりることより、広く社会における正義や福祉の実現に思いを向けていたという事実に、私たち心打たれる必要があるでしょう。
とかく個人的平安や幸福にのみ心が向きがちな私たちの生き方を、飢えたる者、貧しき人、苦しむ人々への愛の奉仕に向けよ、と教えてくれているように思われてなりません。
さて、いよいよマリヤの賛歌の締めくくりとなります。この最後の部分では、主なる神様の真実が静かに歌い上げられました。
1:54,55「 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
神様はいつもあわれみを忘れず、この世界とそこに生きる私たち人間のことを心配してくださっている。それに対して、人間はいつも神を忘れ、神に背くことばかり。
しかし、何度人間に忘れられても、背かれても、神様の側は絶対に人間を忘れず、愛してくださり、救い主を送るとの約束を果たしてくださったのです。今マリヤがみごもるイエス・キリストこそ、まさしく神様の「あわれみ」のしるしでした。一度結んだ約束は決して忘れることのない、神様の真実のしるしだったのです。
こうして読み終えたマリヤの賛歌、マグニフィカートから、今日覚えたいことが二つあります。
ひとつは、私たちにとって本当の幸せとは何でしょうか。経済的な境遇が改善することでしょうか。社会的な名声を得ることでしょうか。権力を手にすることでしょうか。健康で快適な生活でしょうか。
マリヤにはこれに対する確かな答えがありました。それは、自分のような卑しい者に、神さまが目を留めてくださる、ということです。
たとえ、経済的状況が変わっても、社会的立場を失っても、権力があってもなくても、病の中にあったとしても、私たち一人一人を大切に思い、これに目を留め、心砕き、最善をなしてくださる主なる神様の愛は変わることがない。この神を知り、この神と交わる以上の幸いがあるでしょうか。
この世界を創造した神様の眼にいつも留まり、愛されているという恵み。この恵みひとつで満ち足りて生きる心を与えられたら、と思わされます。
ふたつめは、神様の思いを我が思いとして生きることです。神様の御眼は広く世界に向けられ、特に貧しい者、弱き者、苦しむ者へのあわれみは強くありました。来るクリスマスを、このような神様の思いを我が思いとする時としたいと思います。
自分一個の懐を満たすことより、隣人の福祉、隣人の幸いのために心砕き、労苦する者。クリスマスにおいて、イエス・キリストが実践してくださった愛の一端を、私たちも隣人のため、社会のため、分かち合ってゆけたらと願わされます。
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