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2011年2月13日
礼拝メッセージ
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「世界の初めの歴史(10)」
−最初の救い主預言−
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聖書
創世記3章14〜21節
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
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メッセージ
神さまによる天地創造の経緯が一気に語られたのが第一章。この世界は偶然できたものではなく、神さまが人間を生かし、人間が活躍する舞台として整えられたものであることが、教えられました。続いて、美しく豊かな自然に恵まれたエデンの園で、神さまと親しく交わり、男女仲良く暮らす、人類の先祖の生活が描かれたのが第二章です。
そして、第三章は、神さまを裏切り、背いたアダムとエバの惨めな様子、そんな彼らになおも御声をかける神さまの姿が印象的なところです。
3:8、9「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とのその妻は、神である主の御声を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」
「あなたがたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」との、大きな恵みと自由を与えられていたのに、「園の真ん中にある木からはとって食べてはならない。」という、たったひとつの禁止命令に不満を感じ、神に背いたのが人間でした。
神は最善を尽くしてこの世界を創造した。最高の愛を、惜しみなく人間に注がれた。それなのに、人間は神の恩を忘れ、その愛を疑い、禁止命令の背後にあるご配慮を理解しようとしませんでした。むしろ、神のようになれることに魅力を覚え、神を必要としない生活を選んで、神のおこころを痛ませ、悲しませたのです。
にもかかわらず、そんな人間を神は探し、求め、優しくお声をかけてくださいました。「あなたはどこにいるのか。」と。
もちろん、神の側は人間が何をしたか、どこに身を隠しているのかなど、先刻承知の上でした。そうだとすれば、何故「お前たちを追放する」と、即刻断罪せず、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたのでしょう。
それは、この呼びかけに対し、アダムが素直に「はい、ここにおります。」と応え、神の前に出てくるのを願ったからでしょう。しかし、残念ながら、そうはなりませんでした。アダムは、神の問いかけにまっすぐ答えることなく、弁解したのです。それも、実に雄弁でした。
3:10「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」
「はい、ここにいます。」と応えればよいのに、初めから言い訳、弁解に終始するアダム。しかも、みことばに背いて、禁断の木の実から食べたことには一言も触れていません。ひたすら、裸であること、すなわち自分の惨めさ、虚しさを訴え、「神さま、あなたが怖いので」と文句を言うばかりなのです。
その間、アダムは木の間に隠れたまま、罪を告白することをしませんでした。それならばと、神は堪忍袋の緒を切らして、人間を引っ張り出し、罪を責めたのかといえば、そうではありませんでした。神は、またも関係回復のチャンスをお与えになったのです。
道行く旅人に対し冷たい風を吹き付けて、上着を脱がそうする北風。暖かい陽の光を燦燦と注いで、旅人が自ら上着を脱ぐよう導く太陽。「北風と太陽」と言うイソップの物語は皆さんもご存知でしょう。これに準えるなら、神はどこまでも太陽タイプでした。
3:11,12「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」
罪を告白し、赦しを請う二度目の機会。アダムは神の寛容に打たれて、素直に「私はあなたの前に罪を犯しました」と応えたのかというと、残念ながらそうではありませんでした。ようやく観念したのか、食べたことは認めたものの、それを他人のせいにしたのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」というのが、その科白でした。
この間まで「私の骨からの骨、肉から肉」と呼んで、一心一体の助け手であるエバに感謝していたくせに、今は逆に「この女が」と冷たく、突き放すアダム。
女のせいにするとは卑怯で、頑なで、偽善的。「こんな嫌な奴はいない。」とも思いますが、「このアダムの性質、自分の中にはない」、と言い切れる人は、ひとりもいないでしょう。人に責任をなすりつける、人のせいにする。責任転嫁という病気は、誰の心にも巣食っている、と思われます。
しかも、アダムの言い訳は、奥さんのエバだけでなく、神のせいにもしているように見えます。「木の実を私に手渡したのはこの女ですが、この女を私のそばに置いたのは、確か神さま、あなたでしたよね。」と、言う風にです。
教会の裏、西側にある道路、これは交通事故の名所じゃないかと思うほどに、よく交通事故が起こりますが、ある夜大きな音とともに現場に駆け付けた時、二人のドライバーの言い争いを目にしました。
ひとりが「あなたが、ちゃんと一旦停止してなかったじゃないか」と責めると、もうひとりの方は「あなたこそスピードの出し過ぎだ」と言い返す。ついには、「そもそも、ここに徐行運転の看板がないのが問題。信号がついてないのが悪い。県の責任だ。」等と言い出す。
小は親子喧嘩、兄弟げんかから隣近所のトラブル。大は国と国との紛争に至るまで、身から出た錆を他人のせいにする、というこの病気がなかったら、どれほど平和な社会、世界であったことかと、思わされます。
神の恵みに囲まれ、人にも良くされ、至極順調な時には、神にも人にも感謝したことなどないのに、逆境になると、責任逃れの言い訳と責任転嫁に終始する。神から離れて生きる時、私たち人間は何と自己中心な存在か、と思わされます。
一方、女エバはどうだったのでしょうか。
3:13「そこで、神である主は女に仰せられた。『あなたは、いったい何ということをしたのか。女は答えた。蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。』」
アダムがエバのせいにすれば、エバは蛇のせいに。エバさんもまた責任転嫁の病気にかかっていました。
忘れ物が多いこと、整理整頓ができないこと、失敗をすると謝らず、笑ってごまかそうとすること。これは私の弱点です。こうした私の行動を見るにつけ、母がよく言いました。「お前は、本当にお父さんの子だねえ。」
また、高校生の頃手に取った芥川龍之介の本に、主人公がある人から「あなたは期待通りを裏切った」と責められた時、「 それは僕の責任ではない。 四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ。」と答えているのを読んで、妙に納得したことを覚えています。
遺伝、親が悪かった、境遇、周りの環境が悪かった、偶然、たまたま運が悪かった。もちろん、人生における不幸、不運のすべてが罪のせいではないでしょう。しかし、神から離れた時、私たちは言い訳と責任転嫁の天才になりうるという事実は、いつでも胸に刻んでおく必要があるように思います。
こうして、あれほど神に愛され、期待された人間。エデンの園で至れり尽くせりの恵みに取り囲まれた人間が、神を裏切った、そればかりか、自分の罪を他人のせい、環境のせい、神のせいにさえしようとする。何とも酷い有様を見てきました。
そして、今度こそ、今度こそ、神さまの聖なるさばきが、こんな人間の上に下されるだろう、そうなって当然と思われますのに、以外や以外、神の厳しいさばきは人間ではなく、蛇とその背後にいたサタンに向けられたのです。
3:14「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえはあらゆる野の獣よりも呪われる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』」
蛇という動物は、今でも首をもたげ、まっすぐ立ちあがることができます。エデンの昔、蛇は高慢な様子でそそり立ち、人間を誘惑したのでしょうか。だから、神は、一生腹ばいで歩き、ちりを食べるという辱めを与えたのでしょうか。とにかく、本来人間が受けるべき罰は蛇を使って人間を誘惑したサタンに下されました。
それだけではありません。神は、この何とも情けない人間たちをとことん守ることを宣言、約束されたのです。
3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
不思議なおことばです。ここで、神が「おまえ」と言っているのは蛇と蛇の背後にいるサタンのこと。そして、蛇サタンと女の子孫、つまり人間との間に敵意を置くというのは、誘惑者サタンの側に取り込まれた人間をサタンから切り離し、両者の間に敵意という壁を置いて、人間を守ろうという意味だ、と考えられます。
どんなに人が背いても、逃げても、隠れても、そのままにはしておけない、危険なサタンのもとには置いておかない。ご自身のもとに導き返そうという神さまの愛の表れでした。そして、ここに、聖書で最初の救い主に関する預言が響き渡ります。
3:15b「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
イギリス、ケンブリッジのキングス・カレッジの教会が放送するクリスマス礼拝では、まず始めにこの預言が読まれるそうです。
すなわち、「彼」はイエス・キリストを、「お前の頭を踏み砕く」とは、キリストが人間を神に背かせようとするサタンを決定的に滅ぼすことを、「かかとにかみつく」というのは、キリストが十字架で受ける死の苦難を示すもの、と伝統的に考えられてきました。人類の罪という罪のすべてを背負って、十字架に上り、罪の贖いを成し遂げるため世に来られる、キリスト預言です。
さて、今日の個所から、私たち覚えたいことが三つあります。
ひとつは、私たちは紛れもなく、人類の先祖アダムとエバの子孫であることを認めねばならない、ということです。今日の個所に描かれたアダムとエバの言い分、その態度、その性質、これらを私たちも受け継いでいないでしょうか。
ローマ3:10〜13「義人はいない。ひとりもいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「完全な社会が到来すれば、罪を犯す人などいなくなる。」と、考える人たちがいます。はたして、本当にそうでしょうか。これ以上はないと思えるほどの完全、完璧な環境の中に置かれながら、神の恩を忘れ、しかも言い訳と責任転嫁に終始した先祖のことを思う時、人間の堕落は本当にすさまじいもの、と思わざるを得ません。
むしろ、自分が神の前に徹底的な罪人であることをいつも覚える者、自分の罪を悲しむ者、そして素直に罪を告白する者でありたい、と思います。
ふたつ目は、愛と寛容に満ちたもう神さまに、日々心の目を向けて、歩むということです。
ある人々は言います。「新約の神は愛の神、優しい神。対照的に、旧約の神は怒りとさばきの神」だと。しかし、そんな表面的な印象は、この創世記を読む限り、心から一掃すべきでしょう。
神さまの絶大な恵みを思えば、背いた人間は滅びに価する。しかし、その罪人を神さまはなおも愛し、生かしめ、助け、罪の中から贖ってくださるという。そのために、自ら人の仲間となり、人の代表として、十字架で身代わりの死をとげてくださるという熱心な愛。ダメな子どもを身を挺して救わんとする親の様な愛。
神による創造のすばらしさと人間の堕落の酷さを教える創世記。これにより、私たちは、神さまが愛にましますことを、ますます知り、見つめ、味わう者となりたいのです。
三つ目は、この神さまとの親しい交わりに立ち帰る、ということです。
「人間はあるべきところから落ちてしまっている。」というのは、パスカルという人のことばです。今日の個所を通して、私たちは自分が本来あるべきところを知りました。それは、神さまのみ前、神さまとの親しい交わりの中でした。
この礼拝において、神さまは私たちに「あなたはどこにいるのか」と声をかけてくださっています。そう聞かれて、もし「自分は本来あるべきところから、落ちている。離れてしまっている。」そう思うなら、救い主にところに立ち帰りたいのです。
ヨハネ6:35「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」
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四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師 |
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