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2011年2月20日
礼拝メッセージ
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「キリストとサマリヤの女(3)」
−礼拝者を求める神−
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聖書
ヨハネの福音書4章16〜26節 4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
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メッセージ
今より約二千年前。サマリヤのスカルという町に住んでいた一人の女性。人生が破綻し、人目を避ける生き方。日陰の人生を送る女性。その一人の女性がキリストに出会い、人生が変わっていく場面。キリストとサマリヤの女性の記事を読み進めているところです。キリストと出会い人生が変わった人は、聖書の中に多く出てきますが、この女性については記事の分量が多く、かつ詳細。女性の心情の変化が見て取れ、興味深いところ。キリストと女性の会話の中に、「生ける水」のことや「礼拝」についての重要性な教えが含まれており、必見の箇所と言えます。
ここまで2回に渡って読み進めていますが、今一度キリストと女性との会話のやりとりを確認しておきたいと思います。
今より約二千年前。この地方は三つの領土がありました。南に位置するのがユダヤ。北に位置するのがガリラヤ。その中間にあるのがサマリヤです。キリストは南のユダヤにいたのがですが、騒動がおきそうなのを見て、北のガリラヤに移動します。南から北へ、その移動途中、サマリヤを通り、ここで一人の女性と会います。
しかし、移動途中にたまたま一人の女性に出会ったのかというと、そうではありません。むしろ、この女性に会うために、この場所に来られたと記されていました。
ヨハネ4:3〜4
「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
何故、キリストはサマリヤを通っていかなければならなかったのか。この女性に会うため。この女性に、生ける水を与えるため。大切な真理を伝えるためです。一人の人間に会うために、キリストが「行かなければならなかった。」と表現されるのはすごいこと。本来なら逆でしょう。人間が神に会うために努力すべき。人間が神に仕えるべきところ。しかし、キリストは、私たちのために労し、仕える方。神様の方から近づかれるのです。
この女性にだけ特別にしたのかというと、そうではありません。「迷子の羊」と呼ばれる、キリストのたとえ話をご存知でしょうか。迷いに迷った人生を送っている者。神から離れ、転げ落ちて行った者を必死に探す救い主の姿が出てきます。
ルカ15:4〜6
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」
サマリヤの女性のために、キリストが労するのは、何もキリストらしからぬことをしているわけではないのです。むしろご自身に適したことをしていたのです。私たちの救い主は、私たちのために労し、仕える方。
それも徹底的に心を尽くし、配慮し、この女性が心を開くのを待つ救い主でした。弟子たちは買い物に行かせ、疲れた旅人として自ら女性に水を求めます。人目を避けていた女性が、心開いて会話が出来るようにとの配慮が見て取れるのです。私たちの神は世界を造った方。王の王。その方が、一被造物のために、ここまで心を配る。低くなるという福音でした。
このような配慮に基づき、キリストとサマリヤの女性の会話が始まりました。会話の切り口となったのは「水」でした。目の前にあるものを題材に、真理を語るというのは、イエス様がよくした手法です。「空の鳥を見よ。」とか、「野のゆりを見よ。」とか。「種まき」や「家を建てる」ことを題材に、たとえ話が語られました。この時は井戸のそばで、「水」を題材に会話が始まるのです。
ヨハネ4:10
「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
ここでキリストが言われている生ける水が何かということが、前回確認したことの中心でした。生ける水とは、神様ご自身のこと。あるいは、神様との関係の回復です。このことを、聖書は生ける水と表現することもあれば、永遠のいのち、新しく生まれると表現することもありました。
イエス様の方では、この神の賜物、生ける水がどのようなものか説明をしているのですが、女性の方はなかなか理解しませんでした。キリストが言う「生ける水」を飲む者は決して渇くことがないと聞くと、この井戸まで来なくて良くなるとしたらどれ程楽になるかと思い、その水を下さいと願うのです。
ヨハネ4:13〜15
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」
この女性はキリストが下さる生ける水について、この段階でしっかりと理解していなかったでしょう。しかし、それでも願ったこと。その生ける水を下さいと願ったことは良かったのです。私たちの救い主は、求める者を無碍にすることなく、むしろ誤解を解き、正しく求めることが出来るよう導く方。
この女性が自分の問題の本質を見据え、正しくキリストに求めることが出来るようになるために。そのために、キリストが次の一手を打ちます。
ヨハネ4:16〜19
「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。』」
キリストが与えようとしている「生ける水」。神との関係の回復。真に神を信頼出来るようになるための命。それこそ、この女性が真に求めるべきものでした。この女性は、自分の魂が渇ききっていることに気づく必要があり、そのためにイエス様は夫の話を出したのでした。
この女性は、夫についてのやりとりを経て、自分の必要性に気付くと同時に、目の前にいる方が、ただの旅人ではないことに気付き始めます。最初は疲れた旅人と思っていたのが、先生と呼び、ここにきて預言者だと思うと言います。実際には、預言者の主なのですが、少しずつ理解が深まっているのが分かるところ。
自分の罪を意識し、目の前にいるのが「預言者」だと思った女性は、続いて礼拝についての質問をします。
ヨハネ4:20
「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
何故、この女性は礼拝についての質問をしたのでしょうか。それは、自分の罪深さをえぐり出された時。自分で自分の罪を認めた時、それをなんとかしたいと願う。神様に向き合いたい。神様に礼拝したいと思ったからです。
罪を自覚した時に、神に向き合いたい。そう願った女性。これは特別なことかといえば、そうではありません。一週間教会にいますと、時々、罪の告白に来られる方がいます。それも、初めて教会に来る人。キリスト教のことを知らない方です。自分で考えても大変なことをしてしまったと思う人は、そのことを悔いていることを聞いてもらいたい。赦しを得たいと願います。罪の自覚は、そもそも人間に与えられている神様への感覚を、呼び覚ますことがあるのです。
キリスト教を知らない人ですらそうなのだとしたら、聖書を知っている人はなおさらでしょう。いかがでしょうか。罪を自覚し、なんとかしないといけないと思ったことはあるでしょうか。この罪が赦されたという平安を得たいと、神様に向き合う経験があるでしょうか。
この女性は、サマリヤの女性。サマリヤ人は、旧約聖書の一部分を持っていました。(ただし、自分たちの都合の良いように改ざんしており、そのこともユダヤ人とサマリヤ人の関係を悪くする一要因でした。)そこで、自分の罪を目の当たりにした時に、神を礼拝することへと思いが導かれたのです。
しかし、女性はここで一つの課題に思いいたります。目の前にいる預言者と思える人は、ユダヤ人。礼拝についてユダヤ人が言うことと、サマリヤ人が言うことに違いがあり、果たして自分はどのように神様を礼拝したら良いのか。そこで、「私には罪があり、罪赦されるためにはいけにえをささげなければなりません。しかし、どこでいけにえをささげれば良いのでしょうか。ゲリジム山なのか、それともエルサレムでしょうか。」との質問となったのです。
この質問、この女性はどこで礼拝すれば良いのかということを聞きたかったのですが、これを引き金にして、礼拝における非常に重要なことを、キリストが語られることになるのです。
ヨハネ4:21〜22
「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」
どこで礼拝したら良いのか。その答えとして、「この山、つまりサマリヤ人が大切にしているゲリジム山でも、エルサレムでもない。そういう時が来る。」と語られます。ある一つの場所ではなく、どこでも礼拝出来る。そのような時が来るとの宣言。
もう一つ。礼拝について大切なことが語られています。それは「知識」のこと。礼拝は知っている方を知識に従って拝し、信じるべきであると押さえられたのです。鰯の頭も信心から、ではいけない。神様が聖書を通して語られている知識に基づいて礼拝することの大切さが確認されます。
こうして更に礼拝について、確信部分に話しが進みます。
ヨハネ4:23〜24
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
非常に重要な言葉ですが、イエス様はここで何を言おうとされているのか。まず23節の言葉に注目したいと思います。
ここで「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来る。今がその時です。」と言われています。この「真の礼拝者」の「真」という言葉と、「霊とまこと」と言われる「まこと」という言葉は、どちらも同じ言葉です。この「まこと」という言葉は、ヨハネの福音書によく出てくる言葉で、影に対して本体、未完成に対して完成、約束に対して成就を意味する言葉。つまり「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来る。今がその時です。」というのは、「これまでは未完成だった礼拝が、いよいよ完成となる。まことの礼拝がささげられる時が来る。いや、今がその時だ。」と言われているのです。
この時まで続けられてきた、神殿でいけにえがささげられる礼拝。これは未完成の礼拝であった。何故なら、動物のいけにえは、やがて来る救い主が罪人の身代わりとなることを指し示すことは出来ても、動物のいけにえ自体に罪を取り除く力はなかったからです。人の罪を完全に取り除くことが出来るのは、キリストの十字架のみ。動物のいけにえが指示していた本体であるキリストが来た。キリストの到来により礼拝の完成となるのです。
つまり、礼拝が大きく変わること。いや礼拝が完成するという宣言でした。それまで神殿でいけにえをささげることが中心だった礼拝。それが、キリストを信じて完全に罪赦されたものが、世界の各地でささげる礼拝となる。ゲリジム山でも、エルサレムでもない。キリストという、完全ないけにえがささげられた以上、もういけにえがささげられることはなくなるのです。
もう一つ。ここでイエス様が強調している言葉に、「霊」という言葉があります。「霊とまことによって礼拝する」とか、「神は霊ですから」と言われています。この「霊」とは、何のことでしょうか。今日の箇所の少し前の記事に、神様が霊であり、その神から生まれる者は、霊であると教えている箇所があります。
ヨハネ3章6節
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
この箇所によりますと、神の霊によって新たに生まれた者が、霊を持っているのです。
ヨハネ4章に戻りますが、「霊とまことをもって礼拝する」という時の「霊」とは、神の霊の働きかけによって新しく生まれた者であることが求められていると理解出来ます。
つまり、「霊とまことによる礼拝」とは、「神様が下さる霊をもってささげる、神様が完成された礼拝」ということです。今や、そのような礼拝をささげる時がきた。そのような礼拝をささげる礼拝者を、神は求めている。キリストは、罪人をそのような礼拝者に整えるために来た救い主だということです。
ここまで会話が進み、この女性の理解は更に進みます。
ヨハネ4:25〜26
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」」
礼拝について、権威ある者として語るイエス様。その言葉を聞いてサマリヤの女性は救い主の話を始めると、イエス様がずばり「あなたと話しているのがそれです。」と答えるのです。おそらくは、イエス様が一番伝えたかったこと。ご自身こそ、救い主であるというメッセージがついに語られるのですが、詳しくは次回以降に確認しようと思います。
以上、今日はキリストとサマリヤの女の会話のうち、後半の部分。主に礼拝にまつわる会話を中心に見てきました。
キリストが与えようとしている「生ける水」。この「生ける水」を私たちが最も味わうのは、「霊とまことによる礼拝」を通してです。キリストを信じる者にとって、「霊とまことによる礼拝」は最上の喜びであると同時に、神様は「霊とまことによる礼拝」を喜びとする礼拝者を求めていました。
いかがでしょうか。私たちは今日の礼拝を、どれほどの喜びをもってささげているでしょうか。キリストを信じるとは、罪人が真の礼拝者に変えられること。罪人を真の礼拝者にするために、キリストは十字架にかかられたと言って言い過ぎではないでしょう。
キリストを信じている私たち。真の礼拝者として整えられたことを覚え、「霊とまことによる礼拝」を心から喜び、楽しむ者でありたいと思います。
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四日市キリスト教会 大竹 護牧師 |
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