2011年2月6日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(9)」
−あなたは、どこにいるのか−
  聖書
創世記3章1〜10節

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」


  メッセージ
 聖書の最初に登場する本は創世記、世界が創造された時の記録とも読めますし、世界の初めについての記録とも読めるでしょう。1章から50章まで。長さもさることながら、その内容もキリスト教にとって極めて重要、キリスト教信仰の土台と言うべきものであることから、時に大創世記とも呼ばれてきました。
 「世界の初めの歴史」と名づけた創世記からの学びも今日で第九回目です。振り返ってみますと、第一章では神による天地創造の様子が一気に語られました。続く二章では、人間が神のかたちに、また仲良く男女に造られたことが記されていました。そして、今日は第三章となります。
 最初混沌としていた世界に光が導かれ、大空が開ける。陸と海が分かれ、陸地には植物、大空には太陽と月がセットされる。続いて、海に魚群れ、空に鳥舞い、世界は生き物で活気づく。そして、第六日。地上に家畜、はうもの、野の獣が誕生し、世界に一層豊かないのちが溢れると、最後に人間が創造されて、ついに完成に至る。一言で言えば、神さまによって人間が生かされ、活躍する舞台が出来上がった。これが第一章です。
 二章では、人間のために備えられたエデンの園の美しい光景に、私たち思わず息を呑みました。緑豊かな園、たわわに実る果樹、園を潤す川、土の中には金に宝石。そんな至れり尽くせりの楽園で、楽しい労働に励み、動物たちと仲良く暮らし、妻エバとの交わりに恵まれる人類の先祖アダム。その姿に心洗われ、「人間とは本来こんなにも幸いな者だったのか」との思いがしたのは、私ひとりではないでしょう。
 エデン、それは私たち人類が失ってしまった楽園、魂の故郷です。と同時に、イエス・キリストを信じる者のために、やがて神さまが必ずや回復してくださる、希望の楽園、故郷でもありました。
 さて、今日の三章では、光り輝くエデンでの生活に暗い影が指します。アダムとエバが神に背き、離れてゆく。人間堕落の場面でした。その元となったのが蛇です。創世記三章は、人間は何故初めの頃の幸いを失ってしまったのか、今日の不幸、悲惨の原因である罪についての物語となっています。

 3:1 「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 蛇が人間に話しかけ、誘惑するとは不思議なこと、と思われます。ここは、神に背き、反旗を翻していたサタンが蛇の姿を借りてエバを誘惑した、と考えられる所です。
 蛇といえば、昔から日本でも神の使いとして尊ばれ、全国各地に白蛇神社なるものが存在します。個人的に言えば、小さい頃、子ども版古事記で読んだ山岐の大蛇の気味悪さも忘れられません。大蛇はドラゴン、竜ですが、聖書では、蛇も竜もサタンが姿を借りて、人間を誘う、いわば悪役として登場してきます。
 ここには「野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」とあります。蛇さんだけが特別に脳細胞が発達しているわけではないので、蛇特有の不気味さ、神秘的な様子、すばしっこさなどが、この様に表現されたのでしょう。
 ところで、誘惑者の蛇がまず語りかけたのは女でした。何故最初に男ではなく、女だったのか。
 未だに被害がたえないオレオレ詐欺。ある調査によると、被害者の七割近くは女性だとか。一般的に騙され易いといわれる女性の弱点が突かれたのでしょうか。それとも、エデンの園の真中に生えていた禁断の木の実について、「これだけは食べてはいけない」と直接教えられたのは男のアダムであり、女エバはアダムを通して間接的に聞いたため、神の命令に納得しがたい思いがあり、それを見抜かれていたからでしょうか。
 いずれにしても、誘惑者サタンの作戦は的中します。すでに蛇の第一声で、女エバの心は揺さぶられました。

 3:1「蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」」

 まず、「神は・・・言われたのですか」と神の名をあげます。さも自分も神を信じているように見せかけ相手を安心させました。その上で「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と本当に言われたのですか。」と尋ねます。
 では、神さまは実際何と言われたのか。聖書で確認しておきましょう。

 2:16,17「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 逆でした。神さまは「園のどんな木からでも食べてはならない」と言われたのでなく、「園のどんな木からも食べてよい」と言っておられたのです。蛇はそれを逆にして、女の心に、禁じられたたった一本の木のことを強烈に意識させ、引っ掛けようとしました。
 この一言で、「どんな木からも食べてよい」と許可してくださった神の寛容が女の心から消え、「この木から食べてはいけない」という禁止命令、つまり神の厳しさだけが気になるようにという目論見です。巧みな心理作戦です。
 そして、誘われるままに答えた女のことばには、既に神への不信が芽生えていました。

 3:2、3「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 「どうして、あの一本の木だけはいけないのか」。不満を感じ始めた女エバ。それが証拠に、彼女は「それに触れてもいけない」と言われた、と付け加えています。
 神さまが言われたのは「食べてはいけない」であって、「それに触れてもいけない」等とは言っていませんでした。それなのに、エバは「そう言われた」、と付け足したのです。「神は厳しい、厳しすぎる。」あれほど良くして下さった神に対する不満、反発の兆しでした。
 さらに、です。女は「あなたが死ぬといけないからだ」と言っています。神さまは「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」、とはっきり語りました。それを、「死ぬといけないからだ」、と微妙にすり変えたエバ。
 しかし、これは重要な変更でしょう。神は「必ず死ぬ」、と強い調子で言われたのに、それを「死ぬといけないから」と弱めた。明らかなトーンダウンです。絶対的な裁きの宣言を、自分勝手に骨抜きにしようとの魂胆が透けて見えます。
 そして、ここまでくれば、後はもう簡単なことでした。

 3:4、5「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」

 もう女の心は自分の側にあると感じたサタンは、「あなたがたは決して死にません。」と断言しました。「本当に食べても大丈夫なの?」迷いの心を抱くエバにとっては、決め手のひとことだったでしょう。
 自分がしたいことと、自分がすべきことの間で思い悩む人は、他の人の強烈な断言を求めている、と言われます。「心配することはない。木の実等食べたって、あなたがたは決して死にません。」
 これで、一気に心を傾けたエバに、誘惑者はさらに最後の一撃を加えました。心に潜むねたみに火をつけたのです。「神が、それを食べるのを禁止したのは、他でもない。あなたたち人間がそれを食べて神に等しくなるのを恐れたからだ。つまり、神とはいかにも親切そうに振舞いながら、実は意地悪な存在なのだ。」と断定して見せました。
 ねたみは、人間にとって最大の心の病、難病といわれます。そこに油を注がれて、誘惑者の側に取り込まれたエバは、もう今までのエバではありませんでした。神さまの正しいことばを不当に厳しいと感じ、神さまの恵みを意地悪と受け取る、そんなひねくれた心の持ち主と化していたのです。

 3:6「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
 人間の堕落、人間が神の恵みから落ちた瞬間です。それにしても、神に背いた人間にとって、禁断の木の実が「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」ものとして、限りなく魅力的だった、というのは印象的です。
 食べるのに良いとは食欲、物欲。目に慕わしいとは、見た目に惹かれる目の欲。賢くするとは、自分を賢く見せたいという見栄っ張り、虚栄心です。物欲、目の欲、虚栄心。これは今も人間の弱点、私たちにとっても他人ごとではありません。
 ところで、男アダムはどうだったのでしょう。アダムは男らしく誘惑者に抵抗して、神に信頼する道を選んだのかというと、そうではありませんでした。
 女エバが神に背くのには、サタンが知恵をこらしてあれこれと誘う、手間がかかりました。それに対して、男の方はと言えば、「女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」このたった一行で堕ちるという情けなさだったのです。「男の弱点は女」というのも昔からのことなのだ、と思わされる一齣でした。
 そして、食べた結果はどうだったのか。ふたりが「神のようになれる」ということばで期待していたようなすばらしい状態ではなかったようです。

 3:7「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 彼らは神さまの愛に憩う、心の平安を失いました。その代わりに、神のようになれると思った高慢、神を裏切るという卑しい性質、お互いに対する不信、そういった恥ずべき罪が自分の中にあることに気がついたのです。いかに彼らが自分の惨めさを恥ずかしく思い、あんなにも優しい神さまを恐れ、人目を気にするようになったか。それは、仕様もないイチジクの葉っぱで間に合わせのおおいをこしらえた、と言うことからも伺われるでしょう。
 しかし、です。こんな人間をどこまでも追い求め、愛を持って探し出そうとしたのが、神さまというお方でした。私たち人間を最愛の作品として、この世界に生かしめてくださる神さまは、私たちが背き、逃げ、隠れても、探しに来られるお方なのです。

 3:8「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」」

 今も罪を犯した者は人目を避けて身を隠します。後ろ暗い思いを抱く時、私たちは相手に背を向け、口をつぐみます。しかし、私たちがどんな状態にあっても、「あなたはどこにいるのか。あなたのことが本当に心配なのだ。」といつもの優しいみ声をかけてくださる天地万物の造り主の神さまがおられる、これは何とありがたく、幸いなことでしょうか。
 健康な九十九匹の羊を置いて、一匹の迷える羊をどこまでも探し、求め、見つかると大喜びする羊飼い。イエス・キリストの有名なたとえ話に登場する神さまは、歴史の初めから私たちのための羊飼いであられたことを覚えたいところです。
 さて、最後に皆様とともに確認したいと思うことがふたつあります。
 ひとつめは、人間の罪の酷さです。美しく豊かな自然、食べても食べても食べきれないほどの食物、多種多様な楽しい動物たち、喜ばしき労働、愛しあう交わり。至れり尽くせり、これ以上はないと思われるほどの神の恵みに取り囲まれながら、たった一つ禁じられた木の実に手を伸ばして、神に背き、神から離れた人間の罪です。
 限りない恵みを受けながら、ただひとつの禁止に不満を抱き、恩を忘れると言う卑しさ。一本の木の実を食べないというたわいもないような簡単な命令を破った愚かさ。何一つ自分が作り出したものなどないくせに、造り主の神と等しくなれるという傲慢。
 植物は動くことが出来なくても、喜んで花を咲かせ、実を実らせます。鳥は、たとえ泳げなくても楽しく歌います。みな神さまに造られたことに満ち足りて、喜んでいるでしょう。それを、人間だけは神に背き、神を離れる。聖書の教える最も酷い罪とは、恵みの神に背き、離れて生きることでした。
 ふたつめは、神さまの限りなき愛です。神さまはアダムとエバが帰ってくるのを待たず、いや待ちきれず、「あなたはどこにいるのか」と捜しました。最初のきよい心を失い、罪に落ちたアダムとエバを、です。
 聖書の神さまは、私たち人間よりも、もっと私たちと親しい交わりをしたいと願っておられることを教えられます。父が息子と遊び、母が娘と語ることを願う、それ以上に私たちと交わり、愛を注ぎたく思っておられるのです。
 この思いがいかに本気であったか。やがて神自ら人の姿を取り、この世に来られ、私たちの罪を背負って十字架で死に、親しい交わりの道を開いてくださったこと、すなわちイエス・キリストの十字架の愛が、それを示しています。

 マタイ11:28「すべて、疲れたる人、重荷をおっている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 「あなたはどこにいるのか。」「すべて、疲れたる人、重荷をおっている人は、わたしのところに来なさい。」今も、神さまは私たち一人一人を呼んでおられます。病の床に伏していても、人間関係の悩みの中にいても、負いえぬ重荷に苦しんでいても、自分の罪に責められていても、「そのままで良い、そのままで良いから、わたしのところに帰ってきなさい。休みなさい。愛を受け取りなさい。」そう魂に語りかけるみ声を日々聞く者でありたいのです。み声を聞いて身を隠す者ではなく、神さまのところにゆき、親しき交わりに飛び込んでゆく者となりたく思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師