2011年3月13日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(12)」
−神が着せてくださったもの−
  聖書
創世記3章20〜24節

3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。


  メッセージ
 聖書冒頭の書、創世記を読み進めて十二回目。今日は第三章の終盤となります。
 第一章は、神による天地創造、第二章は神に愛された人間の、エデンの園での幸いな生活。最初の世界、創造されたばかりの世界は、明るさに満ちていました。
 それが、第三章に入ると、俄然様子が変わります。明から暗へ、暗転です。
 原因は人間の堕落でした。大きな恵みと自由を与えられていたのに、「園の真ん中にある木からはとって食べてはならない。」という、たったひとつの禁止命令に不満を感じ、神に背いた人間の愚かさ。
 神が優しくお声をかけてくださったにも関わらず、身を隠し続け、己の罪を認めず、他人や社会、神にさえ責任をなすりつけようとする人間の卑しさ。神を恐れ、人と対立し、自分を恥じるようになった人間の悲惨。
 一体、神に特別に愛され、幸せを満喫していた人間はどうなったのか。一体、これが、ただひとり神のかたちに創造され、この世界の世話をする管理人として、栄誉ある地位を占めていた人間と同じ者なのだろうか。
 余りにも変わり果てた姿に、声も出ないと言いましょうか。残念至極というしかない、人間の堕落でした。しかし、先回確認したのは、そんな罪人となった人間を忍耐し、なおも生かそうとする神のお姿です。
 先ずは、人間を誘惑した者、蛇の姿を借りたサタンを厳しく叱りました。蛇と女、蛇の子孫と女の子孫、すなわち後に続く人間たちとの間に敵意という楔を打ち込み、両者の分断を、神は計ったのです。サタンの元に置かれた人間を、もう一度ご自分のものにして、生かしめよう、との恵みです。
 さらに、人間の代表として、ひとりの救い主を起こし、この救い主によって、人間を苦しめるサタンを徹底的に滅ぼすとの約束を与えてくださいました。

 3:15b「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 「彼」はイエス・キリストを、「彼がお前の頭を踏み砕く」とは、キリストのサタンに対する勝利を、「かかとにかみつく」というのは、キリストが十字架で受ける死の苦しみを示すもの。人類の罪の贖いを成し遂げるため、二千年前世に来られたイエス・キリストついて、聖書中最初の預言のことばとなっています。
 さらに、です。さすがに神に背いた人間に、何のお咎めもなし、というのではなく、義の罰はくだされました。罰は下されましたが、そこにも神の恵みが輝いていたことを、私たち確認できたでしょう。
 すなわち、女性には産みの苦しみがもたらされました。しかし、その苦しみは出産の時に限られ、むしろ、その後の子どもを得る喜び、成長する喜び、家庭建設の恵みは奪い去られることなく、そのままだったのです。
 また、男性に下された罰は、労働に労苦が伴うようになったこと。これも事実その通りなのですが、しかし、呪われた土地も、人間が働けば作物を産み出しますし、労働のための知恵と力は人間から取り去らず、これも残されました。もちろん、太陽の光も、雨も、季節の変化も、同じくそのままなのです。
 全く、神さまというお方は、愛される価値などなくしてしまったこんな罪人のために、どこまで良くして下さるのか、と驚かされます。そして、今日の箇所でも、なお神の恵みは絶えることなく続き、罪人を包み込むのです。

 3:20「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」

 不思議なことに、アダムの奥さんの名前、エバはここで始めて登場します。「エバ」とは「生きる」とか「生命」という意味です。確か「命の母」という薬がありましたが、まさにエバは人類の母、すべて地上に人として生まれる命のお母さんでしょう。
 背きの罪ゆえに、自分も妻も滅ぼされてもやむなし、と考えていたであろうアダム。しかし、思わぬ神の恵みを受け、この女性を通して自分たちの子孫が生まれる、とのおことばを耳にし、それを信じたのでしょう。
 ですから、神のおことばを聞いた直後、妻に、いのちの源なる存在、エバと命名したのです。事実、この後アダムさんもエバさんも長寿を恵まれ、多くの子孫を残しました。
 けれども、この時アダムが妻をエバと呼んだ理由はそれだけではなかった、と思われます。神と親しく交わるいのち、霊のいのちを思う存分味わっていたアダムからすれば、例え、肉体において何年、何十年、何百年生きたとしても、それでは物足りなかったでしょう。
 アダムにとって、本当にいのちと呼べるのは、神と交わる霊のいのち、永遠のいのちのことだった、と思われます。とすれば、彼がこの時妻をエバと名づけたのは、神がやがて遣わす救い主、私たち罪人に霊のいのち、永遠のいのち与えてくださる救い主が、目の前のエバから生まれることを、神のことばで知り、信じたから、だったでしょう。
 神の恵みは、堕落によって真っ暗になったアダム夫婦に光をもたらし、二人をして、もう一度神を仰ぐ者、神を信頼する者へと変えたのです。
 しかも、神の恵みは、さらにこの愚かで、ダメな夫婦を優しく包みました。

 3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

 思い出してください。神に背いたふたりがさっきまで着ていたのは何だったのでしょうか。そうです。まともな着物とはとても言えないイチジクの葉。神による最高の作品だった人間が、何と貧しいイチジクの葉っぱで裸を覆っていたのです。
 そんな罪人のため、神が自ら作ってくださったのが皮の衣、暖かいレザーコートでした。可愛い我が子を、いつまでも惨めなまま放っては置けない、むしろ、少しでも良いもの,暖かいものをという、神さまの親心。至れり尽くせりの愛です。
 そして、ここには霊的な意味が隠されていると、昔から考えられてきました。
 皮の衣ということは、生き物が犠牲になったと言うことです。現代の私たちは生き物のいのちの尊さに対し、アダムの時代よりもはるかに鈍感でしょう。スーパーで、きれいにパックされた肉を買い、食べることに慣れた私たちは、この背後にどんなに多くの生き物が死に至らしめられ、血が流されているのか、考えようとしません。
 しかし、アダムは史上初めて、神に造られた尊い生き物が自分のために屠られ、血を流し、その皮をはがれ、自分の罪をおおうためのカバーとなったのを経験したのです。相当のショック、心の痛みを覚えたでしょう。
 自分たちのために、尊い命が犠牲にされる。その尊い犠牲によって、自分たちは覆われ、守られ、生かされる。ここまでして下さる神の愛は本当にありがたいこと、有り難すぎること。皮の衣を着たふたりは、感謝の礼拝をささげたにちがいありません。
 この時、アダムとエバがどこまで予想したかは分りませんが、この出来事は、子羊などの動物が人間の罪の犠牲としてささげられた旧約聖書の時代の儀式に連なってゆきます。そして、ついには、神の子羊イエス・キリストの尊いいのちの犠牲、身代わりの十字架の死で完成するに至るのです。
 そうだとすれば、もうこの時点で、神の側では、ご自分が人となり、イエス・キリストとして世に生まれること、人類の罪のいけにえ、犠牲として十字架にかかることを決意しておられたわけで、神の愛は永遠、神の愛は人の思いをこえて、遥かに広く、深い。改めて、そう思わされるところです。
 さて、次は人間が楽園を追放され、楽園を失う。有名な失楽園の場面でした。

 3:22,23「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」

 エデンの園は、アダムとエバが去った後も、ある期間存在していたようです。確定的なことは言えませんが、中近東のチグリス、ユーフラテス川の源がある、現在のトルコの国、アルメニア地方あたり、というのが有力な説のひとつです。
 エデンの場所がどこであったはともかく、ついに人間をその麗しの園から追放せざるをえなくなった神は、深く嘆いておられるように見えます。
 確かに、人間は神のようになりたいと願い、神はそれを許可した。人間は神を離れ、独立した。しかし、その結果はというと、本当に悲惨なものでした。
 人間はかって神と交わり、神のみこころに従うと言う善のみを知っていました。しかし、今や神から離れることにつきものの悪を知り、その悪から離れられなくなった、というのです。
 そうだとするなら、その状態で長く生きつづけることは、必ずしも幸いではないでしょう。堕落の影響は人間と自然の世界すべてに及んでいます。そして、体と精神は老い、衰え、自然も荒れて、天災、災害が絶えないとすれば、人間を永遠に生きさせないことは、むしろ神のご配慮ではなかったでしょうか。
 耳が悪くなって、生返事を繰り返す。邪推をして、自分だけの世界に住みたがる。やたらと大声で話したがり、「昔は良かった」と同じ話を繰り返す。視力が低下し、周りに関心を持たなくなる。舌の味覚が落ちるので、何を食べても上手いと感じなくなる。すぐ息苦しくなる。血管が弱くなる。ボケてくる。背骨が曲がる。一般的に、老化と呼ばれる現象でした。
 「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」このおことばには、死すべき者となった人間のことを嘆き、悲しむと同時に、そんな人間のため、なお最大限の配慮を惜しまない神のお姿が見えてきます。
 最後は、三章の結びのことばです。

 3:24「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」

 ケルビムは、聖書にしばしば登場する神の使い。所謂天使のひとりでした。また、炎と剣は、聖書において、神の怒りのシンボル。つまり、神は、ケルビムを番人とし、回転する炎の剣を目印として、道を塞ぎ、罪人をエデンの園に近づけないようにされた、というのです。
 これも、神の厳しいさばきと見えます。しかし、よく見てみると、神がケルビムと炎の剣を置いたのは、いのちの木への道を守るため、と言われているではありませんか。
 いのちの木がなくなったのでも、いのちの木への道がなくなったのでもなく、いのちの木への道は、人間のためになお守られ、残されていた、というのは嬉しいことです。
 なぜなら、やがて、私たちの罪を背負ってただおひとり、燃える剣の如き神の怒りに身をさらし、いのちの木への道を開いてくださった救い主が来られたからです。
 罪をもったままの人間は、決して近づけないいのちの木、決して受け取れない永遠のいのち。そんな罪人のため、自ら身代わりとなって、十字架に身を裂き、血を流し、永遠のいのちへの道を切り開いてくださったイエス・キリストを仰ぎたいところです。

 ヘブル10:19,20「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」

 創世記第三章を読み終え、私たち心に留めたいことがふたつあります。ひとつは、神の愛という覆いで覆われつつ、歩む者でありたいということです。
 あのアダムとエバがそうしたように、私たちは今もお手製の、お粗末な覆いで、裸の自分を覆ってはいないでしょうか。財産という覆いで自分を立派な者に見せる。高い地位、ポジションという覆いで、自分を強い者に見せる。様々な成果を挙げ、それで身を覆い、自分を能力ある者に見せる。道徳的な行いにより、良い人に見せる。ファッション、化粧で、美しい人に見せる。
 財産も、地位も、能力も、道徳的行いも、流行のファッションも、いわばアダムとエバのイチジクの葉っぱのようなもの。どれも、罪に悩む心を覆い、いやし、満たすことは出来ません。
 ただ、キリストの十字架に現わされた神の愛という覆いだけが、罪に苦しむ心を癒し、力で満たすことができるし、それは、いつも私たちに差し出されている。このことを創世記で確認しましたから、私たち、日々神の愛で覆われ、守られ、心満たされて、歩む者でありたいと思います。
 ふたつ目は、イエス・キリストが、尊い犠牲を払って切り開いてくださった永遠のいのちへの道を進み、神に近づき、神と親しく交わりたい、ということです。
 皆様は、日々、どれ程意識して神に近づく時間をとっているでしょうか。神と親しく交わることを、どれ程大切に思い、喜んでいるでしょうか。
 人生の重荷を下ろすため、神に近づく。願いを携えて、近づく。感謝と賛美を持って、近づく。ただ、神と交わり、神を喜ぶために近づく。どれも、私たちの魂にとって良いことですし、必要なことでしょう。
 せっかくイエス様が十字架に死んで開いてくださった道。これを一度も歩んだことがない、余り歩んだことがない、とすれば、それは途轍もなく勿体ないこと。日々、永遠のいのちの道を歩む者、神に近づく者でありたいと思わされます。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師