2011年3月27日
礼拝メッセージ


「悔い改めと願いを」
  聖書
歴代誌第2 7章11〜16節

7:11 こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。
7:12 すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。
7:13 もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
7:16 今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。


  メッセージ
 東日本大震災が起きて16日が経ちました。未だに被害の全容は定かでなく、問題も山積み。進行中の問題もある。今、この時も被災地で大変な思いをしながら生活している方々を思うと、本当に胸が痛みます。
 それと同時に、私たちも痛み、苦しんでいる状態。テレビ、新聞、インターネットで見聞きする情報により、心が重くなる。表現し難いストレスを味わっています。被害の大きさは凄まじく、復興の見通しも見えず、余震は続き、放射能の課題もある。物資不足が起こり、これからの経済も心配。更には私たちの地域でも、いつ同様の地震があってもおかしくない状態。大きな不安があり、何かに取り組まなければならないと感じながらも、何をしたら良いのか分からない。強い焦燥感があります。被災地の方は勿論のこと、日本全体が痛み苦しんでいる状態。
 このような時。想像を絶する被害を目の当たりにした時、私たちクリスチャンは何を考え、何に取り組むべきでしょうか。今日は、この点に焦点を絞って、皆さまとともに考えたいと思います。

 この地震を受けて、私たちが強く意識したことの一つは、「人間のあらゆる営みが瞬時になくなることがある」ということでしょう。
 一人の人生というのは非常に貴いもの。人間一人の人生でも、有形無形の様々なものを作り上げます。時にはそのような営みが、代々続くこともあります。しかし、そのような人間のあらゆる営みが、一瞬のうちに破壊されることがある。自分の人生の全てが、一瞬のうちになくなる可能性がある。重い自然に直面した人間の軽さ。人生の儚さ。大地悠久と思っていたのが、そうではないと知ったショック。これは非常に恐ろしいこと。恐怖です。
 このような出来事を前に、一体何に頼れば良いのか。自分の人生の意義や意味は何なのか。否が応でも考えさせられることになります。生きていく上で、必要なものは多くあります。知識、技術、お金、地位、人間関係、健康。しかし、生きていく上で必要と思えるものが全て揃っていても、それでも瞬時に全てが破壊されることがある。果たして、私たちは何を頼りに生きたら良いのか。どのように生きたら良いのか。
 今日の礼拝、最初に読まれた聖書の言葉には、このような告白がありました。

 詩篇46篇1節〜3節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。

 私たちは何に頼るべきか。自分の知識か、技術か、財産か。あるいは人か、国家か。それらは有用でありますが、真に頼るべきもの、唯一の頼るべきものとなると、足りないのです。私たちが頼るべき唯一のものは、この世界を創り支配している神であり、この方以外にない。この詩篇の告白を我がものにしたいと思います。

 ところでこの詩篇、表題がついていまして、「アラモテに合わせて」と記されています。「アラモテ」とは、女性の声、それも処女の声と解されています。当時の平均的な結婚年齢は十代前半といわれていますので、この詩篇は少女の合唱で歌うものとされます。何故、少女の声で歌うものとして作られたのか。
 山々が揺れ動き、海のまなかに移るとも、恐れることはなしという豪気な歌。普通なら、重厚勇壮な歌詞ですから、男声で歌うと思うところ。ところが、わざわざ少女の声で歌うというのは、か弱い少女でも、神を避け所とし、力とするならば、天変地異をも恐れることなしということを表明するもの。この歌詞の威力を最大限に引き出すために、あえて少女の声で歌うという技巧が凝らされている詩篇でした。

 東日本大震災という想像を絶する災害を目の当たりにした時、私たちクリスチャンは何を考え、何に取り組むべきか。その一つのことは、私たちの人生で唯一頼りにするとしたら、それは誰なのか、もう一度確認すること。真に頼りにすべきお方を知らない人には、それを伝えること。
 地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。水が立ち騒ぎ、泡立ち、その水かさが増して山々が揺れ動いても。たとえそのようなことが起こっても、神を信頼する私には恐れなしとするこの詩篇を、自分自身の告白としたいと思います。

 また別な視点で考えるべきことがあります。それは具体的にどのような行動を取るか。被災地へ向けて、どのような支援をするのか、ということです。
 日本長老教会としては、地震が起こってからすぐに、千葉の教会が支援物資を送る活動を開始。続けて愛知にある日進キリスト教会。それに合わせて、私たちも被災地に救援物資を送ることが出来ました。私たちの教会以外では、この活動の中心にいるのは宣教師の方々です。外国人が続々と日本から出ていく中、日本に残るどころか被災地へ向けて進むことをして下さっている宣教師の方々に、心から感謝したいと思いますし、敬意を払いたいと思います。
 また、いち早く、私たちの教会も救援物資を届ける働きに取り組めたことを、神様に感謝しています。今回、山崎俊彦牧師、山下悟長老、ウィリアムズ・アンドリュー長老がいわき市へ、2tトラックに満載の荷物を届けることが出来ました。受け取った方々は、こんなにも多くの荷物が届けられたと、感謝して下さったと聞いています。
 私たちの教会から救援物資を届けることが出来た。この背景には、本当に多くの方のささげもの、奉仕がありました。教会員の方も、英会話やぶどうの家関係、めぐみの園関係の方々、更には普段教会と関係を持っていない方々も、支援物資を届けて下さいました。
 物資不足が聞こえる中、自分たちの家に物を貯め込むことも出来ます。しかし、被災された方々になんとか物資を届けたいと思われた、ささげ手、祈り手、奉仕された方々に、心から感謝いたします。

 聖書が教える命令を一つにまとめたらどうなるか。キリストが黄金律として語られた言葉があります。
 マタイ7:12
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 律法であり預言者というのは、聖書のことです。自分が中心ではなく、自分のしてもらいたいことは、他の人にそうする。これこそ、聖書の中心的な命令。ゴールデンルールでした。ここまで教会として具体的な支援活動が出来ていることを、とても嬉しく思います。
 しかし、これで終わりではありません。物資の必要性はまだまだ高く、今後は人的支援の必要性も高まります。これから教会として何が出来るのか。私たち一人一人、クリスチャンとして具体的な支援は、何が出来るのか。この時代、この地域に命が与えられている意味は何なのか。皆で考えるものでありたいと思います。

 東日本大震災という想像を絶する災害を目の当たりにした時、私たちクリスチャンは何を考え、何に取り組むべきか。ここまで二つのことを確認しました。一つは、真に頼るべき方が誰であるか、再確認すること。そして、創造主を知らない人に、真に頼るべきお方を伝えること。もう一つは、自分のしてもらいたいことを、他の人もする姿勢を持って、具体的な支援活動を行っていくということでした。


 最後にもう一つ、確認したいと思います。それは悔い改めと願いをささげるということです。

 今より約三千年前。BC960年頃。イスラエル三代目の王、ソロモン王が神殿を建て上げます。神の家。神殿の完成です。私たちの神は世界を創り、支配している方。そうだとすれば、どこか一つの場所を家とし、そこに住むというのはおかしなこと。家など必要ない。神様のために家を作るというのも、神がどのような方か分かっていないと思えるところ。
 しかし、そのようなことは当然、ソロモン王も理解している。そこで、神殿を建てた際に、このように言っています。

 U歴代誌6:18
それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 天も、天の天も神様を入れることは出来ない。ましてや、神殿だけが神様のいるところとは言えないと告白します。それでは、何故ソロモンは神殿をつくったのでしょうか。続けて、ソロモンはこのように言っています。

 U歴代誌6:19〜20
けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 神殿は神様のためではなく、人間のために作られたもの。人間が神様を意識し、礼拝する、祈る場として神殿は作られたのです。この神殿の完成にともない、神殿をささげる。ソロモンが神殿奉献の祈りが記されているのが、第二歴代誌6章でした。力強いソロモンの祈り。大きな山、大きな河のような雄大さがある祈り。今日は神殿奉献の祈りの中、一部分を確認します。

 U歴代誌6:26〜30
彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされ、雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって、彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に、雨を降らせてください。もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の疫病と痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。

 ソロモンは神殿奉献の祈りの際、何を願ったのでしょうか。それは、災難が襲ってきた時、この神殿で、あるいは神殿に向かって、悔い改めと願いをするなら、それを聞き入れて下さい、ということでした。
 このソロモンの願いに対して、神様が言葉をもって応えて下さいます。

 U歴代誌7:11〜16
こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。『わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。』

 この神様の言葉は、先のソロモンの願いを、そのまま是とした答え。神様は、この神殿での祈りに、目を留め、耳をかたむけようと言われる。この神殿で祈られる祈りを、特別なものとして聞こうとされる。
 この特別な場所として選ばれた神殿。神様の目と心が、いつもそこにあると言われる神殿が、キリストの到来とともに大きな変化が起こります。それは、ある一つの場所が特別な場所となるのではなく、キリストを信じる者、クリスチャンが、神の宮なのだという変化です。

 Tコリント3:16
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 U歴代誌7章にある神様の言葉と、このTコリント3章16節の言葉を合わせて読むと、キリストを信じる者に与えられている特権がどれほどすごいものか、分かるところです。神様の目と心を、いつもそこにあると言われた神殿。ある一つの特別な場所が、キリストの到来とともに、キリストを信じる者こそが神殿となる。キリストを信じる者に、神の目と心が注がれるのです。皆さま、神様の目と心が、自分に注がれているという自覚があったでしょうか。
 私たちに神の目と心が注がれている。私たちこそ、神の神殿であるならば、私たちは何に取り組むべきでしょうか。もう一度、ソロモンに答えられた神様の言葉を確認しましょう。

 U歴代誌7:13〜16
もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

 東日本大震災という想像を絶する災害を目の当たりにした時、私たちクリスチャンは何を考え、何に取り組むべきか。ここに私たちが取り組むべき一つのことが、明明白白に出てきます。それは、私たちが自分の罪を悔い改め、悪の道から立ち返り、そして回復を願うことです。何故、このような大きな震災が起きたのか。その答えは簡単に言えるものではありませんし、言って良いものでもないでしょう。ですので、私たちの罪のために、あの地震が起こったとは言えません。しかし、大きな災害を前にした時、クリスチャンである私たちが、自分の罪を悔い改めること、そして回復を願うことは非常に重要なことでした。「祈りしか出来ない」と言うのではなく、祈ることの意義、意味を再確認したいと思います。神の目と心が注がれている者、神の宮である自覚とともに、悔い改めと願いをささげる者でありたいと思います。

 今日の聖句です。
 第二歴代誌7章16節
今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

 以上、東日本大震災という想像を絶する災害を目の当たりにした時、私たちクリスチャンは何を考え、何に取り組むべきか。三つのことを確認しました。
 一つは、真に頼るべき方が誰であるか、再確認すること。そして、創造主を知らない人に、真に頼るべきお方を伝えること。
 二つ目は、自分のしてもらいたいことを、他の人もする姿勢を持って、具体的な支援活動を行っていくということ。
 三つ目は、神の宮として、悔い改めと願いをささげるということ。皆さまとともに、これらのことに取り組んでいきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師