2011年3月6日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(11)」
−さばきと恵みと−
  聖書
創世記3章14〜19節

3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」


  メッセージ
 聖書のトップ、冒頭の書、創世記を読み進めて十一回目。今日は第三章の中盤となります。第一章は、神による天地創造の経緯を物語り、第二章は神に特別に愛された人間の、エデンの園での幸いな生活を描く。どちらも、明るさに満ちていました。
 それが、第三章に入ると、俄然様子が変わります。一言で言えば、暗くなった、明から暗へ、暗転です。
 原因は人間の堕落でした。恵みの神に背き、離れ、身を隠す人間。自分の罪を認めず、告白せず、他人や社会、神にさえ責任をなすりつけようとする卑しい人間。
 「あなたがたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」との、大きな恵みと自由を与えられていたのに、「園の真ん中にある木からはとって食べてはならない。」という、たったひとつの禁止命令に不満を感じ、神に背いたのが人間でした。
 神は最善を尽くしてこの世界を創造した。最高の愛を、惜しみなく人間に注がれた。それなのに、人間は神の恩を忘れ、神の愛を疑ったのです。
 むしろ、「その実を食べたら、あなたは神のようになれる」という、誘惑者の声にひかれ、せっかくもらった自由な意志を使って、神を必要としない生活を選んでしまったのです。
 しかし、創世記三章は黒一色ではなく、そこには、恵みの光が差していました。すなわち、罪に落ちた人間を神は自ら、探し、求め、優しくお声をかけてくださったのです。「あなたはどこにいるのか。」と。
 イソップの有名な「北風と太陽」の物語で言えば、神さまは太陽のタイプ。人間が自分から罪を悔い、告白し、立ち帰るのを、待っておられたのです。
 そればかりではありません。蛇の姿を借りたサタンが、まんまと誘惑に成功し、人間をして神に背かせたのを見ると、直ちにへびに対して厳しい処置を下しました。
 へびと女、へびの子孫と女の子孫すなわち人間たちとの間に、敵意という楔を打ち込み、このままではサタンのものになってしまう人間を、もう一度神のものとするため、ここに救いの手をさし伸ばしたのです。

 3:14、15a「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。」

 さらに、です。人間には、人間の代表者となってサタンと戦う救い主、ここでは「彼」と呼ばれるお方、イエス・キリストが与えられ、最後には私たちがキリストともに勝利し、救われる、という福音が宣言されたのです。

 3:15b「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 「彼」というひとりのお方はイエス・キリストを、「彼がお前の頭を踏み砕く」とは、キリストが誘惑者サタンを決定的に滅ぼすことを、「かかとにかみつく」というのは、キリストが十字架で受ける死の苦難を示すもの、と伝統的に考えられてきました。
 人類の罪という罪のすべてを背負って、十字架に上り、罪の贖いを成し遂げるため世に来られる救い主について、聖書中最初の預言となっています。
 神に背いた人間は、何度呼びかけられても応えなかった。自分から罪を認め、神さまのもとに出てこようとはしなかった。ならば、神は「そんな罪人など滅びてしまえ」とばかり、サタンの手の中に置き去りにしたかというと、そうではなかった。人間が、罪の深みに落ちてしまわないよう、その御腕に受け止め、救おうとされた、というのです。
 創造の神は救いの神、この大宇宙を造られた力の神は、地のちりに等しい私たち人間のために心砕いてくださる愛の神でもあられる。改めて、私たちこの神さまを仰ぎ、賛美したいと思います。
 ところで、背き離れた人間に対する神のさばきは、何一つなかったのかというと、そうではありませんでした。女性には産みの苦しみが、男性には労働の苦しみが、それぞれ与えられたのです。先ずは女性からです。

 3:16「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』」

 一般的に、人間は他の動物よりも産みの苦しみがきつい、と言われます。確かに、お母さんは十ヶ月もの間胎に子を宿し、悪阻に苦しみます。人間の子どもは自立するにも時間がかかります。子育ての苦労です。
 私も、自分の妻のことしか分りませんが、悪阻も酷くなると大変なこと。側で見守るこちら側も本当に心配したことがあります。難産の中には母子のいのちが危険にさらされる場合すらあることは、ご存知の通りです。
 もともと、出産は、神が「生めよ、ふえよ」と祝福されたこと。喜びであり、お祝いでした。それが堕落の後は、こうした苦痛が入り混じるようにされたのです。
 また、夫との関係も女性にとっては悩みの種となりました。「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
 これも本来、神さまに造られたもの同士、愛し合うべき男と女の関係に、支配する者とされる者という歪みが生じてくる、と言うのです。男尊女卑という人間社会に共通する悪習の始まりでした。
 もちろん、聖書は、男尊女卑を良しとしてはいません。むしろ、逆でしょう。この悪しき関係は人間の罪の結果であって、キリストに救われた者はこれを正し、元に戻す使命があることを覚えたいのです。
 四日市教会では、あの夫婦も、この夫婦も、お互いをかけがえのない相手として尊び、仕え、愛しあっている。こんな証しが、続々と聞こえてくるような教会になれたら、嬉しいことと思います。
 それにしても、結婚は世の初めから、人間の幸いのため神が定めた制度であるにもかかわらず、労苦が伴うものになった。後に続く出産にも痛みが伴うものになったとは、かえすがえすも残念なことでした。
 次は、男へのさばきです。男性へのさばきは仕事、労働に関すること、それに苦痛や虚しさがともなうようになる、とのさばきでした。

 3:17、18「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。』」

 漢字の「男」という文字は、上が「田んぼ」で、下が「力」と書きます。つまり、男とは、力を尽くして田を耕す人のことでした。その耕す人である男に対して、土地はあなたのゆえに、あなたの罪のゆえに呪われてしまったので、一生、苦しんで食を得なければならない、と言われたのです。
 しかし、労働もそもそもは楽しく、喜ばしいものでした。神がアダムに、エデンの土地を耕し、守るよう命じたのは、堕落前のこと。アダムもエバも、毎日、豊かな土地での、自由な労働を楽しんでいたことでしょうし、そこには何の苦しみもなかったでしょう。けれども、今や呪われた土地は、いばらやあざみを生じ、荒れ果て、ゆえに、これ以降の労働には、苦難が加わるようになったのです。
 以上、私たちは、人間に与えられた神のさばきを見てきました。しかし、これらは果たして、不必要なものであったでしょうか。そうは思えません。人間が受け取るべき罰であった、と考えられます。
 「親思う心にまさる親心」ということばがあります。子どもが親を思う心より、親が子を思う心のほうが深い、と言う意味です。
 これに習えば、「神思う心にまさる神心」と言ってもよいかもしれません。私たち人間は、子が親を思うに似て、神の罰を厳しいと感じ、厳しすぎると不平を口にしがちです。さばきを下さねばならなかった神さまの眼に宿る、子を思う親の涙を思うこと少ない者なのです。
 しかし、もしこの時、アダムとエバが犯した悪に対して、何の罰も下されなかったら、どうだったでしょう。親に真剣に叱られたことのない子どものように、彼らは神を畏れず、神の愛も知らず、益々高慢となり、罪の深みに転落していったことでしょう。
 人生は労苦の連続。産みの苦しみと労働の苦しみは、いわばその代表でした。それら労苦の中を通らされる時、私たちは、自分があるべきところから落ちてしまった罪人であること、また、すべての営みにおいて、神に頼るべき存在であることを思い起こしたいのです。
 神の愛の御手がもたらす罰は、私たちの魂をあるべきところに導く恵み。この真理を忘れたくないと思います。
 そして、人生は労苦の連続であるとしても、永久に労苦の中に置かれはしない、人は皆土に帰る時が来る、と神は仰せられました。

 3:19「『あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」

 もとより、人間が死ぬべき者となったのは、罪が原因です。聖書が言うように、神とともに永遠に生きるべき人間が神に背き、離れたがゆえに、死ぬ者となったと言う事実を忘れてはならないでしょう。
 しかし、それとともに、死は労苦に満ちた人生からの解放。私たち人間がそこからとられた土に帰る、休息の時という面も覚えておきたいところです。

 こうして、読み終えた創世記三章の女と男に対する神のさばきの宣言。ここから、私たち改めて心に留めたいことがふたつあります。
 ひとつは、罪を犯した人間がさばかれ、叱られた今日の場面、しかし、ここには神の義とともに恵みが、いや、神の義にまさって神の恵みが輝いていた、ということです。
 もう一度確認しましょう。確かに女性には、産みの苦しみがもたらされました。しかし、苦しみは産む時、出産の時に限られたのです。むしろ、苦しみの後、子どもを得る喜び、子どもが成長する喜びは、ひとつも奪い去られることなく、そのままでした。
 また、労働に労苦が伴うようになったことは事実です。しかし、よく見てみると、神の呪いが直撃したのは、働く人間ではなく、土地の方でした。さらに、労苦はあるものの、働けば自らを養ってゆける知恵と力は人間から取り去らず、これも残されているではありませんか。目を天に向ければ、穀物が育つのに必要な太陽の光も、雨も、季節の変化も、同じくそのままなのです。
 全く、神さまというお方は、愛される価値などなくしてしまったこんな罪人のために、どこまで良くして下さるのか、どうしてこんなにも様々な恵みで包んでくださるのか、と驚くばかりです。この感動を、旧約の詩人はこう歌いました。今日の聖句です。

 詩篇8:4「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 大宇宙の造り主、世界の支配者にましますお方が心を留め、愛し、大切に思う存在として生きることのできる幸いを、私たち日々味わいたく思います。
 ふたつ目は、日々の仕事を通して神の栄光を表してゆく使命が、私たちにはあるということです。
 確かに堕落によって、仕事には労苦が伴うようになりました。しかし、仕事は神さまからの賜物、堕落の前から存在し、仕事をすることでこの世界を良くすることは、人間が創造された理由のひとつだったのです。
 聖書には、自分に与えられた仕事を通して、神を喜び、神の栄光を表した人々がたくさん登場してきますし、そもそもイエス様ご自身が労働者でした。イエス様は弟子たちとともに湖に漁にでましたし、最後の三年間を除けば、その生涯の殆どは大工でした。
 つまり、地上におられる間、説教した時間よりも、のこぎりをひいていた時間の方が長かったでしょう。それに、説教の中でも、種を蒔く者、ブドウ畑の労働者、刈り入れをする者、パンを作る主婦、家を建てる者など、仕事の世界を扱っておられます。
 聖書は、私たちが手を、心を、頭を使ってする仕事を認め、励ましていました。神さまは、神に仕え、人を愛する心から、私たちがなす仕事を喜んでくださるお方なのです。
 英語訳聖書の父と言われるW.ティンデルは言いました。「神さまを喜ばせるのに、他よりもまさっている仕事というものはない。水汲みであろうと、皿洗いであろうと、靴屋であろうと、教師であろうと、教会の働きであろうと、みなひとつだ。皿洗いも説教もみなひとつであって、神に仕える心をもってなすなら、みな神を喜ばせる偉大な仕事なのである。」
 報酬があろうがなかろうが、教会の中だろうが、この世だろうが、あらゆる仕事が神聖な仕事になりうるし、キリストに救われた私たちはそうすべきであることを自覚し、日々のわざに取り組んでゆきたいと思うのです。


四日市キリスト教会 山崎 俊彦牧師