2011年4月10日
礼拝メッセージ


「十字架を前に」
  聖書
マルコの福音書14章32〜42節

14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
14:40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
14:41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」


  メッセージ
 聖書は私たち人間に対して、一見相反すると思える二つのメッセージを送っています。一つのメッセージは、私たちは非常に貴いということ。価値があり、最高の存在であるというメッセージ。

 イザヤ43:4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 世界を創った神から見て、私たちは高価で尊い存在。最高の存在。嬉しいこと、感謝なことです。しかし、もう一つ、別のメッセージも聖書の中に出てきます。私たちは腐っており、どうしようもない存在であるということ。

 詩篇14:2〜3
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。

 この二つのメッセージ。高価で尊いと言われることと、腐っており、御怒りを受ける存在であるということは、相反するメッセージのように感じます。果たして、私たちはどちらなのか。高価で尊いのか。それとも、腐っており捨てられるべき存在なのか。
 実は私たちは、この両方が当てはまります。相反すると思えるこの二つのメッセージが、両方とも当てはまる。つまり、神様に創られた存在という意味では、最高の存在であり、高価で尊いのです。しかし、神に創られたにも関わらず、その神を無視して生きる罪人という意味では、腐っており、どうしようもない存在なのです。
 高価で尊い存在でありながら、腐っており唾棄すべき存在。人間とは摩訶不思議な存在。神様から見ても、人間は不思議な存在と言えるかもしれません。
 神様の愛という視点で人間を見ると、愛を注ぐ対象。しかし神様の義という視点で見ると、その罪のために罰する対象。しかも、罪の結果の罰というのは、神様との関係が永遠に絶たれるという罰。永遠の死という罰でした。罪人というのは、神様の愛の対象でありながら、同時に罰を与える対象でもある。

 神様からして、人間は愛してやまない存在でありながら、同時に永遠に関係を断たなければならない罪を持っている存在。果たしてどうしたら良いのか。
 そのような私たちのために、神様がとって下さった方法は、「身代わり」でした。つまり、罪のため私たちを処罰する身代わりの人を立てる。その身代わりの人が罰せられることで、私たちは罰せられることなく、神の愛を受け取るだけで良い者となる。私たちの罪のために、身代わりを立てる。これが私たちを罪から救うための方法であり、キリスト教の奥義です。
 そしてこの身代わりが、神の一人子、救い主であるイエス・キリストです。本来、私たちが罰せられるべきところを、身代わりに罰を受ける。そのために来られた救い主が、イエス・キリストでした。
 キリストが十字架で死なれた。それは、私たちの身代わりとしての死。救い主としての死です。次週は受難週と言います。一年の中で特にキリストの十字架を覚える週。十字架の意味、意義の詳しくは次週確認することにしまして、今日は十字架にかかる直前の場面を見ていきます。十字架直前、キリストが祈られた祈り。ゲツセマネの祈りです。
 AD30年4月6日のことと考えられています。その晩のこと。都エルサレムの東、オリーブ山にあるぶどう園。ここはイエス様が好まれた場所で、オリーブの果実を搾る圧搾機(ゲツセマネ)があったため、ゲツセマネの園と呼ばれていました。ここでキリストは捕えられるのです。いや、捕えられるというよりも、捕えられにこの場所に来たと言えます。ここで捕縛され、裁判、拷問を経て、十字架につけられる。ここからは急展開となる。このゲツセマネが、弟子たちと過ごす最後の時。十字架を目の前にした最後の時。

 マルコ14:32〜34
ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。』

 十字架直前。何のためにこれから死ぬのか。誰のためにこれから死ぬのか。それを理解している救い主が、ひどく恐れたといいます。「深く恐れもだえ」、「悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われます。キリストはこれまでに、身代わりの死を自覚し、ご自分の死について弟子たちにも宣言していました。それでも、十字架直前にひどく恐れたのです。
 この苦しみは誰のためなのか。何のための苦しみだったのか。私たちは正しく理解しているでしょうか。
 この苦しみは私のためだと理解するどころか、人はこのキリストの姿を見て、云々するかもしれません。
 「この期に及んで、これほど恐怖するとは。既に死を覚悟していたのではなかったのか。敵の手に自分を渡すために、自らこの園に来たのではなかったのか。それが今更深く恐れたなど、女々しいではないか。」と。或いは「これが嵐の船上でも悠々と眠り続けたイエスか。起きれば一喝のもと、嵐を静めた人物か。」と首をかしげる人。更には、「身代わりの死こそ、救い主の役目であり、それを自覚しての歩みだったのに、最後の最後でこれでは、情けない。」と躓く人も。
 救い主として、身代わりの死を味わう覚悟を持って生きてきた。そのイエス様が十字架直前でひどく恐れた。これは何を意味していのか。何故の苦悶だったのか。その秘密は何なのか。もとより、その苦悶の全てを私たちが理解することは出来ませんが、その一つが、永遠にして不死なる神が死ぬという苦悶であり、もう一つは完全に聖なる方が罪を一身に背負い罰せられるという苦悶であるということは分かります。

 第一にキリストは人として来られた神です。神が死ぬ。これは、奇跡中の奇跡。ご自身が良しとされなければ、起こりようのない出来事。死すべかざる者が、死ななければならない。イエス様がこの時味わっていた恐怖、苦悶。それはもともと死ぬべき存在には分かり得ないものでしょう。考えてみますと、覚悟の死を前に、これほどの恐怖を露わにしていることが、人となられた神であること、永遠にして不死である神であることを、表しているとも見えます。死を恐れるとは、人間的過ぎるのではない。むしろ逆で、死なない方が死に直面しているからこその恐れだったのです。
 第二にキリストは完全に聖なる潔き方です。その方が、罪を背負って死ぬということ。罪人が神の罰を受けて死ぬというのは当然のこと。自業自得、文句なしです。しかし、完全に聖なる方が、罪を背負って死ぬということが、どれほどの恐怖、苦しみであるのか。
 全てを知りたもうお方が、それでも十字架を前に恐怖する。それは不思議なことではなく、むしろ、それこそキリストが神であることの証でした。

 さて、強い恐怖を味わうイエス様がこの時何をしたのか。祈ったと言います。所謂、ゲツセマネの祈りです。それも一人ではなく、弟子たちに祈りの要請をしながらの祈り。必死の祈りとなります。

 マルコ14:35〜36
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』

 地面にひれ伏しながら、「この杯を取りのけて下さい。」との願い。杯とは、神の裁きをあらわすもの。十字架の死をのけて下さい。身代わりの死を、受けさせないで下さいとの願い。しかし、ただ「この杯を取りのけて下さい。」ではないのです。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」と。しかもこの祈りは、この後の箇所を見ますと、一度ならず三度も祈っています。キリストが同じことを三度も願った。
 少し脇道にそれますが、この祈りは私たちがお手本にすべき祈り。あるべき祈りの姿です。祈りと言えば、自分の願いを言うものと思っていた。ところが、違うのです。自分の願いを伝えるのが祈りと思っていたら、自分の思いを神様の思いに近付けるのが祈りであったということ。私たちはとかく、自分の考えが最善と思うもの。神様のためになると願いながらも、実は自分の願いを口にしていることが、どれだけあるでしょうか。
 「祈りは調律」と言われます。神の御心という基準に、自分の心を合わせること。ゲツセマネの祈りは、ご自分の思いを神の御心に従わせるための祈りと見ることも出来ます。
 それはそれとしまして、このキリストの必死の祈り。それも三度も祈られた祈りに対する父なる神の答えはありましたでしょうか。三回も祈られているのに、一度も答えがない。無言。沈黙。重い沈黙の場面です。一人子の決死の願いを退ける沈黙。それも三度も退ける無言の声。
 言うまでもなく、父なる神は、無情、非常な方ではありません。愛なる方が、一人子の決死の願いを、三度も拒絶するということが、どれほどの痛みなのか。想像を絶します。いや、私たちが想像することすら、相応しくないように思うところ。
 この父なる神の沈黙は誰のためであったか。何のためであったのか。

 ヨハネの言葉が響いてきます。
 ヨハネ3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が世を愛するとは、一人子の必死の願いに対して、沈黙するということ。それでも、私たちが永遠のいのちを持つことを最上とされたということ。この言葉をもって、神様を礼拝したいと思います。
 私たちのような者を贖うために、御子なる神を見捨てる父。その父なる神の御心を受け、敢然と十字架へ進む子なる神。その恵みを私たちに分かちたもう聖霊なる神。三位一体の神のよってたかっての恵みを受ける果報者は一体何者なのか。恐ろしくなります。
 しかし、その果報者。十字架直前のゲツセマネの園で、ギリギリのやりとりがなされているその傍で、当の人間、弟子たちは何をしていたのか。

 マルコ14:37〜42
それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。イエスは三度目に来て、彼らに言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。』

 ゲツセマネの祈り。キリストの必死な祈り。そして、父なる神の必死な沈黙。誰のためかと言えば、人間のためであるのに、当の人間は眠りこけていたという。ひどい有様。この時が、普通と違う。緊迫した状態であることは、弟子たちも分かっていたはず。それでも、祈るどころか、起きていることすら出来なかった。
 仮に私たちがキリストの立場であったなら。この場面で、眠りこける弟子たちを前にしたら、この弟子のために身代わりとなろうとするでしょうか。身代わりになる者が、その意味を理解し、感謝するのであればまだしも、何も理解していない。キリストは、そのような者のために、身代わりとなるというのです。

 今日の聖句です。
 ローマ5:6〜8
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 キリストは私たちの罪の罰を身代わりに受けて下さる。私たちが立派だから身代わりになるのではない。私たちが信仰深いから身代わりになるのでもない。私たちが弱く、不敬虔で、罪人であるのに。それでも、私たちのために身代わりとなられる救い主。罪人の身代わりという大きな恐怖、苦しみを目の前にし、それをのけて下さいと必死に祈る。それも三度も祈るほどであっても、それでも私たちの身代わりとなる道をとられる救い主を今日覚えたいと思います。

 以上、十字架直前のキリストの姿を見てきました。私たちの救いのために、三位一体の神様がかくも苦悩されたこと。救いの御業が、機械的に、無感動になされたのではなく、神様の真実な、真剣な捨て身の業であったことを今更ながらに確認しました。この神様を覚えて礼拝する者でありたいと思います。
 そして最後に一つ、確認して終わりにしたいと思います。キリストが身代わりとなって、私たちを救って下さる。この救いとは、どのようなものだったでしょうか。キリストが私たちに下さる救いとは、罪の罰を受けなくて良いというもの。しかし、それだけではありません。神を離れ、どのように生きたら良いのか分からなくなっていた者を、もう一度神のもとに立ち返らせて下さる。それが救いでした。今日の箇所に合わせていうならば、キリストが下さる救いとは、私たちの心が「神様の御心がなりますように」と整えられていくことです。
 十字架直前、わざわざ弟子たちを集めて、この祈りの姿を見せられたキリスト。最大の恐怖を前に、それをのけて下さいと願いながらも、しかし最上のことは神様の御心がなることとする姿を見せて下さった救い主。なぜゲツセマネの祈りが聖書に記されているのかと言えば、キリストを信じる私たちが、このキリストの後をついていく者となるためです。
 もし人間関係で不協和音が出ているならば、自分の心を天の父の御心に調和すべきでしょう。もし置かれた環境、状態に不平不満を持つならば、天の父の御心を嫌がっていないか、確認すべきでしょう。
 ゲツセマネの祈り。私たちの救いのために、これほどの祈りをささげられていたと感謝します。それと同時に、これこそ私たちが生きていく上で基本となる祈りであると覚えます。私の願う生き方ではなく、神様が良しとされる生き方は何か。皆で祈り求めながら、神の子とされた人生を生き抜いていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師