2011年4月10日
礼拝メッセージ


「聖餐を味わうことの喜び」
  聖書
ヨハネの福音書6章52〜59節

6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。


  メッセージ
 時は春四月、場所は夕闇迫るユダヤの都エルサレム、とある家の二階座敷。ここで史上初めての聖餐式が行われました。
 ちょうどこの時期、ユダヤ最大の祭り「過越しの祭り」で都が賑わう中、イエス・キリストと弟子たちが囲むテーブルの上に並んだのは、小羊の焼肉、パン種を入れないパン、苦菜にスープにブドー酒。典型的な過越しの食事のメニューです。先ほど皆様とともに読みました、マタイ26:17〜29が描く場面でした。
 過越しの祭とは、この時から数えて千五百年ほど前、ユダヤ民族がエジプトの地に奴隷状態で苦しんでいた時、指導者モーセのもと、大挙してエジプトから脱出した「出エジプト」、エジプト脱出の救いを記念し、民族をあげ感謝するお祭です。
 何故、過越しの祭と呼ばれたのか。エジプトの圧制者を懲らしめる神のさばきがくだる時、家の門と鴨居に小羊の赤い血をしるしとして塗ったユダヤ人の家の前を、神のさばきが通り過ぎた、過ぎ越していったという出来事に因んでいます。
 また、このお祭は種なしパンの祭とも呼ばれました。何故か。エジプト脱出の時、人々が頬張ったのがパン種を入れない、長持ちするペチャンコのパンだったからです。
 弟子たちは、これまでも毎年、過越しの祝いをイエス様とともにしてきました。しかし、今回は何か特別。ルカの福音書には、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか。」という、イエス様のおことばが記されています。
 もう、今日の私たちにはその意味が分ります。弟子たちは気がついていませんでしたが、イエス様が弟子たちと過越しの食事をするのはこの日が最後。
 千五百年の昔から、ユダヤ人は自分たちのために犠牲となった小羊をささげてきましたが、今や、神の小羊として主イエスがご自身を十字架にささげられることで、その赤い血によって、信じる者の罪を贖う、神のさばきから救い出す、という大事業をしとげようとなさったのです。
 ご自身が犠牲の小羊として死ぬ前に、是非とも弟子たちにその意味を伝えねばならなかった大切な食事、大切な交わり。だからこそ、イエス様は十字架を前に、どうしても過越しの食卓を囲みたかった、その交わりを切に願っておられたのでしょう。
 ところで、それから数十年後。キリスト教会は奇妙な噂を立てられることになります。「キリスト教徒たちは、人間の肉を食べ、人間の血を飲んでいる」。人肉主義者、人の肉を食べ、血を飲む者と呼ばれた、気味悪がられたと言われます。もちろん、これは、キリスト教会に対する悪意に満ちた噂でした。
 しかし、そのような中にあっても、教会は決して聖餐式をやめることなく、これを守り続けたのです。「そんな非難にさらされる位なら、礼拝で聖餐式をやめてよう」とは考えなかった。
 何故でしょうか。それは、私たちの信仰の先輩たちにとって、イエス様が切に望み、これを定めた聖餐式が、本当に大切なもの、かけがえのないものだったからです。
 後になって、聖餐を深く味わうに至った弟子のヨハネは、ある時イエス様が人々との会話の中で語られたことばの重要であることに気がつき、それを自らの福音書六章に記しました。

 6:53 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」
 6:54 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
 6:55「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」
 6:56 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」
 6:57 「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
 6:58「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパン(わたし)を食べる者は永遠に生きます。」

 この短いことばの中に、何と「食べる」が六回、「飲む」が四回。怒涛のように、食べる、飲む、食べる、飲む、の連続です。イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲む者が永遠のいのちをもつこと、終わりの日に復活することの幸いが強調されています。
 ところで「わたしの体、肉を食べよ、わたしの血を飲め」と言われた、イエス様のおことばは、どのような意味なのでしょうか。
 長老教会が大切にしてきた理解はこうです。私たちクリスチャンは、聖餐式で目の前のパンを食べ、ぶどう酒を飲む。と同時に聖霊の助けによって、今天におられるイエス・キリストのからだと血とにあずかる、というものです。
 もう一度言います。私たちこの口、この体でパンを食べ、ぶどう酒を飲む。それを確かに覚え、現実に感じる。そして、その時、霊においては本当に、キリストのいのちにあずかる、というのです。
 昔から、説教は耳に聞く福音、聖餐式は目に見える福音と言われてきました。しかし、目に見える、と言うだけでは足りないかもしれません。目で見、手で触り、口で食べ、飲み、体で感じる福音。そう言って良いでしょう。
 パンと杯を通して、私たちの罪のために十字架に死なれたイエス様が、親しくご自分のからだと血とを差し出してくださる食卓。「さあ、遠慮しないで、食べてご覧、飲んでご覧。本当にわたしのいのち、永遠のいのちを味わえるのだから。」と、優しく招いてくださる食事。
 聖餐式とは、この世にありながら、イエス様が私たちに恵んでくださる永遠のいのちをゆっくり味わう、聖なる時間。何とも贅沢な食事、この世にふたつとない最上の食卓でした。
 では、私たちが聖餐式において味わうことのできる永遠のいのちとは何でしょうか。
 ひとつは、完全に罪を赦していただいたという喜びです。いつも、聖餐式では、パンと杯にあずかる前に、黙想の時間を持ちます。自分の罪を思う時間です。今日は、その後、罪の告白の祈りをご一緒にささげようと思います。
 普段、皆様はどれほど自分の罪を思うことがあるでしょうか。聖なる神さまの眼から見た、自分の罪の酷さを考え、悲しむ、そんな時間をとる事がどれだけあるでしょうか。
 人を責めることには熱心でも、神の前に自分を顧みること少ない者。社会の悪、人の罪を糾弾することのみ多く、自分の罪を悲しむこと無き者。ちょっとした善行や努力でいい気になって、心の奥に潜む動機や思いを、神の前に探ろうとしないのん気者。
 黙想、罪の告白は、そんな私たちのためにある時間、あるべき時間でした。聖なるお方の前で、自分の罪を思い、悲しむこと。然る後、差し出されたパンと杯にあずかり、キリストの恵みひとつで罪赦され、きよめられ、覆われた我が身を思い、喜ぶこと。これが永遠のいのちです。
 ふたつめは、愛し合い、祝福しあう交わりの中に入れられた喜びです。昔、教会はひとつのパンを順番に裂き、それぞれが口にしました。ひとつのパンを分け合うことで、お互いがキリストに連なるひとつのからだ、神の家族であることを覚えたのです。

 ヨハネ13:34〜35「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 どんなに立派な教会堂があっても、そこに愛しあう交わりがなかったら、教会ではない。どんなに良いプログラムがあっても、そこにお互いの存在を喜び、大切に思う交わりがなかったら、教会とはいえない。そうイエス様は教えて、これを新しい戒め、最も大切な戒めとされました。
 性格も、考え方も、生まれ育った環境も、社会での立場も、賜物も違う私たち。普通だったら絶対にひとつになりえないような者たちが、神さまによって集められ、ひとつ家族となる。お互いを家族のように愛し、祝福するために存在する教会。
 この世のどこにもない奇跡のグループ、交わりでしょう。聖餐式は、このような交わりの中に自分が導き、入れられことを感謝する、とともに、イエスの恵みで新たにされた愛で兄弟姉妹に仕えてゆく、そんな思いをもつべき時でした。
 最後三つ目。聖餐式は天の御国での生活を仰ぎ望む時だ、ということです。聖書では、天国での生活を、小羊キリストの婚宴、祝宴、つまりパーティーと表現しています。地上の聖餐式は天国での祝宴のリハーサル、前味でしょうか。
 天の御国で、私たちは様々な国と民族から来た、数え切れないほどの兄弟姉妹と出会うでしょう。お互いに、この地上にある時より、さらに深く愛し、愛され、もっと豊かに祝福し、祝福される。そんな交わりが待っています。
 しかも、私たちのからだは、イエス様と同じ栄光のからだ。住む所は、神さまによって新しくされ、美しくされ、豊かにされた新天新地。そこで、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロにペテロ、錚々たるメンバーと話をしたり、イエス様と肩を並べて散歩したりも出来る。日々恵みに溢れて、喜びは尽きない。
 私たちは聖餐式のたびに、やがて必ずや自分が入りゆく栄光の未来を思い、交わりを仰ぎ見て、喜びを新たにすることができるのです。いつも地上のことにのみ目が行きがちな私たちにとって、これがどんなに貴重な時間でしょうか。
 これらのことを心に刻みつつ、聖餐式にはいってゆきたいと思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師