2011年4月24日
礼拝メッセージ


「復活を前に」
  聖書
ルカの福音書24章36〜43節

24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:40 [本節欠如]
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。


  メッセージ
 人が死ぬとどうなるか。これは人間にとって最大の謎、最大の課題でした。死後の世界はどうなるのか。いや死後に世界などあるのか。多くの宗教家や哲学者が、この問題に取り組み、意見を出してきました。いや宗教家や哲学者だけでなく、全ての人が一度は考えることと言って良いでしょう。それこそ、小学生、幼稚園生でも考える。現代の日本では、消滅する。無になると考える人が多いといわれます。皆さまは死んだ後、どうなると考えているでしょうか。
 自分が死ぬとどうなるのか。自分の死について、死後について聖書から考えることは非常に大切なこと。重要なことです。何故なら、自分の死後についての考え方が、その人の生き方に大きな影響を与えるからです。
 もし仮に、人が死ぬと消滅する、無になるということを本気で信じるのだとしたら。想像してみて下さい。皆様の生き方はどうなったでしょうか。私などは、自分が楽しければ良いという生き方を突き進んだと思います。「死ねば一巻の終わりよ。」と嘯いて、刹那主義、快楽主義に走ったか。あるいは死を最大の恐怖として、ガクガク震えながら毎日を生きることになるのか。何にしろ、自分が死んだら無になると本気で考えるとしたら、今の生き方とは違う生き方になったでしょう。
 聖書ははっきりと、人が死んだ後どのようになるのか教えていました。人はこの地上で死んで終わりではない。無になるのではない。それどころか、むしろ死後の世界の方が重要であると教えています。私たちの地上での人生は、たかだか80年。その後続く永遠の世界と比べれば、どちらが重要なのか、考えるまでもないでしょう。
 それでは、聖書は人の死後、どのようになると教えていたでしょうか。それは、肉体の復活です。私たちはもう一度、体を持つということ。復活です。キリストを信じ、罪赦された者には栄光の体が与えられる。キリストを信ぜず、罪ある者は恥辱の体にて復活する。キリストを信じるか否かで、復活の仕方には違いがあるのですが、全ての人間が復活するというのが聖書の教えるところです。

 ヨハネ5:28〜29
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 霊魂不滅というだけでなく、人間は復活せざるを得ないと教えられている。皆様は、この復活という教えを、真剣に受け止めているでしょうか。
 肉体の復活という教えは、多くの人に受け入れられないもの。死の後、新たな肉体を持って復活するなどというのは、この世の苦しみを薄めるための方便、宗教家の出す麻薬だと言う人がいます。聖書は素晴らしい。キリスト教の教えは素晴らしい。しかし、復活という教えはいただけない。復活という教えがなければ、キリスト教はもっと良くなるのに、という人がいます。私の罪のためにキリストが十字架にかかられたのは分かる。しかし、復活したというのは、どうも考えられない。ましてや、自分がやがて復活するなど到底考えられない、という方もいます。
 多くの人にとって、復活というのは信じられないもの。考えられないもの。想像出来ないものです。しかし、それは今の時代に始まったことではありません。二千年前、キリストの弟子たちも、復活ということは信じられなかった。キリストと三年間共に生活をしてきた弟子。キリストの奇跡を多数目撃し、時には死人を生き返らせる奇跡まで見た弟子たち。その弟子たちに、キリストは十字架にかかる前、死ぬことと復活することを伝えていました。

 ルカ9:22
そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』

 このような宣言は弟子たちに一回だけなされたのではありません。繰り返し宣言されていました。そして、この言葉の通りのことが、キリストに起こります。つまり、拷問を受け、ののしられ、十字架で死ぬのです。
 ところが、三日目になって、キリストの復活を信じていた弟子たちは、一人もいませんでした。聖書にはその日の朝のことが記されています。墓を見に行ったのは女性たち。しかし手にもっていたのは、遺体に塗るための香料でした。男の弟子たちは、墓に行くことすらしていない。三日目によみがえるということは、繰り返し言われていたのに、誰も信じていなかったのです。復活というのは、到底、信じられる出来事ではない。私たちの周りにいる人も、私たち自身も、復活をなかなか信じられないのは、不思議ではないのです。

 さて、このような弟子たちにキリストは何をされたのか。ご自身が本当に復活したということを、あれやこれやと、お示しになるのです。今日の箇所は、そのうちの一つの場面。

 ルカ24:36
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。

 AD30年4月9日のことと考えられています。この日は人類史上、最も重要な出来事が起こった日。キリストの復活の日です。その夕方のこと。都エルサレムの片隅に弟子たちは集まり、興奮しながら話し込んでいます。
 話題となっているのは、キリストの復活。三日前に十字架で死なれたイエス様が、復活したという報告があったのです。イエス様は墓の前で女性たちと話された。そして、シモン・ペテロにも姿を現わした。更に更に、エマオ村に向かっていた二人の弟子たちにも姿を現わされ、仰天した二人の弟子は慌ててエルサレムに戻ってきたところ。続々と舞い込んでくる、キリスト復活の報。このニュースに、弟子たちは話しこんでいました。
 話し込んでいた。おかしいと思わないでしょうか。イエス様が復活したと聞いて、何を話しこんでいたのでしょうか。何故、復活したキリストを探そうとならなかったのか。この期に及んで、何を話しこむ必要があったのか。この時、弟子たちはキリストが復活したというニュースを聞いても、まだ復活が信じられなかったのです。これでもまだ信じられなかった。
 証言にしても、女たちの証言。そもそも女性は感性的だ。主観的だ。見たいと思ったものを見ただけではないか。これは信用ならない。(ルカ24:11には、朝の段階で、女性たちの報告はたわごとに思えたと記されていました。)
 では、ペテロの証言はどう考えたら良いのか。ペテロと言えば、キリストに最も近かった弟子。イエスを見間違えるなんてことはないだろう。しかし、あの十字架以来、ペテロの様子ときたらひどいものだった。憔悴しきっている。神経衰弱気味。寝不足で、夢でも見たのではあるまいか。そもそも証言は一人では足りない。二人以上の者が見たのではなければ。
 それでは、エマオから帰ってきたあの二人の弟子の証言はどう考えたら良いか。チラッと見たというのではない。村まで同行し、宿に入り、パンを裂いたというではないか。けれども、この二人は使徒ではない。このような緊急の時に乗じて、イエスに出会ったなどと言って自分たちを売り込んでいるのかもしれない。などなど。
 復活の報を前に、イエスに会いに行く、お出迎えをする、ではなかった。復活したイエス様に会ったと聞いても、話しこんでいた弟子たち。とことん、復活は信じられないもの、信じがたいこと。

 しかし、ここにキリストが現れたのです。もう一度、お読みします。

 ルカ24:36
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。

 一同、「え??」と驚く。他の人から、イエス様に会ったと聞いても、信じない。信じられない。その弟子たちの真ん中に、キリストが来られた。驚愕の瞬間。しかし、それでも一同の頭をよぎった思いは、復活ではなかったのです。

 ルカ24:37
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 見てはいる。確かに目の前に見えている。否定出来ない。しかし、待てよ。これは霊ではないか、と考えたのです。復活ではない。これはイエス様の霊だ、と。兎にも角にも、復活は信じられないのです。復活のキリストを目の前にしても、尚も復活とは思わない。
 この場面、イエス様の側から見ると、この弟子たちの姿はあまりにひどいもの。そもそも、以前より、復活を教えていました。それも、「いつか復活しますよ」ではなく、三日目に復活すると宣言していたのです。女性たちに、ペテロに、二人の弟子に会い、その報も届けられている。今や、目の前に現われた。それでも弟子たちは、復活を信じない。
 私がイエス様の立場だとしたら、もう知るかと去ったことでしょう。こんな輩、相手に出来ないと見捨てたでしょう。しかし、我らが救い主はそうされなかった。この弟子たちに、復活という出来事が本当に起こったことだと証されるのです。

 ルカ24:38〜39
すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』

 なぜ霊などと言うのですか。なぜ復活が信じられないのですか。ほら、私の体を見なさい。触りなさい。霊ではない。ましてや妄想でも、幻でもない。本当に復活したということを確認しなさい、とご自身の体を出すのです。勿体ないというか、申し訳ないというか、かたじけないというか。どうしても復活を信じられない弟子たちに、これでもか、これでもかと念をおすのです。
 ところが、ところが、これでもまだ弟子たちは信じられなかった。

 ルカ24:41a
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、

 悲しければ悲しいで信じられない。怪しければ怪しいで信じられない。それが今度は、嬉しければ嬉しいで信じられなかった弟子たち。ここまでくると、滑稽。コメディのようです。しかし、これが人間の姿。つくづく、復活というのは信じられないこと。考えられないことなのだと確認させられるのです。
 世界を創り、人間を創った方が、復活は起こると言われるのであれば、被造物である私たちは、ただただ「その通りです。」と言うだけで良いでしょう。ところが、私たち人間ときたら、復活を信じない。信じられない。くだらないことは、証拠なくとも狂信するくせに、神聖なこと、それこそ人生の最も大事なことになると、山のような証拠を前にしても信じない。今日の運勢がどうしたとか、手相がどうだとか、名前の画数がどうだとか、パワースポットがなんだとか言うくせに、キリストの復活とか、私たちがやがて復活することとなると、そんなことは分からないと言う。
 徹頭徹尾、復活を信じられない弟子の姿は、私たちの鏡です。科学が発達していない時代の人たちは、信じやすいのだという人がいますが、とんでもない。弟子たちはかくも懐疑的であり、冷徹でした。
 しかし、しかし、これで終わりではなかった。イエス様はこの弟子たちに更に、復活が事実であることを示されるのです。

 ルカ24:41〜43
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか。』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 復活の証言、三つを前にも信じなかった弟子たち。キリストを見ても、信じなかった弟子たち。ついには、その体に触れるように言っても信じなかった。それでは、と魚を食べてみせるイエス様。当時、霊は食べ物を食べないと考えられていました。それで、わざわざ食べるということを、復活の証とされたのでしょう。
 それにしても、「何か食べ物がありますか。」と聞かれて、そこにあった焼いた魚をだすというのも、不躾というか、図々しいというか。「もう十分です。復活を疑った私が間違っていました。」と平伏してしかりでしょう。それを「霊でないなら、食べてみせて。」とばかりに、魚を出す。
 しかし、イエス様はそれを受け取り、食べられたというのです。どこまでも、どこまでも人間に合わせて下さる救い主。復活が信じられないというなら、信じられるまで付き合う。人間がどこまでも不信仰でも、どこまでも付き合う。いかにしても、信じる者となそうとするイエス様の優しさが溢れる一幕だったのです。
 今やキリストの復活、そして私たち自身がやがて復活することを信じる者とされた私たち。なぜ、私たちが復活を信じることが出来ているのかと言えば、私たちの神様がこのような方。私たちがいかに懐疑的で、不信仰であっても、忍耐深い神様。この神様に導かれたから、私もキリストの復活を信じる者となれた。この神様の恵みがあったからこそ、地上での死で全てが終わると思い、欲望のままに生きるところだったのが、いや肉体の復活があるのだと教えられ、それに備える者となれた。大変感謝なこと。この神様の恵みを覚えて、神を礼拝する者でありたいと思います。

 以上、キリストの復活の場面を確認してきました。どこまでも復活を信じられない人間。その人間にどこまでも復活を示される救い主の一幕でした。
 最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。今日の箇所の中心的メッセージは、人間には地上での死の後、肉体の復活があるということ。キリストが復活されたこと。それによるメッセージは、人間はやがて復活する存在であることを示すものでした。これを本気で受け止める人と、受け止めない人では、その生き方が変わります。片や、この地上での人生が全てと思い、いかに人生を楽しむかに躍起になる人。片や、やがて起こる肉体の復活に備えて生きる人。私たちはどちらの人生を送るでしょうか。
 ところで、全ての人間が復活するというのが聖書の教えです。全ての人間が復活する。それならば、やがて起こる肉体の復活に備える必要はないのではないかと思うところ。備えようが、備えなかろうが復活するのであれば、どちらでも良いではないかと。しかし、復活の仕方は二通りありました。キリストに連なる者は、キリストに似た者としての復活。栄光の体への復活。キリストを否定する者は、恥辱の体に復活するのです。
 ですので、やがて起こる肉体の復活に備えるとは、キリストに連なること。つまり、キリストを救い主と信じることから始まります。その上で、神を第一とする生き方。天に宝を積む行き方。地上では旅人、国籍は天にある者の生き方をするのです。

 今日の聖句です。マタイの福音書16章26節
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 この地上でのことに躍起になる。それで仮に全世界を手にいれることが出来たとしても、栄光の体で、天国で永遠に過ごすための永遠のいのちを損じたとしたら、一体何になるのか。キリストの復活を記念する、このイースターの朝。私たちは、もう一度キリストを信じる信仰を確かめ、天国での生活に焦点を当てて生きていく決心を新たにしたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師