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メッセージ
東日本大震災から被災した人々への支援、原子力発電所事故への対応、廃墟と化した町の復興、故郷を離れ、避難した人々の生活の安定。今だ、問題、課題は山積状態です。日本中の人々の心が未だ不安と緊張の中にいるように感じます。
このような状況の中、私の心を捉え離さなかった聖書箇所があります。それが、黙示録3:14〜22、今お読み頂いたところです。
黙示録の2章から3章にかけては、当時地中海のパトモスという島に流されていた使徒ヨハネに対し、イエス・キリストが「書き送れ」と命じた七つの手紙が記されています。七つの手紙ですから宛先の教会も七つ、その頃は小アジア、現在はトルコの国にあった教会への手紙で、今日取り上げたのは、その中でも最後の手紙、ラオデキヤ教会への手紙となります。
最後に登場する教会ですから、さぞかし立派な教会、忠実な教会なのかと思えば、さにあらず。16節に「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」といわれているように、ラオデキヤ教会は、イエス様から最も厳しく叱られた教会でした。
ところで、ラオデキヤとはいかなる町だったのか。当時最も富んでいた商業の町。銀行が発達し、織物、特にこの町の絨毯は高級品として知られていました。それと、もうひとつ、有名な医学の大学まであったというのです。
産業の町、金融の町、学術、医学の町。三拍子揃った町として、ラオデキヤの市民は心満ちたり、安定した生活を楽しみ、繁栄を誇っていたと言われます。そんな恵まれた環境にあったのがラオデキヤ教会。この辺は、つい昨日までの日本及び日本の教会と何と似ていることでしょう。
果たして、このラオデキヤ教会のことを、イエス様はどう思っておられたのか。
3:14「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』
教会の御使いとは、ラオデキヤ教会の牧師のこと、『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方』とは、教会の主イエス・キリストの自己紹介のことば、と考えられます。
特に、「神に造られたものの根源である方』という言葉は、自信に満ちていたラオデキヤ教会に対し、実に痛烈でした。「ラオデキヤの人々よ。あなたがたの誇っているものは、元々あなた方の物ではない。すべては、わたしが造り、わたしが与えた物。すべて富という富の源はわたしにあるのではなかったか」。そう言って、おごる教会に面と向かわれたイエス様のお姿を目に浮かべることができるでしょう。
迫害もなければ分裂もない。貧しさもなければ不道徳もない。ふわふわとした布団のような環境の中で、いつの間にか「これでよいのだ。自分たちの町も教会も何と良きことよ」と思いこんでいた人々には、強烈なキリストの自己紹介でした。
そして、先ず、自己満足で膨れ上がった、まるで風船球のようなラオデキヤクリスチャンの心を木っ端微塵にする、非難叱責の言葉が、イエス様の口から漏れたのです。
3:15、16「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
生ぬるのラオデキヤ教会。それに対する不快感を露わにしたイエス様のおことばでした。「あなたは間違っている」と言われるよりも、「あなたは不愉快だ」と言われた方が、一層きつく感じますし、恥ずかしく思います。
それに「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。」という主のおことばは、ラオデキヤのクリスチャンたちの心をズキンとさせたでしょう。というのは、ラオデキヤの上のヒエラポリスという町は熱い温泉で有名でしたし、また、下にあるコロサイの町には冷たい水が湧き出ていました。しかし、ちょうどふたつの町の中間にあったラオデキヤの川には、生ぬるい水が流れていたらしいのです。
「熱いお湯は人を癒し、冷たい水は人を元気付けるが、なまぬるい水はどちらの役にもたたない。」という、その頃の諺も残っています。
私たちも喉が渇いた時、ヒヤッとした冷たい水は気分爽快ですし、フーフー息を吹くぐらいの熱いお湯は、飲み終わると、渇きを沈める効果は抜群でしょう。しかし、なまぬるいひなた水を飲むと、吐き気がします。
信仰も熱いなら熱い、冷たいなら冷たい。はっきりしていれば、対処の方法もありますが、中途半端のどっちつかずが一番始末に悪い。ぬるい信仰者は、歯がゆくて、不愉快だ、とイエス様は言われるのです。実に手厳しい一言でした。
ダンテは「神曲」の中で、天国にも入れず、さりとて地獄にも受け付けてもらえない、なまぬるい、中途半端な信仰者の姿をこう描いています。彼らは「神に仕えるでもなく、そむくでもなく、ただ自分たちのためにだけ存在した者」「慈悲と正義を馬鹿にし、人の苦しみに無関心だった者たち」「神にも気に入られず、また神の敵であるサタンにも嫌われる人々」。
産業、金融、学術が盛んな繁栄した町にあった教会。迫害も、分裂も、貧しさも、不道徳もない安定した教会。しかし、見かけは立派でも、ナカミのないウドの大木のような教会ラオデキヤ。
果たして、「わたしはあなたの行いのすべてを知っている」と言われるお方、イエス・キリストの前で、「自分は大丈夫」と自信をもって言えるか。それとも、「なまぬるい」と叱られる組に入るのか。私たち自分を顧みるべきところでしょう。
しかし、よく注意してみると、イエス様は「吐き出す」と仰っているのではなく、「吐き出そう」、正確に言えば「吐き出そうとしている」と語っていました。「吐き出す」と決定していたのではなく、「吐き出そうと思う」と残念な思いを口にされただけ、なのです。
つまり、ラオデキヤ教会には、まだ立ち直る猶予が与えられていた、再び熱い信仰に立ち返るチャンスが残されていました。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」という、キツイこのおことばは、彼らを裁く宣告ではなかった、むしろ、なまぬるい信仰者を励まし、何とかして立ち直らせたいと願う、主の熱い愛のおことばだったのです。
しかし、それにしても、ラオデキヤ教会の病気は深刻でした。
3:17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
病気の中でも最悪の病気は、自覚症状がないもの、とされます。よく「肝臓は沈黙の臓器」と言われるでしょう。肝臓の病は、本人に自覚がないまま、どんどんと進行し、気がついた時にはもう手の施しようがない、と言うケースが多いからです。
ラオデキヤ教会は、自分では「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と思い込んでいた。けれども、名医であるキリストの診断はと言うと、「あなたがたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」という重病なのに、それを自覚していないという酷さだ、と言われるのです。
繁栄を誇ったラオデキヤの町にある教会の信仰は、みじめで、哀れ。町の銀行には金がうなるほどあったのに、教会の愛の行いは貧しい。ラオデキヤは目薬が特産品だったのに、教会のクリスチャンの心の目はイエス・キリストに対して盲目。そして、毛織物で有名な町に住みながら、信仰者は自分の罪を覆う衣のない裸、と言う有様でした。
体ばかり太って、信仰と愛においてやせこけたクリスチャン。この世の富には目がいっても、自分が見えない裸の王様。しかし、こんな教会、こんなクリスチャンのためにも、全力で治療につとめるのが、私たちの救い主イエス・キリストでした。
3:18「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
昨日まで揺らぐことなかった大地が揺らぎ、一瞬にして町を崩壊せしめる。昨日までないでいた海が牙をむき、瞬時にして、スーパー堤防を越え、車や建物、田畑を飲み尽くす。安全と言われていた発電所が、日が変わった途端、災いの元となる。
今度の大震災を通して、私たちが思い知ったのは、大自然の猛威の前に、人間が築き上げた富や繁栄、安全や安定は何と脆いものかということ。人間とは、何と無力な存在かということ、人を思いやり、人を助ける愛において、自分は何と貧しい者かということ、そして、この世の富には目を見開きながら、まことに頼るべき造り主の神を見上げる信仰の目がいかに閉じていたか、ということでしょう。
しかし、そんな私たちに決して匙を投げず、豊かな者となるため、わたしから、火で精錬された金つまり永遠に朽ちない富を買え、白い衣、即ち義の衣を買え、信仰の目が開くように、目薬を買いなさい、と忠告してくださるイエス様。このありがたい親切、この勿体ないような寛容を覚えつつ、私たち自分の罪を告白する者でありたい、と思わされます。
さて、これまで専らラオデキヤ教会に対して、厳しい顔、きつい顔を向けてきたイエス様ですが、いよいよ愛のみ顔を向け、語ってくださることになります。
3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
今回の未曾有の災害に関しては、人それぞれ様々な考え方があるでしょう。決して一様ではないでしょうし、一言で語りつくせるものでもありません。しかし、私個人としては、イエス様に「お前の信仰は、なまぬるくなっていなかったか」「人を愛し、仕えることにおいて貧しくなかったか。」。そう叱られたと感じています。イエス様から愛の鞭を受けたのだ、と思っています。
先週、皆様から預かった救援物資を持って、福島県いわき市に行った時のことです。平キリスト教会に、全国から集まったクリスチャンボランティアたちにより、夜のミーティングの後、ごく自然にプログラムのない礼拝が始まりました。「ここに、この場所に、キリストがおられる」と、深く覚えた感動的な礼拝でした。
その中で、平キリスト教会の森牧師が、「主よ、私が右の手のしたことを左の手に知らせないようにしてください。私の内に生きるキリストが、私の罪のために十字架に死なれたキリストがすべてをなさり、私を使ってくださったことに感謝します。」そう祈られたのです。
ちょっと良いことをするとすぐに膨れ上がる私の高慢な心がとても恥ずかしく、しかし、それを主が砕いてくださったことを、賛美した瞬間でした。「熱心になって、悔い改めなさい」。この主のおことばは、私たちいつも心に刻んでおくべきでしょう。
さて、ついに有名なキリストの招きのことばです。
3:20「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
何と優しく、親しいお招きでしょう。それも、なまぬるのお湯に浸かって、うつらうつらしていたような信仰者のことを思って、戸を叩いてくださる救い主イエス様のお姿です。しかも、ここで言われる食事、元の言葉では一日のうち最も豪華な食事を差すそうです。ゆっくりと時間をかけて、テーブルのご馳走を食べて欲しい、と願うイエス様のご慈愛です。
大宇宙を造られた神、空に太陽を掲げ、夜には星をちりばめる神が人となって、この世に来られ、十字架にかかられた、と言うだけでもありがたいことなのに、なおも中途半端な、どっちつかずの者のためにとことん心砕き、心の戸を叩いて、中に入ると、親しく交わってくださるという幸いです。
そして、最後の祝福はさらに物凄いものでした。
3:21,22「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
私たちがキリストの座に着くという驚くべき約束は、先ほど交読文でイザヤ書を読みましたが、そこに描かれた神によって新しくされた天と地、神によって美しく、豊かで、平和に整えられた世界を、私たちがキリストともに受け継ぎ、そこに住むという、尊く、嬉しく、心躍るようなお約束となっています。
さて、今日皆様とともに心に刻みたいことがふたつあります。ひとつは、このような混乱と緊張の中にある時こそ、神を礼拝し、キリストと親しく交わることを大切にしたい、ということです。
神を拝して、自分のみじめさ、まずしさ、霊的な盲目を知ること、それを悔い改めること、キリストの恵みで癒されること、力と平安を受け取ること。この様な時だからこそ、物事に取り掛かる前に神を礼拝し、一日の終わりにイエス様を心に招いて、交わる時を持ちつつ、人のために働き、労する者でありたいのです。
ふたつ目は、神によって新しくされる世界を受け継ぐ者の責任を覚えて、生きてゆきたいということです。クリスチャンの幸いは、今日本と世界がどんなに酷い状況にあろうとも、神が必ずこの世界を日本をきよめ、新しくしてくださることを知っていることです。この信仰を胸に抱いているかどうかで、人の生き方は全く違ってくるでしょう。
神のもたらす新しい世界を信じる者は、この世界がどんなに混乱しても絶望しない、屈しない。人に偉大な希望を伝えることができる。神に仕え、人に仕える働きが決して無駄にはならず、それどころか、神さまから途方もないごほうびを貰える事を信じているので、喜んで労苦を負えるのです。こうした責任を覚えたいのです。
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