| |
メッセージ
聖書創世記を通して、私たちが学んできました「世界の歴史の初め」も、今日は創世記第四章に入ります。
第一章は、神による天地創造、第二章は神に愛された人間の、エデンの園での幸いな生活。最初の世界、創造されたばかりの世界は、明るさに満ちていました。それが、第三章に入ると、様子が一変。明から暗へ、暗転しました。
原因は人間の堕落。大きな恵みと自由を与えられていたのに、「園の真ん中にある木からはとって食べてはならない。」という、たったひとつの禁止命令に不満を感じ、神に背いた人間。神に愛され、幸せを満喫していた人間が、何とも愚かで、卑しい存在に変わり果ててしまった姿を、創世記三章は描いていました。
しかし、同時に、こんな人間をなおも生かしめ、救おうと、いかに心砕いてくださったか。神さまの溢れんばかりの愛もまた、第三章に輝いていた事を、私達確認しました。
そして、今日の第四章。アダムとエバ夫婦の生活の舞台は、エデンの園の外へと移り、ここで彼らは子宝に恵まれます。アダムとエバからカインが生まれて、親子の関係が生じ、カインの弟アベルが誕生して、兄弟の関係が生じる。夫婦、親子、そして兄弟。神はお約束どおり、人間の存続を許されたのです。
先ずは、アダムとエバ夫婦に長男誕生の、嬉しく、明るい出来事が起こります。
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
出産の喜びです。エデンの園を追放され、気落ちしていたアダムとエバ夫婦には、待望の子孫誕生であり、心慰められたでしょう。
しかも、エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と、主に向けて感謝の声をあげていました。エバは自分の罪を悔い改め、主なる神に心立ち返り、この出産を、主の恵みと受けとめていたのです。「こんな私を、神さまはよくもあわれんで、人の子の親としてくださった」と、喜びを噛締めながらの告白でしょう。
「カイン」の意味は「私は得た。手に入れた」です。神に背いて情けない思いを抱いていただけに、「神さまによって、こんなすばらしいものを手にすることが出来たなんて」と、エバの感激もひとしおだったに違いありません。
しかし、母親エバへの祝福は、これに止まりませんでした。長男に続く次男誕生です。
4:2 「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」
「アベル」とは、「水蒸気」とか「はかないもの」を意味します。アベルは生まれた時から体が弱く、その行く末を両親が心配したのか。それとも、「人の命ははかないもの」という謙虚な思いを、神に対して表したかったのでしょうか。
それはともかく、カインとアベル、兄と弟はともに同じ家、同じ境遇に育ちながら、いつしか違う性格を示し、異なる仕事につくようになります。兄は土を耕す人、農夫に、弟は羊を飼う者、羊飼いに。各々自分に適した仕事を選んで、独立。両親も「やれやれ」と一安心した頃、思いもかけない悲劇が一家を襲いました。
きっかけは、神への礼拝、おそらく一家揃っての家庭礼拝でのことです。
4:3〜5「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
これは、聖書における礼拝の最初の記録。一旦は神に背いたアダムとエバも、神の恵みに立ち返り、神を礼拝する者となっていた、そしてその良き習慣は子どもたちにも受け継がれていた、と考えられるところです。
兄カインは土を耕す者として、地の作物、野菜や果物をささげ、弟アベルは羊飼いらしく、羊をささげた。ところが、ここに分裂が生じたのです。「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とある通りです。
何故、主なる神は弟のささげ物を喜び、受け入れながら、兄のささげ物を喜ばれなかったのか。よくよく読んでみると、その理由が思い当たります。
第一に、ささげ方が違っていました。兄カインについては、ただ「地の作物から主へのささげ物を持って来た」と言われています。そこら辺に生えていた物を、いかにも無造作に持ってきた、と言う印象を受けます。
それに対して、「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」とあります。ささげたという点では両者同じでも、アベルの場合、丁寧で心が込められていました。カインの無造作、投げやり、義務的なささげ方に対し、アベルのささげ方には、主なる神への愛と尊敬が込められていた、と見えます。
また、アベルのささげ物が羊ということは、血が流されたと言うことでしょう。それに対して、カインの物は野菜や果物、血とは関わりがないものばかり。ここから、アベルの礼拝には、尊い血による罪の贖いを願う信仰が込められていたのに対し、カインの礼拝には、罪の意識も、贖いを願う信仰もなかった、と考えられてきました。
兄カインの内には神を崇める思い、救いを願う心、感謝の念が無かった。だから、神はそのささげ物を喜ばれなかった。しかし、それを知ったカインは怒ったと言う。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とある通りです。
「私に足りない点があったら教えてください」という謙遜ではなく、「何で、けちをつけるのか」という傲慢、「俺のやり方のどこが間違いだと言うのか」という不貞腐れ。罪に堕ちた人間の特徴のひとつは、自分の欠点を指摘され、示されると怒り出すこと、この病いをまざまざと見せ付けるのが、カインの態度でした。
しかし、神さまはカインをあわれみ、何とか正しい方向に導こうと努めます。
4:6、7「 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」
「カインよ。今あなたの心は強烈に罪に引かれている。危ない、危険だ。今すぐ、心を正し、素直になって、わたしの助けを求めよ。」カインを心配する神さまは、ブレーキをかけ、悔い改めのチャンスをお与えになったのです。
しかし、このブレーキは利きませんでした。怒りに駈られたカインは、神の親切な警告を無視し、弟を野に誘います。
4:8「しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」
神の祝福の中に生まれたはずの兄弟が、殺し合いを演じる。兄が殺人者になり、行く弟がその被害者になる。親よりも先に死んでしまった子ども。それが自然死でも、病死でもなく、老い衰えたからでもなく、実の兄に殺害されたという不幸です。
神の期待を裏切る人間の罪深さ。両親はもちろんのこと、神の深い嘆きの声が聞こえてきそうな場面でした。けれども、すべてをご覧になった神は、悲しみをこらえて、殺人者カインに声をかけたのです。
4:9 主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。』と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』」
「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」とは、慈しみに富みたもう神にしか発せないことばかもしれません。神は、この殺人者の弁明等聞かず、問答無用で、すぐにさばいてもよかったのではありませんか。それを、なおも一個の大切な人格として取り扱われる。そうやって、カイン自身に罪の告白をさせ、悔い改めに導こうとされたのです。
それに対する、カインの答えはどうか。これが何とも酷い。「知りませんよ。アベルのことなんて、知るもんですか。私は弟の番人なんかじゃありませんよ。いつ、そんな者になったって言うんですか。」親の心子知らず、と言いますが、これは神の心人知らず。神のいつくしみを足蹴にする、ふてぶてしい罪人の言い草でした。
そして、事態がここまで来て、ようやく神のさばきが下るのです。
4:10〜12「そこで、仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』」
しかし、です。さばきとは言うものの、よく見るとカインの罪の故に呪われたのは土地でした。カイン本人はと言うと、「地上をさまよい歩くさすらい人となる」とは言われていますが、生き延びることを許されたのです。
神のさばきは、カインを直撃しないで、土地に下った。神のあわれみはどこまでも尽きることなし、と改めて思わされる一齣です。
さて、ここまで寛容に扱われ、尽きることなき神のあわれみを身に浴びたのなら、あの傲慢、頑固、不遜なカインもついに心へりくだり、罪の悔い改めに至る、と思いたい、願いたい。私たちそんな気持ちになります。しかし、残念なことに、カインと言う人はどこまでもカインだった、その本質は変わらなかったのです。
4:13,14「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』」
「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」とは、さばきを恐れての泣き言、神のさばきへの恨みのことばです。また、「ああ」という嘆きから始まり、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」との告白は、自分のための命乞い、自分が罪を作っておきながら、自分が危険な目にあうことへの不当を嘆くものでした。つまり、カインのどこをたたいても、自分の罪を悔い改める心というものが見えてこないのです。
誰だって、こんな人が目の前にいたら好きになれない。不愉快極まりない。「自業自得じゃないか」と言って、突き放してしまいたい。そう思うでしょう。それなのに、主なる神さまは、このような者をも惜しみ、声をかけ、その命までも保証されたのです。
4:15,16「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」
誰もその命を奪わぬようにとカインを守り、生かしめ、悔い改めて、ご自身に立ち返る機会を恵もうとする神さまの思いやり。この神を仰いで、今日の箇所は幕切れとなります。
最後に、今日私たち心に刻みたいことが三つあります。ひとつ目は、神さまは人の心を見るお方だ、ということです。
ヘブル11:4a「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。・・・」
カインとアベル、神を礼拝し、ささげ物をしたという点では全く同じだったふたりの兄弟。しかし、無造作、投げやり、義務的なささげ方をした兄のささげ物は喜ばれず、弟のささげ物は喜び受け入れられた。
神は、私たちが何を、どれだけささげたかより、その心に、神への愛、敬い、神による罪の赦しを切に願う信仰があるかどうかを見られるお方、私たちはこのような神さまをどれ程意識して礼拝しているでしょうか。このような神さまの御前にあることを、どれ程覚えて、仕事をし、家事に励み、子どもを育て、人との関係を良いものにしようとしているでしょうか。私たちの心を見られる神、このお方をいつも意識し、覚えつつ、歩む者となりたいと思います。
ふたつ目は、神さまは私たちの心が健やかであるために、罪の悔い改めを求めるお方だ、ということです。自分の欠点を示され、怒ったカイン。神の警告を無視して、罪を犯したカイン。問われると、ふてぶてしい言い草で、神のあわれみを足蹴にしたカイン。しかし、振り返ってみれば、カインには私たち自身の影が見えます。
そんなカインを見捨てず、見放さず、どこまでも悔い改めに導こうと、心砕かれた主なる神さま。私たち以上に、私たちの救いに熱心な神。「カインになるなかれ。罪を悔いて、わたしに帰れ。」こんな神さまからのメッセージを聞きたい、いや聞くべきなのが、今日の箇所ではないでしょうか。
三つ目は、エデンの園を用意された時も、エデンの園から人間を追放された後も、全く変わらない神さまの愛を仰ぎたい、ということです。
アダムとエバ夫婦という第一世代に比べると、その子カインの罪はより深刻で、暗くあります。素直に悔い改めることなき心の頑なさも度を増していました。つまり、人間とその社会は、あるべき状態からどんどん酷くなっていたのです。
しかし、エデンの園の時代も、そこから出された後も、人間に対する神さまの愛は変わらなかったし、変わっていない。いや、むしろ人の罪が深くなるにつれ、神の愛も深く、そのあわれみは尽きないことを、私たち確認し、この愛の神に生かされていることの幸いを覚えたいのです。
|