2011年5月15日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(14)」
−カインは町を建て−
  聖書
創世記4章16〜26節

4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。
4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。


  メッセージ
 昔「エデンの東」という映画がありました。映画ファンなら観た事がある、たとえ観た事はなくとも、その名を聞いたことはあるだろう名画です。
 父親と二人の息子の家族。兄は優等生で、お父さんのお気に入り。対する弟は自由奔放、何かにつけて兄と比べられので、劣等感に悩み、父親に反抗的。しかし、その心根は純粋な青年でした。この弟がお父さんに愛されたくて、ある事件を起こし、最後は交通事故で死んでしまう、という悲しい物語でした。
 しかし、人類の先祖アダム家の問題児は、弟ではなく兄でした。兄のカインは世界最初の殺人犯、何と血を分けた弟を手にかけ、ついには主なる神の前から立ち去り、住みついたのがエデンの東、すなわち、神が備えた楽園エデンの東側の土地だったのです。

 4:16 「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」

 立ち去る息子を見送る両親、アダムとエバの心はどんなだったでしょう。カインが生まれた時、母親エバは嬉しさの余り、「私は、主によってひとりの男子を得た」と告白しました。神に背いてエデンを追い出された自分たちダメ夫婦に、神が与えてくださった宝物の男の子。望外の幸せに、エバは感謝の声をあげて、神を賛美しました。
 この可愛い赤ちゃんが、まさか殺人者になるなど、夢にも思わなかったでしょう。それが長じて、自分の弟に手をかけた。しかも、「自分が悪かった」と謝ることも、感謝のひとこともなく、去ってゆこうとする。
 親の辛さは、産みの苦しみに育ての苦しみ、と言われますが、弟息子アベルは若くして死に、今兄カインは自分たちのもとから消え去る。余りのことに、父アダムと母エバの胸は悲しみに潰れ、流す涙も止まらなかったに違いありません。
 しかし、ここに両親と同じく、背を向けたカインのことを悲しむお方がいた、と思われます。世界を創造した主なる神ご自身でした。
 人間の住まいとしてこの豊かな世界を創造し、整えられた神。人類の先祖のためエデンの園を備えた神。それなのに、人間ときたら、何一つ不自由の無い楽園に暮らしながら、たった一つの禁令を不満に思い、恵みの神に背いた。その子どもはというと、兄が弟を殺しておきながら、罪を悔いることばの一つもなく、背中を向けて去ってゆく。
 創世記もまだ四章、世界の歴史はスタートしたばかりというのに、人の罪は深刻の度を増し、人間はあるべき所からますます堕ちてゆく。こんな人間の姿を見なければならない神さまのお心こそ、張り裂けんばかりの悲しさで満ちていたことでしょう。
 それならば、こんな不道徳で不真面目でふてぶてしいカインなど、滅ぼされて当然、と思われますのに、神はカインがエデンの東に住みつくことを許された。いや、許されたばかりか、こんな許されざる男の子孫を増やし、町を建てることまで許可された、と言うから驚きです。

 4:17「さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」

 「カインは町を建てた。」別の訳では「都市を立てた」とあります。町、都市、人が集まって暮らす共同体です。道路が敷かれ、公共の建物が建てられ、城壁が築かれる。カインは世界最初の都市の支配者、町長、市長になったということです。
 この人にはこんな賜物があったのか、と何か以外な気がします。カインの息子のひとりエノク、このエノクには「始め、始まり」という意味があるそうです。
 昔のことは忘れ、この町が人生の新しい出発となる、そうしよう。そんな意気込みが伝わってきます。と同時に、昔のことの中に、主なる神のことも、両親のことも、弟アベルのことも含まれている様に思われるのは残念でもあり、気になることでした。
 しかし、それでもカインの子孫はますます増加の一途をたどり、町は巨大化します。この後に登場するのは、カイン家を代表する人々の名前、と考えられます。

 4:18「エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。」

 カインの息子エノクに続くはイラデ、メフヤエル、メトシャエル、レメク。聖書に記された当時の寿命の長さを考えると、六代目のレメク誕生に至るまで、初代カイン自身ゆうに命を生きながらえていた可能性があります。
 つまり、カインは生きながらえて、我が子孫の繁栄、我が町の繁栄を目にすることができた、ということでしょう。それなのに、初代カインを初め、その子孫の誰ひとり、神を礼拝したとか、神に感謝をささげた、と言う記録は残っていません。
 これが、カイン的な生き方というものだったのでしょう。ひたすらに願うのは、自分や子孫の存続と繁栄。そこには、命と繁栄を賜える神への礼拝も感謝も、畏れも無い。ただただ自分たちの力の拡大を願うばかりで、神に罪の赦しを願う、敬虔さのかけらも見えない。
 ただし、メフヤエルとかメトシャエルのように、その名前にエル、つまり神ということばが入っている人物もいます。しかし、これも家内安全とか商売繁盛、無病息災と言った現世利益を願う心からつけられた名前に過ぎない、とされます。
 初代カインからして、「カインに復讐する者には、七倍の復讐をする」と、神から命の保証をもらうと、それを手にして、さっさと神の前から立ち去った人でした。カインの子はカイン。子どもたちの信仰が神ご自身をではなく、神からのご利益だけを願うご利益主義、ご利益信仰であったとしても、不思議ではないでしょう。
 そして、系図の最後に登場するのがレメク。レメクは、最もカインの生き方を濃厚に受け継いだ人物、カイン以上にカイン的な人でした。「レメク」とは「強い者、王」と言う意味ですが、実際のレメクは、不道徳で独裁的な暴君でした。

 4:19「レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。」

 神が世界の始めに定めた一夫一婦制が崩された瞬間でした。恐らく、レメクは有能で、自信満々の人だったでしょう。これまでの父祖たちは一夫一婦制で人口増加をはかってきました。でも、レメクにとっては、もうそんなやり方はまどろっこしい。「俺のような優秀で、力ある者の子どもがどんどん増えた方が、町も一層発展、繁栄するというものだ。」そんな高ぶりからでしょうか。あのふてぶてしいカインでさえしなかったこと、神の定めた一線を、この人は何の恐れも無く、軽々と、越えたように見えます。
 そして、都市につき物と言えば文明でした。カインの子どもたちによって、町の富は増大、芸術が花開き、産業も栄えたのです。

 4:20〜22「アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。」

 ヤバルが飼っていた家畜とは、牛やらくだのような大きな家畜のこと。大きな家畜を大量に飼いながら、天幕による移動生活をなす専門の牧畜家、それがヤバルでした。それゆえ、ヤバルは家畜を飼う者の先祖と呼ばれています。専門的で大規模になった牧畜業は都市に住む人々に食料をもたらし、胃袋を満たしたでしょう。
 また、弟ユバルは竪琴と笛を演奏する者の先祖、つまり音楽家、芸術家です。さらにその弟のトバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋。つまり、戦いの武器にもなりうる強力な青銅器、鉄器の誕生、工業文明の祖です。レメクの子どもたちは実に多士多才でした。
 最後に、トバル・カインの妹はナアマと名づけられます。「楽しみ、快楽」という意味でした。繁栄した都市文明、そこでの生活を、カイン家の人々がいかに謳歌し、楽しんでいたかを思わせる名前です。
 しかし、です。カインの家の人々に、牧畜業、芸術、工業技術などの良き賜物を神から頂いたという感謝はあったでしょうか。豊かな富、美しい音楽を神の恵みとして楽しみ、神の栄光を表すべく良き仕事に励むという信仰はあったでしょうか。
 残念ながら皆無でした。むしろ、その生活は不道徳、その心は奢り高ぶり、神を畏れ、敬う信仰は消え去っていたのです。そんなカイン家の精神を表したのが、自らを王とし、力を誇るレメクの歌、それも何とも言えない下品な歌でした。

 4:23、24「さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』」

 どうも、この頃レメクはひとりの若者に傷を受けたらしいのです。取り巻きたちと道を占領するように歩いていて、そこで足でも踏まれたのか、相手の肩が触れたのか。とにかく、大した傷でもないのに、プライドの高いレメクは腹の虫がおさまらない。怒りにまかせて、取り巻き連中に命じ、若者をこてんぱんにやっつけ、殺してしまった。
 それを、「悪かった、やりすぎた」と反省するどころか、家に帰ると、妻たちに自慢話として歌って聞かせた、というのです。余りにも酷い歌でした。
 特に、「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」とあるのは、父祖カインを神が七倍の復讐で守ったと言うのなら、自分は七十七倍もの復讐で神に守られている者、いや神に守られる価値のある者だとの、とてつもなく高慢な心を表しています。あのカインも真っ青の不敬虔、ふてぶてしさ、高慢、倣岸な男レメクでした。
 結局、カインとその子孫が築いた一見華やかな繁栄、文明の裏側には、暴力と不道徳と恐怖、そして虚しさが満ちていた、ということでしょう。
 しかし、こうして人の世から神への信仰が消え、どうにも救いようの無い状態へ世界は堕ちてゆくのかと思いきや、アダムとエバに新しい子どもが生まれ、神の恵みはそこに花開くこととなります。すなわち、セツとその子孫たちです。

 4:25、26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」

 セツとは「定められた」という意味だそうです。あの信仰の人、しかしそれ故に苦難を受けたアベルに代わって、神が定めた人、人の世からまことの信仰を絶やさぬため生まれるよう定められた人、と読めます。
 また、セツの子どもエノシュは「弱さ、脆さ」を表します。カインとその子孫には、レメクをその代表とするように、有能さ、富、権力等、とかく自分の強さを誇る人ばかりでした。それに対して、信仰の人セツは、神の前で自分の弱さ、もろさを強く自覚し、へりくだったので、我が子をエノシュと名づけたのでしょう。
 そして、セツの信仰はエノシュの代に大きな実を結びました。「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」これは、人々が公に集まって神に礼拝をささげること、今で言う教会における聖日礼拝、公同の礼拝の初め、と考えられています。
 方や、神を忘れ、自らの力を誇るカインの流れ。方や、神を尊び、神を誇りとするセツの流れ。一方に、富と力を神とする人々があれば、他方に、神を我が富、我が力とより頼む人々がいる。創世記四章は、こうしたふたつの流れ、ふたつの生き方を描いて、閉じることになります。
 さて、今日皆様とともに覚えたいことが三つあります。
 ひとつは、この世の文明には落とし穴があることに気をつける、ということです。カインに与えられた町を建てる能力。その子どもらが持っていた産業を興し、芸術を生み、技術を磨く賜物。これらすべては神が与えたもう善い物でした。文明は神の賜物です。
 しかし、エデンの東に栄えた産業、芸術、技術は、人を奢らせ、過信させました。道徳は地に落ち、宗教心は消え去りました。現代の私たちはカイン文明より、より豊かで、より便利で、より強力な文明の中に生きています。
 けれども、神抜きで築き上げる文明、あるいは文明の利器は、人の心をますます神から離れさせ、本来のあるべき姿、生き方から遠ざける危険がある、このことをよく覚えておきたく思います。
 ふたつめは、だからこそ、神の賜物である富、芸術、技術等を神さまのご栄光のために、善用、活用する使命が、私たちクリスチャンにはあるということです。
 与えられた富を神さまの働きのため、困窮している人々のために喜んでささげる。神さまの賜物として、心から芸術を楽しむ。自分の仕事を喜び、これに勤勉に取り組んで、成果はすべて神さまの栄光に帰する。こんな生き方ができたら、と願わされます。
 三つめは、この世の何よりも、礼拝すること、神さまとの関係を大切にした、セツの家系の人々の生き方に倣う、ということです。自分の罪と弱さを自覚して、だからこそ、神の恵みに頼る歩みを貫きたいのです。
 より多くの物を持ちたい、もっと強くなりたい、もっと豊かになりたい、それも自分だけは。この世の精神は強力、強烈で、私たちを圧倒します。
 しかし、だからこそ、神さまの前に立ち、考える時間が本当に必要ではないでしょうか。こんな罪人の自分がいかに神さまに愛されているか、自分が人として生かされている目的は何なのか。神さまを知り、人として価値ある生き方を知る。礼拝によって、どれ程私たちの人生は整えられ、力づけられ、高められていることか。
 神を離れて生きるカインの流れに立たず、神の近くに生きることを幸いとするセツの流れに立つ者となりたい、そうあり続けたいと思います。今日の聖句です。

 詩篇73:27,28a「それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者を皆滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師