2011年5月22日
礼拝メッセージ


「互いに仕え合う」
  聖書
ペテロの手紙第一 4章7〜11節

4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。


  メッセージ
 私たちが信じていることの一つに、キリストの再臨があります。キリストの再臨。二千年前、十字架にかかり復活し天に昇られたイエス様が、この地上にもう一度来られるということです。
 未来のことで、絶対に起こる。100%起こると確信を持って断言出来ることは、あまり多くありません。自分の応援している野球チームが、絶対優勝するとか、私はこの大学に絶対に入ると宣言する人はいますが、それは願望であって確信ではありません。しかし、キリストがもう一度来られる。このことは、確信を持って断言出来る。世界を創られた私たちの神様が嘘をつくわけがない。イエス様はもう一度、来られるのです。
 ところで、私たちは、キリストの再臨があるということは知っているのですが、それがいつなのかということは教えられていません。キリストの再臨の前兆については、聖書の中、何箇所かに記されていますが、それがいつなのかということについては明言されていないのです。

 マタイ24:42
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 キリストの再臨があることは知っている。しかし、それがいつなのかは知らない。そこで、目を覚ましていなさいと言われています。目を覚ましていない。いつキリストが来ても良いように、備えていなさい。キリストが来られるまで、忠実にキリスト者の歩みをしなさい、ということです。
 仮に、今晩、キリストが来られると知ることになったとしたら。私たちの今日の生き方はどうなるでしょうか。今晩キリストが来られると思い生きるのと、いつ来られるか知らないで生きるのでは、生き方が変わるでしょうか。慌てて悔い改め、祈り、賛美をする。慌てて聖書を読む。慌てて伝道するとならないでしょうか。
 私たちの願うところは、仮に今晩キリストが来るとなっても、普段通りの生き方をする。それほど、毎日の生き方が、キリストの再臨に備えた生き方となっていることです。
 いつ、キリストの再臨が来ても良いように、毎日を忠実に生きるよう、イエス様が語られたたとえ話がありました。

 マタイ24:45〜51
主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 私たちは忠実なしもべか。それとも、悪いしもべか。どちらの生き方をするのか。
 ところで、キリストの再臨に備えて忠実に生きるとは、具体的にどのような生き方でしょうか。イエス様のたとえに出てきた「忠実な賢いしもべ」としての、具体的な生き方はどのようなものでしょうか。キリストの再臨に備える生き方。忠実な賢いしもべとしての生き方。このことに焦点を当てて、今日の聖書の箇所を読みたいと思います。

 Tペテロ4:7a
「万物の終わりが近づきました。・・・」

 キリストの一番弟子とも言える人物。ペテロが、キリストの再臨に備える生き方について教えている箇所。「万物の終わり」という言葉は、何か不吉な言葉のように感じます。「万物の終わり」という題名の本や映画があるとしたら、世界の破滅が描かれているのではないかと想像します。しかし、ここでペテロが言っている万物の終わりとは、キリストの再臨が近づいているという意味です。今は、キリストがいつ来られても不思議ではない時。そこで、いつイエス様が来られても良いように、忠実な者として生き方が勧められるのです。

 Tペテロ4:7〜9
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

 ペテロはここで四つのことを勧めています。前半三つは簡潔に、四つ目は詳細に勧められています。まずは前半三つを見ます。
 その第一は、祈りのために、心を整え身を慎むこと。心を整えるとは、何が重要で何が重要でないか判断するという言葉が使われています。身を慎むとは、酔っている状態に対して、しらふであるという言葉です。つまり、冷静に、何が重要で、何が重要でないか判断して、祈ること。キリストの再臨に備える。忠実なしもべとしての生き方の第一は、祈りの生活でした。皆さま、一週間の中で祈りの時間をどれだけとってきたでしょうか。
 第二は、互いに愛し合うこと。それも熱心に互いに愛し合うことです。ここで熱心と訳されている言葉は、非常に強い言葉で、運動選手が力いっぱい活動している状態を指す言葉、激烈と訳しても良い言葉です。忠実なしもべとしての生き方の第二は、互いに愛し合うことに全身全霊をもってのぞむことでした。私たちは、愛することに取り組んでいるでしょうか。互いに愛することを喜んでいるでしょうか。全力で愛することに取り組んでいるでしょうか。
 第三は、つぶやかず、互いに親切にもてなし合うこと。現状の不平不満を言って人生を過ごすのではなく、与えられたもの、与えられた環境を喜び、感謝すること。感謝するだけで終わるのではなく、互いにもてなし合うことが勧められます。一週間の中で、私たちの口から出た言葉は、不平不満と感謝、どちらが多かったか。親切にもてなすことに、どれだけ取り組んできたのか。問われるところです。
 このように三つの勧めは簡潔になされ、続けて四つ目の勧め。詳細な勧めとなります。

 Tペテロ4:10〜11
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 第四の勧めは、それぞれ神様から頂いた賜物を用いて互いに仕え合うこと。いつキリストの再臨が起こっても良いように備える生き方とは、賜物を用いて、互いに仕え合う生き方です。今日はこの四つ目の視点に焦点を当てたいと考えています。
 ここでペテロは、賜物を用いて、互いに仕え合うようにと教えています。賜物を用いて、と。それでは、「賜物」とは何でしょうか。皆さまは「賜物」とは何かと聞かれたら、どのように答えるでしょうか。
 賜物のもともとの意味は、神様からの贈り物という意味です。神様が下さった。このように考えると、私たちの持っているあらゆるものが賜物と言えます。才能や情熱、知識や経験や技術、生い立ちや人間関係、財産や地位。あるいは、私たちの体や命、時間も賜物。今着ている服も賜物。太陽や空気も賜物。ありとあらゆるものが、神様からの贈り物、賜物です。しかし、もう少し狭い意味で、賜物について考える場合もあります。
 狭い意味で賜物という場合、それは教会を建て上げるための情熱と能力を指します。教会に仕えるための情熱と能力。このことは、Tコリント12章というところで、詳しく説明しています。
 賜物には、色々な種類がある。奉仕にも色々な種類がある。ある人には知恵の言葉、ある人には信仰、ある人にはいやしの賜物、ある人には異言の賜物が与えられていると教えられ、まとめとして、このように言われています。

 Tコリント12:11
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 このような賜物。教会を建て上げるための情熱や能力を、それぞれが受けていると言われています。私たちは、何らかの教会に仕えるための情熱や能力を神様から受けているのです。皆さま、自分にどのような賜物が与えられているか、考えたことがありますでしょうか。このような賜物が与えられると実感がありますでしょうか。
 教会の中で、自分には特別なものは何もない。自分は優れた能力がないという声が聞こえることがあります。しかし、聖書が「それぞれに賜物があたえられている」と明言していますので、自分に何らかの賜物が与えられていることを確信したいと思います。

 この教会に仕えるための情熱や能力を、それぞれが受けていることを確認したペテロは、続いて、その賜物を管理するように。つまり、その賜物を無駄にすることなく、仕えるために用いるよう勧めています。教会を建て上げるために与えられる情熱や能力は、仕えるためにあるものでした。
 教会の仲間の姿を見て、その人に与えられている賜物を羨ましがる必要はありません。何しろ、その賜物は、私のために使ってもらうもの。そのように受け止めると、多くの人が集い、多くの賜物を頂いている四日市キリスト教会で、皆さまとともに奉仕をするということが、どれほど大きな恵みであることに気が付きます。
 このように、それぞれが与えられた賜物に応じて、互いに仕え合う時、何が起こるのかと言えば、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられる」のです。教会に集いし皆で、自分に与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う。その時に、神様の素晴らしさが現わされる。この世界を創った方。全知全能の方。その神様の素晴らしさ、その栄光が、私たちが互いに仕え合う時に現わされるというのです。
 実際、それぞれが与えられた賜物に応じて、互いに仕える時、神様があがめられたという場面が、聖書の中にいくつかあります。そのうちの一つ。初代教会にて、食事の問題が起こった時のこと。

 使徒6:1〜4
そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』

 まだキリストの直弟子がいた時代。初代教会にも、目を覆いたくなる課題がありました。ギリシャ語を使う人たちに対する偏見が、やもめという弱い立場の人たちに、食事の配給の点で現われたのでした。なんとも人間的。残念な場面。
 この問題を解決するにあたって、十二使徒は、自分たちは祈りと御言葉の奉仕者として立ち、代わりに食卓のことで仕える人たちを選出します。つまり、それぞれが与えられた賜物に応じて仕えるという方法をとったわけです。
 すると、何が起こったのかと言えば、

 使徒6:7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

 キリストの直弟子。十二弟子が教会のあれやこれやを全て行うのではなく、それぞれの賜物に応じて仕える時、神様の素晴らしさが現わされる。教会は成長していくということが教えられる箇所の一つです。
 それぞれが賜物をささげて教会を建て上げていく。その時に神様の素晴らしさが現わされていく。そのように生きていくことが、キリストの再臨の時まで私たちに求められていること。忠実なしもべとしての生き方と確認します。

 以上、キリストの再臨に備える。忠実なしもべとして生きていくという視点で、今日の箇所を見てきました。まとめて終わりにしたいと思います。
 私たちは、キリストの再臨がいつなのか、知りません。しかし、いつキリストの再臨がきても良いように、目を覚ましていること。忠実なしもべとして生きていくことが求められていることは分かっています。
 その忠実なしもべとしての生き方は、祈ること、愛すること、もてなすこと。そして、それぞれの賜物に応じて、互いに仕え合うことです。今日は特に、それぞれの賜物に応じて、互いに仕え合うことに焦点を当てて考えてきました。
 私たちには、必ず何らかの、教会を建て上げるための情熱や能力。互いに仕え合うための、情熱や能力が与えられています。
 そこでまず考えたいのは、自分の賜物が何なのか、真剣に考えることです。自分はどのような情熱があるのか。どのような分野で奉仕をささげることが好きなのか。やがて教会がどのようになれば良いと思うか。自分の賜物が何であるのか、考え続けたいと思います。よく分からない時は、何かの奉仕をしてみるのが良いと言われます。その奉仕を、情熱をもって行える、喜んで、楽しんで奉仕が出来るのであれば、その分野の賜物があると考えることが出来ます。
 また自分に与えられた賜物を用いて仕えるためには、何が出来るのかを考えることもしたいと思います。四日市キリスト教会には様々な奉仕の機会がありますし、自分の賜物にあった新たな奉仕の機会を設けることも出来ます。
 そして、皆で互いに仕え合う時に、神様の素晴らしさが現わされることを体験したいと思います。それぞれがキリストの体の各器官であり、それぞれが仕え合う時に、大きな力となることを味わいたい。その喜びを実感するクリスチャンでありたいと思います。

 今日の聖句
 ローマ人への手紙12章4節〜5節
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師