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2011年5月29日
礼拝メッセージ
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「キリストとサマリヤの女(5)」
−来て、見てください−
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聖書
ヨハネの福音書4章27〜30節 4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
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メッセージ
今より約二千年前。サマリヤのスカルという町の近く、ヤコブの井戸でのこと。一人の女性がキリストに会い、人生が変わる。女性自身が変わる場面。聖書の中でも有名な場面、キリストとサマリヤの女の記事を読み進めてきました。今日はその5回目、この関連の記事は今日で最後となります。
既に読んできたところですが、もう一度確認したいと思います。ここに登場する女性は、曰く付きの女性、町で評判の女性でした。
ヨハネ4:16〜18
「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。
』」
聖書にはこの女性の年齢も容姿も名前も記されていないので、何も確かなことは言えません。しかし、その上で、皆さんはこの女性をどのような人と想像するでしょうか。
私の勝手な想像を言うことが許されるならば、おそらく美人だったのではないかと思います。五人の男と結婚し、しかも今は結婚していない男と一緒に暮らしている。私たちの文化でも評判の良くない話ですが、当時の文化からすると、尚更評判の悪いこと。それでも、この女性の相手となる男性がいたということは、容姿端麗、器量良しだったと想像するのです。しかし、それを鼻にかけていたかというとそうではない。何しろ、人がいない時間に遠い井戸に水を汲みにきていた。自分のしたことをうしろめたく思い、人目を避けていた人。人に会うことに疲れた。人生が思い通りにいかないことに疲れた。生きることに疲れた。疲れきった影のある美人といったところでしょうか。
ある先生は、この女性は演歌に登場する女性のようだと言っています。演歌の歌詞に出てくる女性と言えば、長い髪の色白美人。酒場や波止場で泣いているイメージだが、このサマリヤの女性にぴったりくるとのこと。皆様は、この女性をどのような人と想像するでしょうか。
この女性がどのような人だったのか。想像の粋を出ないことも多いですが、これまで確認してきたことで、分かっていることもいくつかあります。キリストとこの女性のやりとりをもう一度確認しておきたいと思います。
最初に声をかけたのはイエス様でした。「水を下さい」とです。井戸をそばにして、水を題材に会話が始まります。「空の鳥を見よ」、「野の花を見よ」と、目の前にあるものを題材に、大切なことを語られるというのはイエス様がよくしていたこと。ここは井戸の側。水が題材です。
最初、水を下さいと言ったキリスト。事実、旅の疲れで喉が渇いていました。しかし、すぐさま「あなたこそ、水を必要としています。」という会話となるのです。
ヨハネ4:10
「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
ここでキリストは「生ける水」と言いましたが、これは井戸の水のことではなく、霊的な意味で言われた言葉。霊的な渇きを癒す水のことです。この女性は、霊的な意味で生きるために、どうしても必要なものがあるということです。身体にとって水が必要であるように魂にも必要なものがある。キリストは、それをあげようと言っているわけです。
それでは、キリストがここで言われている「生ける水」とは何だったでしょうか。「生ける水」という言葉は、もともと聖書のあちらこちらに使われた表現で、神様ご自身のこと。あるいは、神様との関係の回復です。このことを、聖書は「生ける水」と表現することもあれば、永遠のいのち、新しく生まれると表現することもありました。
つまり、この女性が抱えていた問題の本質は、神様でしか満たすことの出来ない渇きを、結婚で、男性で満たそうとしていたこと。神以外のものを神とする。神以外のものを第一とする生き方です。その結果、人生が迷走した。第一にしようとした結婚生活も破綻し、町の人との関係も壊れた。悲惨でした。
しかし、この悲惨さは、この女性だけの問題かというと、そうではありません。神以外のものを第一にして、人生が壊れていくというのは、全ての人が抱えている課題。この女性は霊の渇きを、結婚で、男性で満たそうとしましたが、ある人はお金に、ある人は名誉に、ある人は地位に。あるいは、快楽に、ギャンブルに、お酒に求める人もいます。私たちの中にも、同じ問題があることを見出します。
このような課題。神以外のものを第一にし、人生が破綻していく。真の満足を得られない歩みをする。そのような者に対して、キリストは「生ける水」を与えると言います。罪人が神様との関係が回復すること。神様とともに歩むことが出来るいのち。神を愛することが出来るいのち。そのことによって、他のあらゆることでは味わえない、真の喜びある人生を与えて下さるというのです。私たちはキリストから、生ける水を頂いているでしょうか。
ところで、キリストと女性の会話は、「生ける水」の話から、礼拝の話へと移っていきました。なぜ礼拝の話となったのか。それは、私たちが神様とともに生きることを確認し、その喜びを味わうことは、特に礼拝においてだからです。渇くことのない生ける水。神様とともに歩む喜びは、いつでも味わえるのですが、特に礼拝はその喜びを味わうところ。この意味で言えば、私たちが生ける水を頂くというのは、私たちが真の礼拝者として整えられていくということも意味していました。
ヨハネ4:23〜24
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
キリストと女性との会話は、女性の問題に触れながら、生ける水を中心に、礼拝へと話しが展開していきます。自分のことが知られている。その状態も、何が必要なのかも。更に礼拝への権威ある教えを聞いた。
この会話を経て、女性は「もしや」と考える。この方が、聖書が教えているやがて来る救い主なのではないかと。
ヨハネ4:25〜26
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
サマリヤの女性が「もしや」と思った。この場面で、この言葉が出てくるのを、イエス様はどれ程喜んだか。すぐさま「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と応える。「わたしがそれです。」わたしが、キリスト、メシヤ、救い主ですとの宣言。イエス様は、この言葉をどれ程伝えたかったか。
この宣言を受けて、女性は町に戻り、人々を集めたと言います。
ヨハネ4:28〜30
「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」
もともと、人目を避けて生きてきた女性。その女性が町に行き、人々に言うのです。「来て、見て下さい。この方がキリスト、救い主なのでしょうか。」と。この言葉だけに焦点をあてると、自分では判断がつかないので、他の人にも確認してもらいたいという言葉にも聞こえます。しかし、少し後のところに、この女性の証言で町の人がキリストを信じたとありますので、この女性自身はすでにイエス様が約束の救い主であると信じていたのです。やがて来ると信じていた救い主に出会った。それも、自分を裁くのではなく、生ける水を与える方として、目の前に救い主がいる。この救い主を町の人にも知って貰いたい。救い主に出会った喜びが、彼女を動かします。
この時、女性は何と言い残して、町に戻ったのか。「キリスト様、あなたを町の人に紹介したいのです。どうぞここでしばらく待って下さい。」でしょうか。それとも何も言わずに駆け出したのか。水を汲みにきたはずの女性が、そこに水がめを置いて町に行った姿が印象的です。
彼女のキリストを紹介する時の言葉も印象的です。「私のしたこと全部を私に言った人」です。五人の人と結婚し、離婚したこと。今は未婚のまま同棲していること。後ろめたく思いながらも、どうしようも出来ない状態。このような状態になったのは、おそらく、全て彼女が悪いというわけではないでしょう。言い訳出来ることもあったでしょう。しかし、今や彼女は「私のしたこと」と自分の問題として受け止めることが出来ています。なぜなら、そのような問題を抱えている自分でも、「生ける水」を与えようという救い主に会ったからです。イエス様のことを「私のしたこと全部を私に言った人」と表現した彼女は、私のひどい部分を全て知っていても、それでも私を救う方として、キリストに出会ったことが伺えるのです。
ところで、考えてみますと、この女性からすると町の人は自分を白い目で見ていた人たち。そのため、人目を避けていたわけです。自分が救い主に出会ったからといって、町の人に紹介する必要があったのか。この出会いを一人占めにすることも出来ました。しかし、この女性は町の人に伝えにいくのです。何故、この女性は町の人たちに伝えたいと思ったのか。
その答えは、「生ける水」について説明していたイエス様の言葉にあると思います。
ヨハネ4:14
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
キリストを信じる者に与えられる「生ける水」。その喜びは、その人だけのもので終わるのではなく、泉となり、湧き出てくる。それまで人目を避けていた女性が、人々を導く者となる。この女性に与えられた生ける水が、泉となり湧き出ている姿と見えます。
私たちにはこの女性が味わっているような喜び、熱意はありますでしょうか。私が知ったキリストを伝えたい。私が味わっている「生ける水」を、まだ味わっていない方に味わってもらいたい。それが自分を白い目で見ていたような相手であっても、この救い主のことは伝えたいという情熱があるでしょうか。
喜び溢れる、情熱溢れるこの女性の姿は、町の人たちにとって、印象深かったと思います。問題を抱えていたために、人目を避けていた女性が、「私のしたこと」と自分の問題に触れながら、人を誘っている。この姿を見るだけで、何かがあったと分かったでしょう。他でもない、この女性ならではの迫力、この女性の変化に、人々を導く力があったのだと思います。引け目を感じ、人目を避けてきた。その女性の弱さ、失敗、負い目が、ここではむしろ役に立った。
自分の弱さや失敗が用いられることがあります。聖書の中にもいくつかそのような例がありました。パウロはキリストを信じる前、教会を迫害していました。パウロ自身はそのことを悔いて、このように言っています。
Tコリント15:9
「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」
しかし、教会の人々は、かつて迫害していたパウロが、キリストを信じ宣べ伝えていることを知り、神をほめたたえていました。
ガラテヤ1:23〜24
「けれども、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。』と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていました。」
かつて敵であったからこそ、その人の変化が際立つことがある。暗い生活の中を歩んでいた人だからこそ、その人の証によって、神をほめたたえるよう導かれることがあります。
こうして、まず女性の言葉によって、町の人々はイエスを信じます。しかし、町の人の願いにより、キリストはそこに留まり、町の人たちは自分自身でキリストの言葉を聞き、キリストを信じたと記されるのです。
ヨハネ4:39〜42
「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った。』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」
興味深いことに、町の人々がキリストを信じたのに二段階あったことが記されています。同じ信じるでも、この女性の言葉によってイエスを信じた。その後でイエス自身に会い、イエス様の言葉で信じたというのです。人を通してキリストを知ることの素晴らしさはありますが、本当の意味でキリストを信じるとは自分自身でキリストを知ることが必要。教会には、様々な理由で来られる方がいます。しかし、来て終わるのではなく、それぞれがキリストに出会うことの重要性が確認させられます。
一人の女性を通して、多くの人に救いが広がる。同じことが、私たちにも起こることを願います。私たち一人一人を通して、多くの人に救いが広がりますように。
以上、キリストとサマリヤの記事を読み進めてきました。
この記事全体を通して、私たちの神様は私たちに生ける水を与えようとされる方であることが、よくよく分かります。神から離れ、その霊が渇ききった人間。自ら神に背き、渇きを覚える自業自得な私たち。しかし、そのような私たちを憐れみ、神様に立ち返る道を、神様が用意して下さった。生ける水を飲むように、キリストを信じるようにと、招いておられる。この神様を覚えて拝したいと思います。
今日の聖句を皆様とともにお読みして終わりにしたいと思います。
ヨハネの手紙第一4章15節
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」
イエスを神の御子と告白する。それこそ、「生ける水」をもらうことでした。その者は、神とともに歩むことが約束されている御言葉。イエスを神の御子と再確認し、神様とともに歩む幸いを味わうこと。そして、この幸いを味わうように、私たちのまわりにいる方々をキリストのもとへ招くことを、皆様とともにしていきたいと思います。
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四日市キリスト教会 大竹 護牧師 |
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