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2011年5月8日
礼拝メッセージ
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「キリストとサマリヤの女(4)」
−わたしがそれです−
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聖書
ヨハネの福音書4章25〜30節
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
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メッセージ
「この一週間、特に何を考えて生きてきましたか。」と聞かれた場合、皆様は何と答えるでしょうか。自分の一週間を振り返り、特に意識が向いたのは、何だったでしょうか。家族のこと、友人のこと、恋人のこと。仕事のこと、勉強のこと、趣味のこと。あるいは、失敗したこと、後悔したこと、病気のことなど、どこに意識が向いていたでしょうか。
私たちは考えなければならないこと、取り組まなければいけないこと、悩まなければいけないことが、実に多くあります。しかし、それでは、神様のことを考える時間はどれくらいとってきたでしょうか。「あなたの心はどこに向いていますか。」と質問された時、私の心は神様に向いていたと答えられる人はどれくらいいるでしょうか。
私たち人間にとり、最も重要な知識といえば、神様のこと。廃れることなく、永遠に価値がある知識。それこそ、天国でも通用する知識といえば、神様についての知識。私たちはもっと多くの時間を割いて、この世界を作った神はどのようなお方か。その方の前で私はどのような存在なのか、考える必要があります。
私たちの創造主がどのような方か知るために、私たちが出来ること。その一つは、聖書を読むことでした。それも特に、キリストがどのようなお方か、キリストが罪人にどのように接していたのか、確認することが重要でした。聖書にこうありました。
ヨハネ14:8〜9
「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。』」
キリストを見る者は、父を見る。神を知りたければ、キリストを見る。このようなことを前口上として、これまでキリストとサマリヤの女性の記事を読み進めてきました。今日はその4回目となります。
ここに登場するサマリヤの女は、町で評判の悪女。日陰の女でした。この女性が、キリストに出会い、人生が変わる。女性自身が変わるという場面。聖書には、キリストに出会い変わる人は多く記されていますが、この女性の記事は分量が多く、その分詳細。女性の心情の変化が見て取れ、多くの人に愛されている箇所です。
しかし、分かりやすい箇所かというとそうではない。難解なのです。何しろ、会話自体が、ちぐはぐのように見える。イエス様の発言は、どうも唐突に聞こえますし、女性の方が理解していないまま受け答えが続いているように感じるのです。「水を下さい」と言っていたイエス様が、「水をあげよう」と言う。「どこからその水をくれるのですか」と女性が質問すると、「夫をつれてきなさい。」と答える。すると女性は「礼拝はどこでしたら良いのか。」と話が広がる。
おそらく、イエス様と女性の実際の会話は、ここに記されているより長く、詳細だったのでしょう。しかし、福音書をまとめたヨハネが、中心的なこと、必要なことをまとめて記したのです。そこで、私たちは一つ一つの言葉、会話のやりとりにどのような意味があるのか、少しずつ確認してきました。
前回から、少し間があきましたので、本当ならば会話の流れを全て再確認したいのですが、今日は特にポイントとなるところを再確認いたします。
この女性は名うての悪女。日陰の女でしたが、何をしたのかというと、五人の男と結婚し、今は未婚のまま六人目の男と暮らしていました。今の日本でも同じことをしたら、評判悪いことですが、当時の社会では尚更のこと。そのため、この女性は人に会いたくなく、皆がいない時間に、わざわざ町の外の井戸まで水を汲みに来ていました。
そこにキリストがいたのです。井戸の側。水を題材に会話が始まるのですが、イエス様はこのように言っていました。
ヨハネ4:10
「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
ここでイエス様は二つのことを女性に願っています。「神の賜物」がどのようなものか知ること。そして、目の前にいる者、つまりイエス様自身が誰なのかを知ることです。この二つのテーマに従って、これからの話が展開していると読むことが出来ます。この有名な会話の中心は、「神の賜物」が何であるのか。そして、井戸の側に座っていた旅人が誰であるのか。
まず「神の賜物」である「生ける水」についてです。この「生ける水」が何なのかを知るためには、そもそも人間とは何なのかを知る必要がありました。
もともと人間は、神様とともに生きることで最高の喜びを味わうことが出来るように創られていました。もし神とともに生きることを止めたら、欠乏感を味わうのです。何かが足りない。何かがおかしいと感じる。言葉を変えると霊的な渇きを覚えるのです。罪の悲惨さの一つの側面は、霊的渇きを味わうことでした。
今日の女性に当てはめて考えてみると、この女性は霊的な渇きを、男性で埋めようとしていた人です。神とともに生きることでしか癒せない渇きを、他のもので代用する。これはこの女性に限ったことでなく、現れ方は違うとしても、全ての人間が同じことをしていると言って良いでしょう。ある人は、結婚や家庭に。ある人は仕事に、ある人は名誉や地位に。ある人は快楽やギャンブルに。神様でしか癒せない渇きを、他のものに求めた場合、一時的な潤いを感じたとしても、また渇くのです。私たち人間にとって、決して渇くことがなく、最高の喜びを味わうのは、神様とともに生きることでした。
イエス様が女性にしたのは、このような説明ではありませんでした。「夫を呼んできなさい。」と言ったのです。
ヨハネ4:16
「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」
この女性が、何を求めるべきか、自分で気づくようにと、この女性が抱えていた問題の本質に切り込んだのです。この女性が「神の賜物」を知るためには、自分自身の霊が、本当に渇ききっていることに気づく必要がありました。
この点も私たちに適応されるところです。自分が渇ききっていることに気づかない人。神とともに生きることなくても、私は満足ですという人は、「神の賜物」を求めることをしないでしょう。自分の罪に目を留めること。自分の渇きに気づくこと。神とともに生きることよりも、他のことを優先する課題に、目を留めることは非常に重要でした。
更に、この女性との会話は礼拝へと続きました。何故、この話が礼拝へとつながったのでしょうか。それは、「神の賜物」である「生ける水」を最も味わうのが礼拝だからです。神とともに生きることを、もっとも味わうのは、礼拝だからです。
このように、キリストが下さる「神の賜物」「生ける水」とは、神とともに歩むことが出来る命。特に礼拝において、神様と交わるという喜びを頂くものでした。
私たちの生活に必要なものは多くあります。お金も、仕事も、地位も名誉も、どれも必要。しかし、それらが十分にあったとしても、それでも癒せない渇きがある。私たち人間は、神以外のもので真に満足するような、安っぽい存在としては創られていないのです。神様という最高の存在でしか満足出来ないように創られていました。そのことに気づき、神様とともに生きることの大切さを教えられます。
この「神の賜物」「生ける水」について、サマリヤの女性は最初、このように言っていました。
ヨハネ4:15
「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」
「もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私にください。」と。この女性は生ける水、渇くことのない水と聞いても、あくまでも体の渇きを癒す水。井戸の水の延長を考えていました。(そうだとすると、一度飲んだら、一生水を飲まなくて済むようになる、魔法の水のようなものを考えていたのでしょうか。あるいは、イエス様を馬鹿にしながらの発言だったのでしょうか。)しかし、会話が進むにつれて、理解が進みます。礼拝の話は、女性から出ています。また、礼拝についての非常に重要な教えを聞くことになった人物となりました。
こうして、当初、イエス様がこの女性に願っていたことの一つ。「神の賜物」がどのようなものか知ることについて、女性は目が開かれていったわけです。
それでは、イエス様がこの女性に願っていたもう一つのこと。目の前にいる者、つまりイエス様自身が誰なのかを知ることについては、どうなったのでしょうか。
当初、この女性の目に映ったのは、疲れた旅のユダヤ人。そもそも人目を避け、井戸に来ていた女性。自分のことを知らない人。それも疲れた旅人だったので、井戸まで来ることが出来たのでしょう。最初、「水をください」と声をかけられた時も、すぐに「はい」とは言わず、「なぜユダヤ人のあなたがサマリヤ人の私に水を求めるのですか。」と、願いに対して質問を返していました。ところが、会話が進むと、イエスのことを「先生」と呼び、自分の抱えている問題点を指摘されたときには、「預言者だと思う」と言います。
ヨハネ4:19
「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。』」
ただの旅人だと思っていたのが、どうやら人を教える立場のようだと考え、いや普通の教師ではなく、神について語る預言者ではないかと思うようになった。実際には預言者の主なのですが、イエスについて徐々に理解が深まっているのが分かります。
その上、質問した礼拝についての答えが、権威ある者としての答え。未完成だった礼拝が、いよいよ完成する。その時が来ていると聞いて、この女性の思いは更に深まりました。
ヨハネ4:25〜26
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
この女性の口から、「キリストと呼ばれるメシヤが来ることを知っています。」との言葉。これまでのやりとりの結果、サマリヤの女が「もしや」と思った。この場面で、この言葉が出てくるのを、イエス様はどれ程喜んだか。返す刀で「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と応える。「わたしがそれです。」わたしが、キリスト、メシヤ、救い主ですとの宣言。イエス様は、この言葉をどれ程伝えたかったか。
笑顔で柔和、爽やか宣言だったでしょうか。それとも強い眼力、力強い宣言だったのか。想像したくなります。女性の方はどうだったのか。驚き震えたか。やはりそうかと膝を打ったか。この場面に同席したかったと思います。
ところでこの女性。なぜやがて救い主が来るということを知っていたのでしょうか。この女性はサマリヤ人。サマリヤ人は、旧約聖書のうち、最初の五つの書を聖典として信じていた。つまり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つを聖書と信じていました。(ただし、自分たちの都合の良いように改ざんしており、そのこともユダヤ人とサマリヤ人の関係を悪くする一要因でした。)そこで、この五つの書に出てくる、やがて救い主が来るという約束を信じていたわけです。
しかし、この五つの書から考えるやがて来る救い主の姿は、旧約聖書全体の姿の一部。そのためサマリヤ人は、やがて来る救い主は、自分たちに必要なことを教えてくれる人。教師としてのイメージを持っていました。救い主とは、自分たちに必要なことを教えてくれる人。救い主について、不十分な理解でした。
また当時のユダヤ人。旧約聖書全体に精通していた民も、やがて救い主が来ることを信じていました。しかし、当時のユダヤ人の救い主のイメージは、武力をもって支配国ローマを駆逐する王、政治的、軍事的な王としてのイメージです。
このようなわけで、イエス様はご自身が救い主であることを伝えるのは勿論のこと、どのような救い主か伝える必要がありました。政治的、軍事的な王ではない。教えるというだけの救い主ではない。罪からの救いをもたらす、救い主であることを伝える必要がある。この女性について言えば、ただ教えるだけの救い主ではない。実際に救いを与える者であることを伝える必要があったわけです。では、キリストはどのようにこのことを伝えたのでしょうか。実は、そのことは既に会話の中で話されていたのです。
ヨハネ4:10
「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
あなたが求めるなら、生ける水を与える。霊が渇いていることを認め、渇きを潤したいと願うなら。罪赦され、神とともに歩むことを願うなら、それを与える者として、既にご自身をお示しになっていました。
分からないことを教えるだけの救い主ではない。政治的、軍事的な救い主でもない。霊的な渇きを癒す救い主。神に立ち返る道を与えてくれる救い主。罪の赦しを与える救い主。イエス・キリストが救い主であるというのは、このような意味での救い主です。「わたしがそれです。」と言われたイエス様の言葉は、このような意味での救い主であるとの宣言でした。
私たちの心の渇きを癒すことが出来るのは、この救い主のみであると今日覚えたいと思います。今日の聖句を皆さまとともにお読みいたします。
使徒の働き4章12節
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
さて、目の前にいる方が、約束の救い主であること、しかも、救いについて教えてくれるだけではなく、救いそのものを与えてくれる救い主であると知ったこの女性は、慌てて町へ帰り、見に来てほしいと言うのです。
ヨハネ4:27〜30
「このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、『何を求めておられるのですか。』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか。』とも言わなかった。女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」
この女性が水がめをそこに残し、大急ぎで町へ行った様を嬉しく思います。人目を避けて生きてきた一人の女性。しかし、救い主に出会ってからは、人々を導く者となるのですが、具体的なことは次回以降見ていきたいと思います。
以上、キリストとサマリヤの女の記事を読み進めてきました。今日の箇所から、私たちの神様がどのようなお方だと確認出来るでしょうか。
キリストは、そして神様は私たちに救いをもたらそうとする方。救いを与える方。しかし、無理矢理にというのではありませんでした。私たちが、神様が下さる賜物、その救いを理解すること。そして、誰がその救いをくれるのか知ること。そして、その方に求める時に、救いを与えるという方でした。言葉を代えますと、私たちが自分の霊的な渇きを自覚し、その渇きを癒すことが出来るのはイエス様だけであることを覚え、イエス様に求めていく。その時に、救いを頂くのです。
皆さま、これからの一週間、自分の霊が、どれだけ渇いているのか、確認しましょう。その渇きを、自分は何で癒そうとしているのか。自分はどのように取り組んでいるのか、確認しましょう。そして今一度、この渇きを癒すことが出来るのは、神様のみ、キリストのみと覚え、キリストに求める者でありたいと思います。
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四日市キリスト教会 大竹 護牧師 |
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