2011年6月12日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(16)」
−神の心にかなっていた人−
  聖書
創世記6章1〜8節

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。


  メッセージ
 世界の初めの歴史を記す聖書の創世記。その創世記も先回までで、最初の五章を読み終えました。
 「光よ、あれ」ということばとともに始まった、神による天地創造という壮大なわざ。その創造の中心にあり、神によって特別に愛された人間の栄光。創世記は、私たち人間がいかに幸いな者として、神に造られた存在かを十分思わせてくれたのです。
 しかし、一方、そんなにも愛された人間が、あっという間に神に背き、堕落してしまう。最初の夫婦アダムとエバがエデンの園から追放される失楽園、楽園を失う、という残念な事件も起こりました。
 それでも、神のあわれみにより、子孫を産み、地に広がることを許された人間は、カインの家系とセツの家系のふたつに分かれたのです。方や、物質的繁栄を謳歌し、自らの力を誇るカインの子孫、方や、礼拝と祈りを重んじる、セツの子孫。
 カインの子孫たちは、牧畜業に工業に音楽、文化文明に恵まれはしましたが、神を畏れることを知らない不敬虔で不道徳な人々。一方、セツの子孫たちの生き方は自然で、素朴ながら、神信仰を受け継いで、驚くべき長寿を恵まれました。
 最初交わること無かったふたつの家系、ふたつの流れが、この第六章の時代になって、盛んに交わるようになったらしいのです。
 諺に「朱に交われば赤くなる」と言います。朱すなわち赤と白とを混ぜれば赤くなってしまう、ということです。そのように、不信仰なカイン系の人々と、敬虔なセツ系の人々が交わった時、セツの子孫はカインの子孫に影響され、不信仰、不道徳のカイン色に染まりました。
 そして、地上はついに、神抜きでも、十分楽しくやってゆけると考える人々の勢いに圧倒されたのです。きっかけは結婚でした。

 6:1、2「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」

 ここに登場する「神の子ら」とはセツの子孫を、他方「人の娘たち」はカインの子孫をさす、と考えられます。
 恐らく、カインの家系の女性たちは化粧や貴金属で身を飾り、着物は華やかで、時に扇情的、ことば巧みに男性をひきつける術を身につけていたのでしょう。彼女たちが暮らす町の物質的豊かさ、発達した産業や文明も、いつしかセツの子孫たちの憧れの的。「自分たちもあのような生活がしたい。」そんな思いを募らせていたのかもしれません。
 とにかく、「神の子ら」と呼ばれるほど、神信仰を第一に歩んできた人々が、今や神抜きで生きる女性たちの表面的な美しさに迷わされるようになった。内面の美しさよりも、見た目の美しさで判断するようになった。大変化です。
 また、「その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とある通り、神のみ心は何かと考えのをやめ、自分が好きかどうか、自らの好みを優先させる者に変わった、変えられた、ということでしょう。
 しかも、「その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」ということばには、多妻、重婚などが意味されている、とも言われます。つまり、自分が気に入った者ひとりを選んで妻としたというより、自分が気に入った娘たちをことごとく、思いのまま、何人でも妻にした、娶ったということです。
 女性の価値が、その人格によってでなく、肉体的、性的魅力いかんによってはかられる時代、性的放縦の時代、肉欲、情欲に捕われた人々の時代、ということでしょう。これが今日の風潮にも通じていることに、皆様ももうお気づきか、と思います。
 第六章は「さて、人が地上にふえ始め」ということばで、始まっていました。普通、人が増えると言うことは喜ばしいことでしょう。人口の増加も長寿も、本来は神の祝福だったはずです。
 しかし、その祝福を腐敗に変え、罪を高く積み上げる人間たち。生きれば生きるほどに、人として本来あるべきところから堕ちてゆく人間の悲惨、ふえればふえるほどに、地上を罪で汚してゆく人間のひどい有様を、神はご覧になられました。
 それならば、人の罪がこれ以上深くならぬように、地上が悪で染まってしまわぬようにと心配された神は、ここに人間の寿命を縮めるという窮余の一策を講じられたのです。

 6:3「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。』と仰せられた。」

 最初は、神とともに永遠に生きるべく創造された人間が、罪のために死ぬべき者となった。しかし、最初のうちは、今よりもはるかに良好な環境に置かれ、何と九百歳台という大長寿を恵まれたというのが、私たちが先に見た創世記第四章でした。
 しかし、あの大長寿も、ここで一気に百二十年に引き下げられることとなったのです。その原因はまたも人間にありました。
 人の命の源である神の霊が永久にとどまらないのは、「人が肉に過ぎないからだ。」という悲しむべきことばが、神の口から発せられたのです。
 「肉に過ぎない。」寂しいことばです。本来、神から与えられた肉体と霊とが一つとなって、私たち人間は創造されました。神と交わる霊的な命とその手足となって働く肉体の命。ふたつが調和して人間は幸いな者であったはずでした。
 それが、この時代、人々の霊の命は重病も重病、瀕死の状態。霊の命は生きているのか生きていないのか、分らないほどかすかなものとなり、人間は肉欲の塊と成り果てた、というのです。
 そのような命をいつまでも、九百年も守っておくことは、本人のためにも、人間社会のためにも、百害あって一利なし。ならば、人の寿命は一気にこれを百二十年としよう。私たち人間を祝福したくてたまらない神、永遠に生きるべく創造された神さまにとって、これは悲しく、辛い決断だったでしょう。
 そして、罪犯さずに生きられない人間、長く生きれば生きるほどに、罪を山のように高くしてゆく人間、老いと病とに悩まされる人間の現実を思う時、寿命の短縮、寿命が短くされたことは、むしろ、神の恵みというべきでした。
 さて、敬虔なセツの子孫も巻きこんだ肉欲が、この時代のひとつの有様だとすれば、もうひとつの特徴は、自らの力を誇ることでした。その筆頭にいたのが、ネフィリムと呼ばれた巨人族です。

 6:4「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」

 「ネフィリム」は巨大な体の持ち主、巨人族のことです。「勇士」ということばは、「力の人、有力者」という意味で、体力、財力、政治力、どれにおいても有力な人のことでした。
 他を圧倒するような体力、膂力、武力で戦いを制したため、ネフィリム族は富、財力、政治力を思うがまま手にすることができたのでしょうか。彼ら名は人々に崇められたのです。
 体力、財力、政治力。いずれにしても人間のもつ力が崇められ、もてはやされた時代。力のある者が勝つ、勝った者が正しい。力が正義というのが常識だった時代です。
 逆に言えば、弱き者は見下され、敗者は踏みにじられ、力ある悪人が栄え、善人は生き難い時代だったでしょう。神信仰の大切さ、神とともに歩む人生の豊かさ、美しさなど、時代遅れもいいところ、人々に顧みられることも無い。そんな有様でした。
 それならば、神はこんな悲惨で、ひどい人間社会を切って、捨てられたのか、というと、そうではなかったのです。「こんな人間のこと等、もう面倒見切れない」と考え、そっぽを向かれたのか言うと、さにあらず。
 神は、人間の悲惨を、我がことのように思い、背負い、苦しみ、悩まれたのです。

 6:5〜7「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』」

 地上に悪、すなわち暴力、暴虐を増大させる人間。心に思いはかることが、いつも自分中心で、悪に傾く人間。暴虐横行、暴力礼賛、冷淡無情、肉欲に物欲で満ちた世。「こんな人の世など、愛想も尽きた。いっそ一気に滅ぼしてしまおうか。」このひどい有様の責任は、一切人間にあるのですから、神がそう思い、そうされても当然のことだったでしょう。
 しかし、もったいないことに、何ともありがたいことに、神さまはあくまでも愛の神、ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神さまだったのです。
 「主は人を造ったことを悔やみ」の「悔やむ」とは、悲しみのあまり深いため息をつくこと、「心を痛めた」は、愛する者のために自分自身を苦しめるという、産みの苦しみのような苦しみをさしています。私たちの信じる神は、どんなに私たちがひどい状態に陥ってもともに苦しみ、心砕いてくださる神さまなのです。
 この神の心を仰ぐ時、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」という、やがて起こる大洪水の預言も、裁判官が下す冷たい法律の条文等ではなく、どんなにか胸の潰れるような思いで、また涙の内にくだされた決心であったかが分かろうというものです。
 「わたしが創造した人を」、「わたしが創造した人だからこそ」とも読めます。「わたしが創造し、わたしが愛する人間だからこそ、人任せにせず、どんなに苦しくても、わたしがこれを決心したのだ…」と。
 私は大洪水の出来事を、初めて聖書で読んだ時、「神とは何て冷酷、無慈悲なお方なのか」と、批判しました。しかし、聖書を何度も読む内に、この人格的な神を知りました。順調な時には神のことなど露ほども思わないくせに、逆境になるやいなや、いとも簡単に神を批判する人間の身勝手さを思い知らされました。
 そして、神の愛を知れば知るほど、いかにこの決断が神さまにとって、残念極まりない、無念で、苦渋の決断だったかを思い、むしろ、こんな神さまを知っていることの幸いを、覚え、感謝するようになったのです。
 さて、このような神にさばかれ、滅ぼされてしかるべき時代、ひとりの例外となる信仰の人がいてくれた、と聖書は語っています。それが有名な信仰の巨人ノアでした。

 6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」

 世の人皆が、人間の体力、財力、権力を崇め、愛してやまない中、ひとり神を愛し、神を礼拝する歩みを大切にしていた人ノア。世の人皆が肉欲、物欲の虜となり、流されてゆく中、ひとり流れに掉さして、神信仰に立ち続けた人ノア。
 そして、そんなノアに目を留め、ノアを用いて、このどうしようもなく、救いがたい人類のため、なおも救いの手をさし伸ばそうとされる、熱心の神の愛がここに表れています。
 日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。職場でただひとりのクリスチャン。学校でたった一人きりのクリスチャン。地域でひとりのクリスチャン。皆様の中にも、そんな方が多いことでしょう。
 しかし、そうであればこそ、大洪水の前の時代の風潮にも似た今、私たちは、職場で、学校で、地域で、あのノアのように生きられたら、歩ませていただけたら、と切に願うのです。たとえ、時代遅れと言われても、変人とからかわれても、神の心にかなった歩みをなすことを、最大の喜びとする者となりたく思うのです。
 「ノアは、主の心にかなっていた。」は、口語訳では「ノアは主の前に恵みを得た。」となっています。主なる神の心にかなう人とは、何よりも、神の恵みを信じ、受け取る人、そのことに熱心な人。そう覚えて、神の恵みを信じ、受け取ることにつとめてゆきたいのです。

 エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師