2011年7月17日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(19)」
−箱舟から出なさい−
  聖書
創世記7章17〜8章19節

7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。
7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。
7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。
7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。
7:23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。
7:24 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。
8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
8:2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。
8:3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、
8:4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
8:5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現われた。
8:6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、
8:7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。
8:8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。
8:9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のところに入れた。
8:10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
8:12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
8:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
8:14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
8:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
8:17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
8:18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
8:19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。


  メッセージ
 今日は「世界の初めの歴史」の第十九回目。先回私たちが見たのは、創世記第七章の前半です。人々がこぞって神信仰を捨てた、霊的暗黒の時代、「地上は、神の前に堕落し、暴虐で満ちていた。」という本当に酷い状況の世の中で、ただひとり主の心にかなう生き方を大切にしたノアの歩みに、スポットライトを当ててきました。
 聞く所によると、トヨタの車にノアという名前の箱型、ワンボックスタイプの車があるそうですが、聖書創世記の主人公ノアさんが造って、乗り込んだのは車ならぬ船。長方形の、箱型のもので、長さ150m、幅25m、高さ15m。現代なら中型のタンカー並という、途方もない大きさの船でした。
 神に命じられるまま、百年の長きに渡って、材木の切り出し、搬送、製材、組み立てと懸命に働き、従い続けたノアと家族八人。しかし、箱舟は完成したけれど、空は晴れ、雨は一滴も降らず。神の言われた地上への審判、大洪水の気配は全くなしでした。
 一方、隣人たちは相変わらず、「飲めや歌え」で、面白おかしく暮らしている。神の審判と聞いても、どこ吹く風。ノアさん一家が、「さあ、救いの箱舟にお入りください」と招いても、これを嘲り、笑い物にするばかりだったのです。
 結局、箱舟に乗り込んだのは、ノアさんの一家八人。そして、いよいよ忍耐に忍耐を重ねてこられた神の審判が地上にくだります。想像を絶する大洪水でした。

 7:17〜24「それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。
 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。
 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」

 凄まじく降りつける雨。地下水の噴出、大規模な地殻変動による津波。水は空からも、地下からも、海からも地上を襲い、恐るべき勢いで、その嵩を加えていきました。その勢いに押され、ついに巨大な箱舟が浮かびあがります。
 それを見て、ノアさんに何度招かれても、相手にしなかった人々の顔が青ざめ、「ああ、ノアの言っていたことは本当だったのか」と気がついても、時すでに遅しでした。見る見るうちに膨れ上がった水は、山々に及び、ついにそれを覆いつくしてしまったのです。
 つい昨日まで、人や動物が思いのまま生きていた地上は、全面水に覆われ、没する。見渡す限り広がる水面を、ただ一艘の箱舟が漂う、と言う風景に激変したのです。
 水が増え続けた期間は何と百五十日と、聖書は記していますから、とてもとても今日の大型の台風、巨大津波の比ではないことを思わされます。改めて、これが超自然的な出来事、神の下された審判であることを確認しなければならないでしょう。
 ところで、こんなにも大規模な、世界大の大洪水が果たして本当に起こったのか、実際はノアの住む一地方に限定された大水ではなかったか、という疑問が昔からありましたし、今も議論されています。
 これに対しては、様々な考え方がありますが、今日は四つのことを上げておきたいと思います。
 第一は、世界の至るところに、一瞬にして、生きたままの状態で土に埋まり、大洪水のような巨大な力で化石になったとしか思えない動物や植物の化石群が存在すること。第二は、ヨーロッパ、中東、アフリカ、アジア、アメリカに太平洋諸島など、世界中の神話に大洪水の出来事は伝えられており、中には生き残った者は八人と、聖書同様の人数が記されている記録もあること。
 第三は、少々理屈を言わせてもらえば、もし、これが一地方の、局地的な洪水であったら、ノアは苦労して箱舟等作らず、他の地方に引っ越せばよかった、と思われること。
 第四には、聖書の記者たち、並びにイエス・キリストも、この洪水が実際の出来事であり、世界大の規模であったと認めていることを上げることもできるでしょう。
 さて、水は百五十日間増え続けたと言います。百五十日といえば、三十日かける五、五ヶ月です。何と長かったことでしょう。
 どんどん増え続ける水。いつになったら止まるのかと思っても止まらない。際限なく増え続ける水の上に、ぷかぷかと浮かぶことしかできない箱舟の中にいる心もとなさ。波に煽られ、風に弄ばれる恐怖。
 そんな中でも、船の中の生き物たちの世話に忙しいノアさんとその家族です。時には、地上に残された親しい人々のことを思い、「彼らは最後の最後に、罪を悔い、神を信じてくれてだろうか」と心配したり、時には、これからの生活を思って不安に悩んだり。百五十日の中には、眠れない夜も何度あったことか。
 何よりも苦しかったのは、「神さまは、こんな船のこと等忘れておられるのではないか。」「いくら巨大な船といっても、大海原に出れば、小さな小さな存在。自分たちのことなど、神さまの目に留まっているのだろうか」。こんな疑念が心に湧いてくる時であったでしょう。
 しかし、神さまは決して忘れてはいませんでした。ちゃんとノアとその一家、そして生き物に目を留め、その心は箱舟の中の大切な存在から離れることはなかったのです。

 8:1〜5「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現われた。」

 漂流生活の終わりは、第七の月の十七日。箱舟が止まったのは、今もトルコの国に聳えるアララテ山の上でした。
 アララテは五千メートル級の山々が連なる雄大な山脈で、麓にはナクスアナという町があり、その名前は「ノアが来てここに住んだ」という意味なのだそうです。
 また、千九百年代の最初、ロシアの飛行家が山頂付近で巨大な箱舟の後を発見したと報告したり、千五百年代には、フランスの登山家が箱舟の材木の一部と思われるものをもって帰り、調査が行われたとの記録もあります。アララテの山は、聖書と歴史の重要な接点のひとつで、今後何が発見されるのか。ワクワクします。
 さて、神の手により、大いなる水の源と天の水門、それに大雨とがストップされ、ようやく水が減り始めます。そして、ついに、ノアの目に黒い山の姿が映ったのは、アララテ到着から、二ヵ月半後、第十の月の一日のこととなります。
 しかし、そのタイミングで、ノアは船を降り、自由の身になったのかというと、そうではありませんでした。水に浮かぶ漂流も五ヶ月と長かったのですが、漂着した山の上でじっと待つ期間は七ヶ月と、さらに長くあったのです。
 もちろん、その間ノアは何もしなかったわけではなく、最初に烏を、次にハトを放って、地上の様子を調査することに努めました。

 8:6〜12「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。」

 カラスは雑食性。水に漂う死骸等も食べる上、汚れた環境でも生きてゆけるしたたかな鳥です。ノアが最初カラスを放って、地上を調査し、水の引き具合を確かめようとしたのは正解でした。
 それに対して、二番手のハトは、若葉か木の実しか食べない鳥です。しかも、カラスとは違って、忠実に飼い主のもとに帰る性質がある。一度目、足を休める場所がなく帰ってきたハトも、二度目は、嘴にオリーブの若葉をくわえ、戻ってきました。
 オリーブは低地のそれも湿地帯に多く生えるとされますから、これは、低地の水も引いて、既に地上には新しい生命の芽が出ているという、希望の徴だったでしょう。
 念のために、もう七日待って、三度目のハトをノアが放ち、これが帰ってこなかったのは、地上から完全に水が引き、ハトも安心して暮らせる世界に回復したからでした。
 しかし、それでも、慎重なノアは、年が明けて第一の月の一日元旦に、箱舟の覆いを取って、自分の眼で地上の様子を確かめようとしました。

 8:13,14「ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

 第二の月の二十七日というと、ノアたちが箱舟に乗り込んでからのが、ちょうど一年と十日。ノアにとってこれ程長い一年は、人生の後にも先にもなかったことでしょう。
 それにしても不思議なのは、ノアの行動でした。箱舟がアララテの山にとどまったのは七ヶ月も前のこと。その時点で、ノアは箱舟の外に飛び出すことぐらいできたはずです。それなのに、出なかった。
 年が明けて、ノア六百一歳の第一の月の一日。水は地上から引いて、かわき始めていた、とありますから、この時点でも地上に、しかも低地に降りようと思えば、降りることはできたはずなのに、なお待ちました。そして、この第二の月の二十七日、地がかわききったのを確かめたので箱舟を出たのかというと、さにあらず。ノアが箱舟を出たのは、神のことばが下るのを待ってからだったのです。

 8:15〜19「そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。」

 注意してください。ノアは地上がかわききったのを知って、「これでもう大丈夫」と、箱舟の外に出たのではなく、神がノアに告げたので、つまり神のことばがあったので、「息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。」というタイミング、順番だったのです。ノアさんはどこまでも神に信頼して歩む。信仰の人の面目躍如でした。
 さて、今日の箇所から、私たちが覚えたいことが二つあります。
 ひとつは、私たちのことを決して忘れず、いつも私たちに眼を留めてくださる神さまを信じ、仰ぎたい、ということです。
 「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」(8:1)ということば、特に、神はノアとすべてのものに心を留めておられたという一句に、私たち励まされたいのです。
 クリスチャン、神の子とは言っても、この世界では少数者、小さな群れ。広い海に浮かぶ一艘の箱舟にいる様な心細さを覚える時が、私たちもあるでしょう。この世の波に押されて苦しみ、流されて悩む自分のこと、自分たち家族のことを、神さまは知っておられるのか、分っておられるのか、と不安に思う時もあるでしょう。
 しかし、たとえ、私たちは神を忘れても、神は私たちを決して忘れない、とここに保証されてあることを受けとめたいのです。いつも私たちを心に覚え、私たちの家族に目を留め、私たちの教会を大切に守ってくださる神を信じ、仰ぎたいのです。
 世間の冷たさに涙する時、ひとり仕事に励む時、家族と食卓を囲むひと時。いつでも私たちを見守りたもう神さまの眼差しを意識して、歩む者でありたいと思います。
 ふたつ目は、ノアの信仰です。ノアの信仰、それは神のみことば、みこころに徹底的に従うものでした。一年前、まだ雨が一滴も降らないのに、「箱舟を作りなさい」と言われると、これに従ったノア。箱舟を完成しても、自分勝手に入るのではなく、神さまに「入りなさい」と言われるまで、入ろうとしなかったノア。窮屈な箱舟生活を終え、すぐにでも外に出て、自由になりたかったであろうに、自分の判断では行動せず、「外に出なさい」との神のことばがあるまで待ったノア。
 こんなノアの姿を鏡に、私たち自分を振り返りたいのです。神を信じるといいながら、神に従わない者、神を信じると告白しながら、自分の考え方や判断を優先する者、神の御眼がきよいものであることを意識せず、相変わらずの自分勝手な行い、悪い習慣や自分中心の動機を捨てようとはしない者は、悔い改めてノアを見よ、ノアの如く生きよ、と教えられたいのです。
 神を信じるとは神に従うこと、神を愛するとは神のみことばに従うこと。ノアを通して、このことをもう一度心に刻んで、新しい一週間へ進みたく思います。

 Tヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師