2011年7月24日
礼拝メッセージ


「賛美を喜ばれる神」
  聖書
使徒の働き16章19〜34節

16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。


  メッセージ
 キリスト教には多くの特徴がありますが、そのうちの一つは「歌う」ことです。キリスト教は歌う宗教。音楽が好きでも嫌いでも、歌が上手くても下手でも、キリストを信じた者は歌うようになる。毎週、老若男女が一つ所に集まり、大きな声で歌う。聖典である聖書には、いたるところに神への賛美の歌が記されている。キリスト教は歌う宗教です。
 しかし、何故キリスト教では歌うのでしょうか。歌には人の心を励まし、勇気づける力があります。大きな苦しみ、悲しみに遭遇した時、頭の中で賛美歌がずっと流れていたという証を、色々な人から聞いたことがあります。私自身、苦しい時、辛い時に、賛美歌を歌うことで励まされ、勇気づけられたことが何度もあります。多くのクリスチャンに、このような経験があるようです。歌には、人の心を強くする効果がある。それでキリスト教では歌うのでしょうか。
 また歌は、メッセージを記憶に残す力があります。説教者としては残念に感じるところですが、説教を覚えているという人は、あまりいないように思います。皆様、先週の説教を覚えているでしょうか。1ヶ月前、1年前の説教はいかがでしょうか。ところが、歌となると記憶に残ります。自分の好きな賛美歌であれば、楽譜を見ずとも歌えるという方が多くいます。歌ですと、歌詞に込められたメッセージが伝わりやすくなるのです。紙が貴重で、各自で聖書を持つことが難しい時代、賛美はキリスト教のメッセージを伝えるものとして、効果的に用いられました。今の時代でも、賛美が伝道に用いられることは多くあります。歌はメッセージを記憶に残す力がある。それでキリスト教では歌うのでしょうか。
 歌うことで励まされるから。伝道するのに歌が有効だから。だからキリスト教では歌うのか。このような理由もないわけではありませんが、私たちクリスチャンが賛美歌を歌うのは、もっと大事な理由があります。
 それは私たちの神様が、神を信じる者の賛美を喜ばれる方であるからです。聖書にこのような言葉が記されています。

 詩篇22篇3節
あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 私たちの神様はイスラエルの賛美を住みかとされる。ここで言われているイスラエルとは、神を信じる者たちのこと。つまり、クリスチャンの賛美を住まいとされると言われている箇所です。住まい。居心地がよく、最もリラックスする場所。天地を創り、支配されている方が、私たちの賛美を住まいとされる。それ程までに、神を信じる者の賛美を喜ばれる方。すごい言葉ですが、だからこそ、私たちは賛美をささげるのです。
 私たちの神様は、私たちの賛美を喜ばれる方。皆様はこのことをどれだけ意識して、賛美をささげているでしょうか。今日の礼拝、ここまでにも賛美をささげてきましたが、私たちの賛美を喜ばれる方に賛美をささげていると意識してきたでしょうか。
 賛美について考える時、私たちがいかに歌うのか考える必要もありますが、今日は神様が私たちの賛美をどのように聞かれるのか。そのことに焦点を当てたく、聖書を開きたいと思います。神様は私たちの賛美をどのように聞かれるのか。結論は既に言いました。私たちの神様は、私たちの賛美を喜ばれる方。しかし、それを今日の箇所からさらに確認していきたいと思います。

 使徒16章19節
彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。

 この箇所はパウロとシラスという人たちが、ピリピという町で伝道していた時の記事。キリストを宣べ伝えていたパウロとシラスに大きな災難が下った場面です。
 発端は、パウロが占いの霊につかれた女奴隷から、占いの霊を追い出したことでした。占いの霊につかれた女奴隷。どのような様子だったのでしょうか。常軌を逸した言動。異様な雰囲気でしょうか。詳しい様子は分かりませんが、ともかく、この女奴隷の主人たちは、この女性の占いを通して儲けていたのです。そこにパウロが現れ、占いの霊を追い出し、女性が正気を取り戻したというのです。
 正気を失っていた者が取り戻した。本当ならパウロに感謝するところでしょう。しかし、主人たちは、女奴隷が正気になることより、お金の方が大事だった。儲ける望みがなくなったことに腹を立て、パウロとシラスを捕まえ裁判にかけたというのです。
 女奴隷の主人たちは、「儲けるのぞみがなくなった」とは一言も言わずに「この者たちはユダヤ人で、ローマ人が採用も実行もしてはならない風習を宣伝している。」と告訴します。

 使徒16章20節〜21節
そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。『この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。』

 実際には、パウロとシラスは訴えられたようなことは何もしていませんでした。それどころか、二人はユダヤ人であり、またローマの市民権を持っていた人たちです。調べれば、この訴えが的外れなものであることがすぐに分かったでしょう。ところが、まともな裁判は行われず、刑が執行されたというのです。

 使徒16章22節〜24節
群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。

 パウロとシラスへの訴えは悪意による訴え。調べれば、訴えが正しくないことがすぐに分かったはず。ところが、群集も二人に反対してたつと、長官たちは、調べもせずにむちで打つように命じたといいます。
 当時、ローマ市民権を持っている者を、調べもせずにむちを打つことは許されていないこと。つまり、この時の裁判は、裁判と呼べるような代物ではなかったということです。訴えが事実かどうか調べない。パウロたちがローマ市民権を持っているかどうかも確認しない。それにもかかわらず、むちで打ち、牢屋に入れるという無茶苦茶なことが起こったのでした。
 当時のむちは、皮のむちの先端に、石や動物の骨をつけたもの。あるいは、皮ではなく、鉄で出来たむちもありました。そのようなもので叩かれると、皮が剥げ、肉が削げ、骨折になることもある。叩かれた周りは、ひどい炎症。この時、パウロとシラスは何度もむちで打たれたのでした。さらに、ふたりは、重罪人が入る奥の牢に入れられ、足かせを掛けられました。当時の足かせは、足を無理に開かせ、固定するという、動けなくするだけでなく、拷問の意味もあるものがありました。
 なんとかピリピにいる人々にも福音を伝えたいと思っての伝道。その結果、何が起こったのか。悪意による訴え。不正な裁判。その結果、むちで何度も打たれ、痛めつけられながら足を固定され、牢に入れられる。傷が痛む中、身動きが取れない。その上、牢の中の暗闇、悪臭。これからどうなるかも分からない不安。
 伝道の結果としては、最悪の結果なように思えます。あの女奴隷の主人たち、煽り立てた群集、勝手な判断をした長官たち、とてもじゃないけど赦せない。いや、神に仕え、伝道しているのに、このような状況を許される神はいったい何をやっているんだ、と言いたくなる状況。もし自分がこの状況に置かれたとしたら、どのように思うでしょうか。怒り狂いながら人々を呪い、神に文句を言うということはないでしょうか。
 そのように思いながら、続く箇所を読むと驚くべきことが書いてあります。

 使徒16章25節
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

 この時、パウロとシラスは何をしたのか。祈りと賛美でした。暗闇と悪臭の中、傷を負い、身動きとれず、今後どうなるか分からない。その状態で、パウロとシラスの口から出たのは、神様への賛美の歌だったという。聞こえるはずのないところで、賛美が響いたのです。奇跡的な場面です。
 嬉しいから、感謝だから、神様は素晴らしいと感じるから賛美する。それだけではないのです。理不尽な状況。神様を遠くに感じる時。それでも賛美をする。何故か。それは、私たちの神様は、私たちの賛美を喜ばれる方だからです。私が賛美したいから賛美するのではなく、神様が賛美を喜ばれる方だから賛美をする。パウロとシラスの姿から、神中心の信仰がどのようなものか教えられるところです。
 真夜中の獄中。賛美が聞こえるはずもないところで響いたその賛美は、他の囚人たちの耳にも届きます。「うるさい」「黙れ」「場所を考えろ」と野次が飛んでもおかしくないところ。しかし、この二人の歌声に神聖なものを感じたのでしょう。他の囚人たちも聞き入っていたといいます。一体どのような賛美だったのか。聞いてみたいところ。
 ところで、この賛美を聞いていたのは囚人たちだけではありません。「イスラエルの賛美を住まいとされる神様」が、確かにこの時の賛美を聞いておられた。喜んでおられるというのが、続く記事で分かるのです。

 使徒16章26節
ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 大地震により、獄舎の土台が揺れ動き、とびらが全部あき、更に囚人をつないでいた鎖が解けたのです。地震で扉があくのは良いでしょう。しかし、鎖が全部解けたというのは、普通のことではない。パウロとシラスを何としてでも守る。何としてでも、二人を通してなされる伝道を成功させる。身を乗り出して、この出来事に介入される神様。二人の賛美を喜び、応えて下さる神様の姿です。神を信じる者の賛美を喜びとされるということが、具体的に現わされた出来事の一つです。
 この出来事。パウロとシラスからすると、聖なる体験。神様を強く意識した出来事です。ところが、看守にしてみると、この出来事は身の破滅と思える出来事でした。

 使徒16章27節
目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

 当時のローマでは、見守る者が囚人を逃がした場合、囚人と同じ刑罰を受ける決まりでした。牢の扉があき、全ての囚人が逃げた者と思った看守は、全ての囚人の刑罰を受けなければならないと思い、これで終わりと自害を決意します。
 実際には扉があき、鎖が落ちても囚人たちは逃げていません。祈りと賛美を聞いていた囚人たちは、その後の出来事に神様の働きを感じ、身動きしなかった。あるいは、自分たちが逃げたら、看守に被害が及ぶことを考え、逃げ出さなかったか。自害を決意した看守に、パウロの大声が響きます。

 使徒16章28節
そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる。』と叫んだ。

 この言葉を受け、看守はパウロとシラスにひれ伏し、二人に質問するのです。

 使徒16章29節〜30節
看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。

 この出来事は、看守をして救いに思いをいたらせるものとなります。「救われるためには何をしなければなりませんか。」との質問。何故、この質問が出てきたのか。寝る前に、看守もパウロとシラスの賛美を耳にしていたので、この出来事に神様の働きを見出していたからか。あるいは、看守の命を救うために、逃げ出さなかった姿に、他にはないものを見出したからか。一度自害を決意したことで、生きるとはどういうことか考えたからか。何にしろ、看守は人間にとって最も重要な質問をするに至るのです。「救われるためには何をしなければなりませんか。」
 それに対するパウロとシラスの答えは実にシンプル。そして、これがキリスト教の中心メッセージです。

 使徒16章31節
ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。

 救われるために何が必要か。主イエスを信じること。イエス・キリストを我が救い主と受け入れること。救いに必要なのは、キリストを信じること。これしか道はなく、これだけで十分。これがキリスト教でした。
 ところで、ここで看守だけでなく、家族のことも言われています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。この言葉、看守が主イエスを信じたら、自動的に家族が救われるという意味ではありません。もとのギリシャ語からすると、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます。あなたの家族も。」と訳すことが出来る言葉。救いというのは、その人がキリストを信じることが重要でした。
 この言葉を受け、看守は家族を集めたのでしょう。家族皆で、パウロとシラスの言葉を聞くことになります。

 使徒16章32節〜34節
そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

 悪意ある訴え、不正な裁判、鞭打ちと監獄。ひどい目に会いながら、それでも神を賛美するクリスチャン。その賛美を喜び、パウロとシラスを助ける神様。この一連の出来事を通して、救われる看守とその家族。劇的な一幕でした。
 今日は賛美礼拝。この箇所から賛美について、一つのことを考えて終わりにしたいと思います。考えたいこと、それは何度も確認したことです。私たちの神様は、賛美を喜ばれる方。歌には力があり、自分自身にとっても、伝道する上でも、大変有用です。しかし、私たちクリスチャンが賛美をささげる最大の理由は、私たちの神様が賛美を喜ばれる方であるから。このことを、よくよく覚えたいと思います。今日の聖句を皆様とともに読みたいと思います。

 詩篇22篇3節
あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 この世界を創り支配される神が、私たちの賛美を住まいとされる。私たちの賛美を喜ばれる。これは凄いこと。聖書に記されていなければ、とてもじゃないけれども信じられない言葉。しかし、このことを信じる時、私たちの賛美は変わります。自分の歌い時だけ賛美するのではなく、いかなる時、どこであっても、どのような状況でも賛美をささげる。神様が喜ばれるのだから賛美する。自分中心の信仰から、神中心の信仰へと導かれます。今日、私たちはどのような思いで賛美をささげたか。これから、どのように賛美をささげるか。神様中心の賛美、神様中心の信仰生活になるよう皆で取り組みたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師