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メッセージ
今より二千年前。キリストの十字架の死と復活の前のこと。イエス・キリストとはどのような者なのか。人々は様々な意見を出します。大群集を相手に説教をするところを見ると大説教家か。病人を癒すところを見ると、名医か。死人をよみがえらせるところを見ると、預言者か。あるいは聖書学者、社会運動家、革命家、聖者か。旧約の預言者エリヤの再来か、いやエレミヤの再来か。
「イエスを誰だと思うか。」これは人間にとって重要な課題。重要なテーマです。私たちクリスチャン、イエスを「神の子、救い主」と知り、信じているというのは、大きな恵みでした。
それはそれとしまして、二千年前、「自分のことを救い主というイエスとは何者だ。」「化けの皮を剥がしてやる」との思いを持った一人の律法学者が、イエス様に質問をぶつけます。
マタイ22章35節〜36節
「そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』」
質問した意図は残念なところ。「ためそう」などとせず、純粋に質問したら良いところ。とはいえ、よくイエス様に聞いてくれたと思う質問です。「律法の中で大切な戒めは何ですか。」と。ここで言われている律法とは、聖書と理解して良い言葉。「聖書の中で大切な戒めは何ですか。」との質問。
分厚い聖書。この中で大切な戒めは何か。是非、イエス様の答えを聞きたい。私たちからすれば、よくぞ聞いてくれたと感謝なのです。この質問の答えとして語られたのが、続くところ、有名な箇所です。
マタイ22章37節〜40節
「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」
イエス様の答えは、聖書全体はこの二つの戒めにかかっているというもの。二つの戒め。「神を愛すること」と「人を愛すること」の二つです。聖書に示された、神様から私たちに対する命令の中心は「愛すること」。キリスト教の中心は愛すること。キリスト教とは何かと言われたら、「愛を実践する」宗教と言えます。
キリスト教は「愛を実践する」宗教、クリスチャンは「愛を実践する」人。そのように聞くと、皆さまはどのように感じるでしょうか。その通り、私は愛を実践する人ですと胸を張れる人がどれだけいるでしょうか。
私たちは聖書が「愛を実践する」ように命じていることは分かります。しかし、実際に「愛を実践する」ことは非常に難しいこと。そもそも「愛する」とは何か。これが難しい。また「愛したい」と願いながらも、あるいは「このようにしたい」と願いながらも、それをすることが出来ないのが、私たちの持っている課題です。
そこでクリスチャンとは、「愛を実践する」人と言うよりは、クリスチャンとは何度も失敗をしながらも、愛するとは何かを聖書から教えられ、実践する者。愛を実践することを追求し、取り組む者と言えます。
私たちは「愛する」とは何か。聖書から考え、また「愛を実践する」ことに十分取り組んできたでしょうか。これから何回かに分けて、「愛を実践する」ことを考えていきたいと思います。今日は「愛する」ことの中でも特に「存在を喜ぶ」ことに焦点を当てます。
関根一夫という先生が書いた本の中にありました。人間を評価するのに二つの方法があり、それぞれ機能論的人間観と存在論的人間観と呼ぶそうです。
機能論的人間観とは、人を観るときにその人の機能に焦点を当てるというもの。何が出来る、何が出来ないということ、その人の能力でその人を評価する見方です。学歴があるから、地位があるから、財産があるから、高収入だから。美しいから。格好が良いから。他の人が出来ない特別な能力があるから。だから、この人は価値があるという見方です。
片や存在論的人間観とは、何が出来る、出来ないで評価するのではなく、その人がそこにいること。存在することを素晴らしいものとして見る見方。相手の状況に関係なく無条件にその存在を喜ぶ見方です。
自分が人を観るとき、どのような見方をしているか思い返して下さい。その人の存在を喜ぶということをどれだけしているでしょうか。その人の機能、何が出来るか何が出来ないかで、良し悪しを考えることがどれだけあるでしょうか。自分にとってメリットのある人とだけ関係を持ち、自分にとってデメリットの人とは、出来るだけ距離を置こうとしないでしょうか。
考えてみますと、今の日本には機能論的人間観が蔓延しています。学校でも会社でも。小さい時から大人になっても。小説や漫画、テレビや雑誌を通しても、いたるところで、機能論的人間観で人を評価することがなされています。
そのため、本来、存在論的人間観に立って人を見るべきところ。教会、家庭、友人関係においても機能論的人間観で人を見てしまうことが起こります。いかがでしょうか。自分を省みた時に、教会、家庭、友人関係において、機能論的人間観で評価していることはないでしょうか。
他人を見る時も、自分を見る時も、いつも機能論的人間観になると、これは大変なことです。人の良いところを見ては嫉妬し、人の悪いところを見ては優越感に浸る。自分で自分の価値を見出すのも大変なこと。自分で納得のいく成果を上げ続けなければ、自分の価値を認められなくなります。
他の人を見る時も、自分を見る時も、存在を喜ぶということはどれ程大切なのか。この時代、日本では特に考えるべきことの一つではないかと思うのです。
神様が私たち人間を見るのは、徹底的に存在論的人間観としてであることが、聖書から確認出来ます。神様は私たちの存在を喜んで下さる方。
多くの人に愛されている有名な聖書の言葉。神様から私たちへの愛の告白の言葉。
イザヤ43章4節a
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
この世界をつくった方が、私たちを高価で尊いと見ている。この言葉を真剣に受け止められる人は幸いでした。
しかし、なぜ神様は私たちを高価で尊いと見ているのでしょうか。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。あなたは高学歴だからね。」とか、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。あなたは高収入だからね。」と言われたとしたら、自分のことを言っていると思える人はどれだけいるでしょうか。
神様が私たちを高価で尊いと見ている理由。それが、この少し前の箇所に記されています。
イザヤ43章1節
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」
なぜ神様の目に、私たちは高価で尊いのか。それは神様が私たちを造ったから。また神様が私たちを贖った、救ったから。私たちは神様のものだから。だから高価で尊いのです。私たちが何かをしたから、何かを出来るからではなく、神様が私たちを造り贖ったから高価で尊いと言われる。
私たちの方に理由があるのではなく、神様の方に理由があり、それで私たちは高価で尊いと言われる。神様が私たちを見て、「高価で尊い。愛している」と言うのは、私たちが何か出来るからではない。私たちの存在を喜んで下さるからでした。
私たちの救いについて。これも私たちが何か出来るからではないということがはっきりと教えられていました。
ローマ3章23〜24節
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
全ての人は神からの栄誉を受けることが出来ない。ただ、神の恵みによって、価なしに義と認められると言います。「価なし」。私たちが救われるのは、何か出来るからではないのです。救いに価しないのに、ただ神様の恵みによって救われる。これぞキリスト教というメッセージですが、ここでも神様が私たちを機能論的に見るのではなく、存在論的に見る方であることが分かるのです。
神様が私たちを存在論的に見るという箇所は、他にも色々ありますが、もう一つ上げておきたいと思います。
ローマ5章6〜8節
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
「私たちが弱かったとき」とか、「不敬虔な者」とか、「私たちが罪人であったとき」と言われています。機能論的に見れば、神様の目から無価値であるどころか、捨てるべき存在という意味です。神様のために何も出来ないどころか、歯向かうことしかしない存在。その私たちのために、キリストは十字架にかかった。それによって、神の愛が示されたと言います。今日の説教の流れに沿って言えば、ここに示された神様の愛が、存在を喜ぶ愛。何か出来るので愛するではなく、神に背くことしか出来ない存在を愛する愛でした。
神様が私たちを救うのは、天国で私たちを奴隷としてこき使うためではない。神の家族、神の子として迎えるためでした。まさに存在を喜ぶために、という意味です。私たちと天国で永遠に過ごすためならば、その一人子を十字架につけることも良しとされる。それほど、私たちを無条件に愛するお方であるということ。
愛するとは何か。愛するとはどのようなことかを考える時に、この神様の愛。存在を喜ぶ愛を、私たちは知り、私たちもそのように隣人を、自分自身を愛する者でありたいと思うのです。
とはいえ、機能論的に人を見ることの全てが悪いわけではありません。その人にどのような機能があるのか。つまり、その人は何が出来て、何が出来ないのかを考えることは大切です。仮に、皆同じように大切な存在ですから、礼拝での奏楽は皆で順番に行いましょうと決めたら、多くの礼拝で混乱が起きるでしょう。仮に、私たちが会社を興し、人を採用する際に、存在が素晴らしいので誰でも彼でも雇うとしたら、その会社はたちまち立ち行かないでしょう。
人にはそれぞれ特徴があり、その人は何が出来て、何が出来ないか判断することは大事です。しかし、それでその人の存在の価値を決めることは相応しくないのです。
以上、機能論的人間観と存在論的人間観という二つの見方から、神様の愛とは何か。存在を喜ぶ愛について考えてきました。
私たちが生きて行く上で、特に存在論的人間観に立って人を愛していくべきところ。教会、家庭、友人関係で、存在論的人間観に立って生きて行きたく願います。そのために、三つのことを覚えて、終わりにしたいと思います。
私たちが存在論的人間観に立つために、大切なことの第一は、罪の問題を解決すること。キリストを信じることです。神から離れる罪の症状は、自己中心でした。自己中心とは、他の存在よりも、自分が大事という思い。人を見る時に、自分に利益をもたらす人なのか、自分に不利益をもたらす人なのか。その視点で付き合うようになります。私たちが他の人の存在を心から喜ぶためには、自分が自己中心から解放される必要があるのです。
まだキリストを信じていない方には、キリストを救い主と信じることをお勧めいたします。キリストを信じている方は、キリストによって罪から解放されていることを再確認することをお勧めいたします。
私たちが存在論的人間観に立つために、大切なことの第二は、神様がどれほど私を愛しているのかを知るということです。一般的な表現ですが、「人間は穴のあいたビニール袋」と言われます。「穴のあいたビニール袋」、そこに水を入れれば水が出てくるし、麦茶を入れれば麦茶が、コーヒーを入れればコーヒーが出てくる。人間はそのような側面があります。つまり、自分を蔑む環境にいれば人を蔑む思いが出てくるし、怒りの環境にいれば怒りが出てくる。悪口を聞く環境にいれば、自分の口からも悪口が出てくる。愛のある環境にいれば、愛が出てくる。「人間は穴のあいたビニール袋」と言われます。勿論、全てその通りになるわけではなりませんが、自分自身の経験からも確かにそのような側面があると言えます。
この視点から言えば、私たちが存在論的人間観に立つためには、私たち自身がその存在を愛されている経験を多くすること。そのことを味わうことが大切です。私たちは、神様がどれほど私を愛しているのか、どれだけ味わっているでしょうか。
今日の聖句
ローマ人への手紙8章32節
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
私たちの神様は、私たちのためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方。世界を造り支配されている方が、それほどまでに私たちを愛している。そのことを、よくよく味わいたいと思います。
私たちが存在論的人間観に立つために、大切なことの第三は与えられている隣人の存在がどれほど大切なのか考える時間を取ることです。今、隣に座ってともに礼拝をささげている教会の仲間。自分の家族。自分の友人。これら一人一人が、本当にかけがえのない存在だと確認する時間です。そのためのヒントとして、「もし、わかってさえいたら」という詩を紹介したいと思います。
「もし、わかってさえいたら」
もし、ぐっすり眠っているあなたを見ることが出来るのが、
これで最後だとわかっていたら、
私はもっとしっかり毛布に包んであげ、神様にあなたの祝福を祈っただろう。
もし、外出するあなたを見るのが最後だとわかっていたら、
私はあなたをしっかり抱きしめ、キスをし、出かけるあなたをもう一度呼び止め、
もう一度しっかり抱きしめたことだろう。
もし、あなたの嬉しそうな褒め言葉を聴くのが最後だとわかっていたら、
私はそれを毎日繰り返して見ることが出来るように、
あなたの言葉とその行動のすべてをビデオに撮影したことだろう。
将来の道を考えるための明日はきっとあるし、きっと来ると考えているし、
すべてをやり直すための明日はきっとくるはずだと、私たちは考えている。
「愛しているよ」と言える別の日がいつか必ずあるのだろう。
また、「何か手伝いましょうか」と言える機会がまたきっとあるのだと思う。
しかし、万一それが間違いだったら、
私があなたをどれほど愛しているかを伝えることが出来るのは、今日しかないのだ。
そのことを決して忘れないようにしたい。
若者にもそうでない者にも、明日という日は約束されているわけではない。
だから今日こそ、あなたが愛する人をしっかり抱きしめることが出来る最後の機会かもしれないのだ。
だから、もしあなたが明日でもいいやと思っているようなら、
今日のうちに実行してみたらどうだろう。
もしかしたら明日は来ないかもしれないし、
そうなったらきっとその日、あなたは後悔することになるだろうから。
笑顔を見せること、しっかり抱きしめるためのほんのわずかな時間、
相手があなたに求めている唯一の、最後の願いだったかもしれないそれらのことを、
今はそんなことをしている暇はないと、無視してしまったら、
きっと後悔することになるだろう。
だから今日、愛する人をしっかり抱きしめよう。
そして耳元でささやこう、愛していることを、いつも大切な人だということを。
「ごめんなさい」「赦してね」「ありがとう」と時間をとって伝えよう。
そうしておけば、もし明日が来ないとしても今日この日に後悔することがないだろうから。
自分に与えられている教会の仲間、家族、友人。その一人一人の存在がどれほどかけがえのない存在なのか考えるために、もし会えるのが、今日が最後だとしたらと考えてみるのは、一つの良い方法です。もし会えるのが最後だとしたら、その人に何をするのか。何を伝えるのか。自分にとり、その存在がどれほど大切なものであるのか、考えることになります。
以上、三つの具体的な取り組みを確認しました。皆様とともに、「愛する」とは何か、聖書から考え、具体的に愛を実践する者となるよう、皆で取り組みたいと思います。
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