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2011年8月14日
礼拝メッセージ
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「世界の初めの歴史(20)」
−主のために祭壇を−
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聖書
創世記8章20〜22節
8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
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メッセージ
東北大震災から五ヶ月。この間、地震や津波に関する様々な本が出ましたが、その中に吉村昭さんと言う人が書いた「三陸海岸大津波」というものがあります。
これは、東北の三陸海岸を襲った津波の歴史をたどり、人々の証言をまとめた本です。中でも私が驚かされたことのひとつは、昭和35年の大津波が、何と日本からはるか遠い国、南米チリで起こった地震による、と言うことでした。
南アメリカのチリ沖で発生した地震が、海面を盛り上げたまま、およそ20時間かけて太平洋を越え、三陸地方を襲う大津波となったのです。チリと日本の東北地方の間は1万8千キロ。その間、波の勢いは衰えることなく、巨大な津波となって、多大な被害をもたらしました。
研究者によれば、過去380年間、三陸地方に押し寄せた43の津波のうち、何と9個の津波が、南米発の地震によるものとされます。地殻変動による海水の膨大なエネルギーはいかばかりか。大自然恐るべし、と思わされます。
しかし、聖書創世記の主人公の一人、ノアの時代に起こった大洪水は、現代の巨大津波をはるかに、はるかに越えるもの。地殻変動による津波、地下水の噴出、加えて四十日四十夜降り続くという、今の気象の常識では考えられない大雨。ついには、山と言う山すべてが水没する、と言う凄まじさだったのです。
「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」(6:11)と聖書が語る、史上最低最悪の時代、この大洪水は地上に下された神の審判でした。
しかし、このような時代であっても、世界を創造した神さまのあわれみは尽きず、ただひとりの義人ノアを見いだします。人という人がこぞって神信仰を捨て去っても、ノアとその家族8人は神の声を聞き、神とともに歩んで、救いの箱舟に乗り込みました。そして、水の上を漂うこと丸一年。無事アララテ山に漂着したのです。
ノアの生涯600歳から601歳にかけての一大事。長い漂流生活は漸く終わり、神さまはノアに、「箱舟を降りて、新しい生活を始めなさい」という、嬉しい解放のことばをここに告げられたのです。
8:15〜19「そこで、神はノアに告げて仰せられた。『あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。』
そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。」
中でも、「それら(生き物)が地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。』と言うことばは大切であり、どれほどノアの心を奮い立たせたでしょう。
神さまが大洪水を起こされたのは、罪に満ちた世界の大掃除。後には、ノアの家族を基として、人類と生き物とが増え広がる新しい世界がちゃんと用意されていたのです。
ノアの大洪水は、神さまの審判。それも、聖書全体から見るならば、神さまによる世の終わりに下される審判の前兆、しるしとされます。
神の審判と聞いて、皆様はどう思われるでしょうか。喩えていうなら、それは、太陽の熱のようなものかもしれません。
同じ太陽の熱を受けて、粘土は固くなりますが、氷は溶けて柔らかくなります。神の審判と聞くと、神を恐れない、傲慢な者は「そんな酷いことをするなんて、神などいらない、神など信じるに足りない」と、いよいよ心を粘土のように固くします。一方、神を恐れる人は、それを人事とは思わず、自分の罪を省みて、「神は確かにおられるし、そのさばきは正しい」と告白して、溶ける氷の如く心を柔らかくし、へりくだるのです。
そして、ノアはまさに神の前に心柔らかい人、へりくだった人でした。箱舟から出た彼が最初に行ったことは、何だったのか。洪水で荒れ果てた大地を見て、嘆き悲しむことだったのか。それとも、さっそく働き始めたのか。
どちらでもありませんでした。ノアがしたのは石を取って、祭壇を築いたこと。つまり、先ず主なる神に礼拝をささげたのです。
8:20「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」
ノアの礼拝には三つの特徴がありました。ひとつは、多くの生き物の中からきよい家畜、きよい鳥を選んでささげたことです。ノアは、自分にとってどうでもよいものをささげることをしませんでした。むしろ、家畜等自分にとって貴重なもの、大切な物を選んで神にささげたのです。
しかも、これらをいけにえとして尊い血が流されたということは、やがて来られる救い主イエス様とイエス様が十字架に血を流して、信じる者の罪の贖いとなられたことを前もって示しもの、と考えられます。
これによって、ノアは自分も洪水で滅んだ人々同様罪人であること、箱舟による救い、こんな尊い救いに預かれたのは、ただ神による赦しの恵みによることを告白したのです。
第二に、ノアがささげたのは、全焼のいけにえでした。全焼のいけにえは、生き物全部を煙としてささげるもの。礼拝者が自分のすべてを、身も心も、全身全霊をささげること、「神さま、私のすべてはあなたのものです」という献身を表します。
大洪水から救い出し、新しい人生を恵んでくださった神さまに、どれだけ感謝していたことか。ノアの感謝がいかに深いものであったかが、ここに表れていました。
第三に、ノアの礼拝は自分から進んで、自発的でした。今まで、「箱舟を作りなさい」と命じられればこれを作り、「箱舟に入りなさい」と言われればそこに入り、「箱舟から出よ」と言われるまでは、外に出なかったのがノアと言う人です。
それが、どうでしょう。こと礼拝に関しては、「礼拝しなさい」と神に言われるまでもなく、自ら進んでこれを行い、ささげた。何をしても自由なのに、他にもすべき仕事は沢山あったでしょうに、神礼拝を第一の事として選び、祭壇の前にひざまずき、感謝をささげたノア。そんなノアさんの姿が心に浮かびますし、浮かべるべきでしょう。
そして、ノアのこの質素で単純な礼拝を、神は喜ばれた、心から大喜びされたのです。
8:21「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。』」
「主は、そのなだめのかおりをかがれた」とは、聖書特有の表現で、主なる神さまが、ノアの礼拝を真実なものとして、喜び、受け入れられた、と言う意味です。
自分だって神のさばきを受けるべき罪人であることを認めた魂、神による罪の贖いに信頼する魂、身も心もささげて、「神さま私をお使いください」と告白する魂。礼拝者ならこうありたい、こうあるべしと思われるすべてが、ノアの礼拝にはあったのです。
さらに、です。ノアのささげた礼拝は天地の造り主の心を動かしました。
荒れ果てた大地の一角、痩せた、冷たい地上の片隅で、健気にも、礼拝をささげるノア一家の姿をご覧になった神さまは、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」と言われたのです。
本来なら、大洪水は人間たちの罪のゆえ、人間たちの責任、自業自得。どこからどう見ても、神による正しい審判でした。
それを、神さまは、まるで自分の方が酷いことをしてしまったかのように、人間に同情し、人間のために心を痛め、「もう二度とこんなことはしたくない、いや二度と洪水で呪うことはしない」と決意された、というのです。私たちの信じる神さまは、こんな心をお持ちのお方、何とも人格的な神であることを確認したい、と思います。
それにしても、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」、という21節の神さまのおことばは不思議です。理屈に合いません。
もし、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と言うのなら、「今後もこの地を呪う」と考えるのが普通でしょう。それなのに、「「人の心の思い計ることは、初めから悪」と分っていながら、「わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはしない」とする神さまの決断。
これをどう考えたら良いのか。人の心に思い計ることは、初めから(生まれた時から)悪である」と見抜きながら、もう洪水をくださないというのは、罪人に対する神さまのあわれみ、恵みが洪水の後さらに、一層深まった、ということでしょう。
さて、八章の結びのことばは、人間を養い、生かしめる自然の秩序の回復と維持についてのお約束でした。
8:22「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
洪水の爪痕が残るやせた大地。あんなにも豊かだった自然が消えうせた殺伐とした地上。そんな所に降り立って、ノアは茫然とし、やがて不安になったでしょう。「一体、これからどう暮らしていけば良いのか。何を食べてゆけば良いのか。大地は再び作物を産み出すのか。」
そんなノアに、神さまは嬉しい保証をくださいました。「たとえ、人の世がどうあろうとも、わたしが種まきと刈り入れを保証しよう。今後、どんなに人の悪がはびこることがあっても、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜、四季は巡り、一年365日のサイクルは変わることはない。」
この世界とそこに満ちるすべてのものを創造したお方から、こんなにもあたたかく、頼りになる約束を頂くことができて、ノアはどれ程励まされたでしょう。事実、この後、一家はブドウ畑を作って、農業に励むことになりますが、それについてはまた後ほど、読むことになります。
こうして、創世記第八章の幕を閉じるにあたり、私たち確認したい大切なことが二つあります。
ひとつは、神礼拝の姿勢と重要性です。礼拝とは神さまの前に出ること、聖なる神のみ前に自分がいるのを意識することです。そして、神の聖さに心打たれる時、私たちは自分の罪を思い、悲しみ、イエス・キリストの十字架の贖いにより頼むことになるのです。果たして、私たちはノアのように、礼拝において神のみ前に出ているでしょうか。自分の罪を認め、悲しむ心をもっているでしょうか。
また、ノアは、尊い救いにあずかったことに感謝して、きよい動物の中から全焼のいけにえをささげました。私たちはどうかと問われます。
自分は大切なものを手元に置き、どうでも良いものをささげて、事足れりとしてはいなかったか。我がものはすべて神のものとして、これをおささげするという心はどれほどあったのか。ひとりひとり、礼拝の姿勢を省みたいところです。
さらに、ノアは洪水後の新しい生活の最初に、神を礼拝しました。誰に命じられたわけでもないのに、何をしても自由なのに、他にもなすべきことはあったでしょうに、神礼拝を第一のものとして選んだノア。この姿に教えられます。
果たして、私たちは聖書に命じられている聖日の礼拝以外、個人でか、信仰の友とか、家族や夫婦でか、自分から進んで礼拝してきただろうか。一年の最初、一週間の最初、一日の最初、あるいは大切なことに取り掛かる最初の時を、神礼拝のためにささげてきただろうか。
神さまの喜ばれる礼拝者となること、神礼拝を何物にも優る、第一のものとすること。こうしたことを意識して、日々歩みを進めてゆきたいのです。
ふたつ目は、人の心に思い計ることが、初めから悪であるにもかかわらず、なおもこの世界が神さまの恵みの内に守られてあることの意味、ということです。
春に種を蒔くと、秋には収穫。春の野山は初々しい薄緑で染まる。夏の野山は濃い緑と青い空のコントラスト。秋の野山は紅葉で燃え、冬には白銀で覆われる。種まきに刈り入れ。四季の移り変わり。繰り返される大自然の恵み。これが実は、神さまの恵み、御手の守りによるものであることを、私たち確認しました。
しかし、その保証は「地の続く限り」とあって、終わりの日の大審判、ノアの大洪水が指し示す終末が預言されているのを、私たち忘れてはならないでしょう。
聖書を読みますと、昔から世の終わりにおける神の審判を信じない人々は、大洪水のことも認めてきませんでした。彼らは言っていたようです。「神の審判があるって言うんなら、どうして悪が世にはびこるのか。本当にそんなことが起こるのか。本当にあると言うなら、余りにも遅すぎはしないか。」
それに対する、ペテロの答えはこうでした。今日の聖句です。
Uペテロ3:9「主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神さまが、人間たちの酷い罪にもかかわらず、大洪水の後、忍耐深く地上の世界を守っておられるのは、ひとりの魂も滅びることを望まず、悔い改めに進むことを望んでおられるからとは、何たる神の愛でしょう。
人間がどんなに神を無視して、自分勝手な道を行っても、その魂のことを誰よりも心配している神。罪人たちの住む世界を、これ以上酷くならないようにと、日々労してくださる神。そして、私たち以上に、私たちの魂の救いに熱心な神。
果たして、私たちはこの神のお心を、自分の心としているでしょうか。ひとつの魂も滅びることを望まず、その救いのため伝道に励むこと。この聖なる使命をなしうるかぎり、大切な隣人、同胞のため行わせていただけたら。そう願わされます。
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四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師 |
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