2011年8月28日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(21)」
−生めよ。ふえよ。地に満ちよ。−
  聖書
創世記9章1〜7節

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
9:2 野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」


  メッセージ
 聖書創世記に聞く世界の初めの歴史。今日は第九章に入ります。前の六章から八章までは、有名なノアの大洪水の顛末でした。地殻変動による津波、地下水の大量噴出、四十日四十夜降り続くという、今の気象の常識では考えられない大雨。ついには、山と言う山すべてが水没する、と言う凄まじさ。
 この大洪水は、「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」(6:11)と聖書が語る史上最低最悪の時代、神が地上に下された審判だったのです。
 しかし、このような時代、人という人がこぞって神信仰を捨てた時代、ただノアとその家族8人は神の声を聞き、神とともに歩んで、救いの箱舟に乗り込みました。そして、水の上を漂うこと丸一年。無事アララテ山に漂着し、箱舟から出、地上に降り立つことができたのです。
 そして、義人ノアが最初になしたことは神への礼拝でした。石を置いただけの素朴な祭壇の前に跪いて、神を仰ぎ、心から尊い救いに感謝し、献身を誓うノア一家。そんな礼拝を喜び、心動かされた神は、「二度と洪水で地上を滅ぼすことはすまい」と堅く決意します。
 さらに、不安で一杯のノアファミリーのため、もう一度大自然の秩序を回復し、これを守ることを誓われたのです。

 8:22「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

 洪水で荒れ果てた大地。豊かな自然が消え失せた地上。「こんな世界で、一体これからどう暮らしていけば良いのか。何を食べてゆけば良いのか。大地は再び作物を産み出すのか。」
 恐れ慄くノアにとって、これは嬉しい保証でした。「たとえ、人の世がどうあろうとも、わたしが種まきと刈り入れを保証しよう。今後、どんなに人の悪がはびこることがあっても、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜、四季は巡って変わることなし。」この世界を創造したお方、主なる神から、こんなにも頼りになる約束を頂くことができて、ノアはどれ程励まされたことでしょう。
 しかし、ノアに対する神さまの励ましは、これにとどまりませんでした。保証の後は祝福、と続いたのです。

 9:1「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」

 大洪水というさばきが終わり、地上は第二段階の新しい世界に入りました。その世界の基となるのが、ノアの家族。人間の不信仰と暴虐のゆえに世界は真っ暗になり、ために正義の審判を下したとしても、神は、ノアファミリー、わずか八人の信仰の人を残すと、彼らを祝福し、もう一度人間たちの世界を、歴史を祝福する、と宣言されたのです。
 改めて思わされるのは、私たちの信じる神は祝福の神、特に人間を祝福したくてたまらないお方だ、と言うことです。
 大洪水で古い世界を罰したのも、人間たちが救いようのない悪に陥らぬため。呪うためではなく、悪に染まった世界を回復し、罪人となった人類を救うためであったことを、ここで確認したく思います。
 「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」ノアが耳にしたこの祝福のことばは今日実現し、たった八人だった人類は六十億人を優に越え、寒い土地にも、熱い国にも、山にも、平地にも、大陸にも島々にも広がり、満ちています。
 神さまの祝福と恵み。それは創造の最初の時も、大洪水の審判の後も、まだ世界が良い状態であった最初の時も、人の罪に汚された後も、いささかも変わることなし。そう心に刻んで、すべての祝福の源、造り主の神を礼拝し、ほめたたえたいのです。
 そして、この祝福の大宣言が、決してことばだけでないこと、空約束ではないことを、続く二節以下が教えていました。神は人の命を守り、養うため、具体的な方法を定めてくださったのです。

 9:2「野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」

 洪水により被害を受けた世界に食料は乏しかった、と考えられます。もし、虎、ライオン、熊、狼などの野獣、ハゲタカ等の猛禽が飢えて人を襲うなら、ひとたまりもなく人類は滅亡する。そんな危険は大でした。
 また、洪水で荒れた土地は、とても人間の力だけで開墾できるものではなかったでしょう。人間に飼育され、人間の助けとなる動物、いわゆる家畜も必要でした。
 そこで、神は猛獣、野獣達には人間を恐れ、人間とは離れて暮らす本能を、他方、牛や馬には人間に従い、土を耕したり、重い物を運んで、人の助け手となる本能を備えられた、というのです。人を守り、人の生活を助ける。神のありがたいご配慮でした。
 しかし、神のご配慮はこれで終わりではありません。食料不足は動物のみならず、人間にとっても大問題だったからです。
 洪水によって土地は痩せました、天候も暑過ぎたり、寒過ぎたり、雨も多すぎたり、少なかったり、不安定となりました。そのため、作物は年によって出来不出来があり、常に質の良い食料を手に入れることが出来たであろう洪水以前の世界とは、変わってしまったのです。
 神はそのことも十分わきまえ、配慮してくださいました。すなわち、植物に加えて、動物も食べて良い、あなたがたの食料にしなさい、との許可が与えられたのです。

 9:3「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」

 洪水後の世界は厳しい環境。野菜や果物に含まれるたんぱく質だけでは、人が健康を保ち、世界中に増え広がるためには不足だったでしょう。この点、高タンパクの肉は人間にとって、それを補う効果的なエネルギー源、良き食料となりました。
 けれども、です。「動物を食料として良い」という許可には、大切な禁令が付け加えられたのです。即ち、血のついたまま肉を食べることが禁じられました。

 9:4「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」

 血のついたままの肉は腐り易く、そのまま食べると病原菌も体内に入れてしまう危険性がある。この禁令には、そんな健康上の理由もあったかもしれません。
 しかし、「肉の命は血の中にある。」との聖書の教えからすると、主な理由は、「動物たちも、神が造られた命なのだから、肉を食べる際血を控えることで、これを尊べ」という、命尊重の精神にあると考えられます。
 肉を血のついたままで貪り食らうという野蛮な食べ方は、動物の命を軽視することに繋がる。たとえ動物を食料として良いとしても、無益な殺生や残酷な取り扱いは、神の創造した尊い命を軽んじることに通じる。
 だから、血のついたまま肉を食らう野獣のような食べ方ではなく、人間らしいマナーを守り、尊い命の犠牲をもってあなたがたを養ってくださる神を覚えよ、神に感謝せよ。そんなメッセージを、私たちこのことばから聞き取りたいのです。
 子どもの頃、年に一度のお祭の楽しみといえば、何と言っても普段は口にできないご馳走でした。中でも、祖父がよく作ってくれた鶏肉と野菜を一緒に煮たものは、私の大好物でした。
 しかし、ある年、祭当日の朝のことです。偶然裏庭で祖父が鶏を絞め、さばいている姿を眼にした私は、衝撃と言うかショックで足が動かず、眼が鶏に釘付けとなりました。けれども、振り返ってみると、自分の命というものが、実は他の命の尊い犠牲で養われていることを考えるようになった、今でも忘れられない、貴重な体験だったと思います。
 植物に加えて動物の命で人を養う。ただし、神の造られた尊い命であることを忘れないようマナーも定める。これもまた、洪水後の人間達を守るための、神のご配慮でした。
 そして、動物の命が尊ばれるべきとすれば、さらに尊ばれ、守られるべきは人間のいのちでしょう。
 二節では、野獣から人間を守るため彼らに人を恐れる本能を備えた神さまが、今度は獣だけでなく、人間の攻撃から人間の命を守るため、刑罰を定めることになります。カインによる兄弟殺し以来暴虐が横行、人命を軽視する人間社会への戒めでした。

 9:5〜7「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 動物の世界には縄張り争いはあっても、同じ仲間同士殺し合うことはない、とされます。しかし、人間は同じ仲間を襲い、命を奪う。罪深い動物でした。
 野獣が人間を襲うことがあっても、それは恐れや飢え等、本能のなせるわざ。それに対して、人間は悪意を抱き、それを隠し、故意に、また密かに計画を練って人を襲い、命を奪う。実に残酷です。
 この人間の罪深さを知る神は、故意に人の血を流す人間、殺人者に対する罰を定め、人間の命を守らんとされました。獣が人を殺した場合、その獣は必ず殺される。そして、人を殺めた者は、それが被害者から見て他人であっても、兄弟であっても、自らの死をもって報いられねばならない。血には血を、命には命を。徹底的な人命尊重でした。
 そして、この神のさばきを殺人者に下す権威は人間に委ねられたのです。「人の血を流す者は、人によって、血を流される。」今日私たちの社会に存在する、死刑を始めとする、人命を守るための様々な法律の起源はここにあるとも言われます。
 洪水前の地上は「暴虐に満ちていた」と、聖書は語っています。残酷な暴力、殺人が横行する秩序なき世界、恐ろしい無政府状態でした。
 ですから、洪水後の世界が同じく酷い状況にならぬよう、神はここに人命尊重のための法律とそれを執行する公的な権威を定めることを宣言された、とも考えられるところです。
 それにしても、人が皆罪人であることをよくよくご存知であるはずの神さまが、どうして、ここまで人間の命を守ろうとするのか。何故、こんなにも熱心に人命尊重を教え、そのためのご配慮に心砕いてくださるのでしょうか。
 その理由を聞いて、驚かされます。何と、その訳は「神は人を神のかたちにお造りになったから。」でした。
 神に創造された美しい世界を、暴虐に満ちた暗黒の世界にしてしまったのは人間だったはずです。神に特別に愛され、創造された者であるのに、神信仰を捨て、ついには大洪水の審判を下されるほど救いがたい、酷い存在となってしまったのは人間だったはずです。
 それなのに、そんな人間の命を「もう尊くなどない。」と地上から絶ってしまうどころか、この期に及んでも「あなたはわたしのかたちに創造された者、人格的存在だから、本当に尊い。わたしはあなたの命を本気で守り、尊ぶ。」と語ってくださる神さま。
 今日、私たちはこの神さまにとって、自分がいかなる存在であるかに気がつきたいのです。救いがたい罪を持つ者。どこまでも自己中心の病が治らぬ者。神にさばかれて、しかるべき者。神に愛される価値など、ひとつももっていない者。
 しかし、こんな者に向かって、「いや、あなたこそがわたしにとって限りなく尊い存在なのだ」と、熱心に語りかけてくださる神さまのみ声。そのみ声を心でしっかりと受けとめて、日々歩む者となりたいのです。

 イザヤ43:4「わたしの眼には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 最後に考えたいのは、人間の地上の命、肉体の命をこれ程尊び、重んじ、これを守るため、心砕いてくださった神さまが、私たちの霊の命のためには何をしてくださったか、と言うことです。
 もう、お分かりでしょう。この神が肉体を取って、人間のひとりとなり、救い主キリストとして地上に来られたのです。
 そして、何と殺人者のために定められた死刑、それも史上最悪の死刑といわれる十字架に、私たちの罪をすべて背負って上り、その死によって信じる者の罪を赦し、地上の命どころか永遠の命を確保してくださったのです。
 こんな罪人の肉体の命ばかりか、霊の命も守りたもう神。地上の命ばかりか永遠の命をも確保してくださる神。十字架の死という尊い犠牲を払ってまでも、それを成し遂げてくださった神。ご自分を死なしめ、罪人を生かそうとする救い主の神。
 このお方こそ真に人命尊重の神であることを覚えたい。この神こそ私たちが身も心もささげ、信頼できるお方。従い行くべき主。そう心に覚えて、新しい週の歩みに進みゆきたく思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師