2011年8月7日
礼拝メッセージ


「愛を実践する(2)」
−キリストがされたように−
  聖書
ヨハネの福音書13章34,35節

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」


  メッセージ
 もし四日市キリスト教会で旗を作るとしたら、皆さまはどのようなマークが良いと思うでしょうか。一般的に旗印というのは、それに所属する者たちにとって、自分たちがどのような存在なのか確認し、外の者が見る時には、あの集団はどのような集団か分かるために使われます。もし四日市キリスト教会で旗を作るとしたら、私たちがどのような存在なのか人目で分かるものが良い。どのような旗が良いでしょうか。
 少し前から日本では歴史ブームと言われているそうです。大人向けの歴史に関する本がよく売れ、歴史モノのドラマもよく見られている。歴女と呼ばれる、歴史に強い女性が増えているそうです。皆様の中にも、歴史ブームに乗って、ここ数年で歴史に強くなった方はいるでしょうか。
 説教開始早々、余談となりますが、いくつか旗の画像を用意しました。前のスクリーンをご覧ください。最初の旗は「風林火山」の旗※1です。「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵略(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」と、戦争時における軍隊の動かし方を旗にしたものです。戦上手として有名な武田信玄の旗としてよく知られていますが、日本でこの旗を最初に使っていたのは、武田信玄より200年前、北畠顕家と言われています。
 次の旗、これは誰の旗かお分かりになりますでしょうか※2。これは、真田幸村で有名な真田家のもの。六文銭の旗です。この旗の意味について、色々な説がありますが一つには、当時人が死んだ後、行く先と思われた三途の川。その三途の川を渡るための船賃が六文銭であり、戦争時にこの旗を振るというのは死を恐れないことを表すもの。そのため、敵軍からすれば、この旗は恐怖の対象であったそうです。
 もう一つ。この記しはご存知でしょうか※3。ギリシャ語「キーとロー」で作られた記しです。ローマ皇帝で初めてクリスチャンとなったコンスタンティヌス1世が自軍で用い始めたそうです。ギリシャ語でキリストと書くと、最初の二文字が「キーとロー」となり、これはキリストを指す記しでした。現在、辻まき子姉や立石翼兄が学んでいます東京基督教大学の中庭は一面芝生ですが、そこにレンガで道が敷かれていて、それを上空から見るとこの形になっています。
 様々な旗がありますが、それを作る際には、色々なことを考え、願いを込めて作るものでしょう。もし四日市キリスト教会の旗を作るとしたら、果たしてどのようは旗が良いか。
 もし作るとしても、具体的なデザインは、私は全く思い浮かばないのですが、その旗に込めるメッセージは「愛」が良いと思います。何故か。キリストがこのように言っているからです。

 ヨハネ13章34節〜35節
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 十字架にかかる直前、キリストが弟子たちに残した言葉の一部分。イエス様が弟子たちに求めたことは「互いに愛し合う」ことでした。そして、もし互いに愛し合うことが起こるなら、それによって他の人たちが「あの人たちは確かにキリストの弟子だ」と認めるというのです。キリストの弟子であることの第一の証は、互いに愛し合う者であるというのです。このようなわけで、もし旗を作るとしたら、込めるべきメッセージは「愛」ではないかと思うのです。
 旗を作るかどうかはともかくとしまして、キリスト教の中心は「愛する」ということ。「愛」とは何かを聖書から考え、追求していくのがキリストを信じる者の生き方です。私たちは「愛」とは何かをどれだけ考えてきたでしょうか。どれだけ追求し、どれだけ実践しようと取り組んできたでしょうか。
 自分のことを省みる時に、取り組むことが出来ていないことに恥ずかしくなるのですが、だからこそ、今一度「愛する」とは何かを聖書から考えていきたいと願っています。
 「愛する」とは何か。これは色々な側面から考えることが出来ますが、一つ考えたいのは、愛するとは思うことなのか。それとも行動することなのか。どちらなのか、ということです。思いか、行動か。その人をとても大切に思いながらも、その人のために指一本動かすことをしない。これは愛することなのか。逆に、その人のためならば何でもするが、心から憎んでいる場合、それは愛することなのか。いかがでしょうか。愛するとは、思うことなのか、行動することなのか、どちらでしょうか。
 お分かりだと思います。答えは両方です。行動のともなわない愛とか、思いのともなわない愛というのは、真の愛ではないのです。「愛する」というのは、思いにおいても、行動においても愛するということ。
 これは頭では分かるのですが、自分の生活を振り返ると、いがいと出来ていないことに気が付きます。家族を心から大切にしていると思いながらも、家族との時間を持たない夫、父。食事を作り、洗濯はするけど、思いが薄れている妻、母。そのような側面が、私たちのうちにないでしょうか。
 私たちは、思いにおいても、行動においても、「愛する」ことに取り組む必要があります。しかし、それではどのように取り組んだら良いのでしょうか。今日は、この二つの側面で考えていきたいと思います。まずは思いにおいて愛することから。
 私たちは愛すべき人を思いにおいて愛するために、どうしたら良いでしょうか。以前に夫婦で牧師をしている、その女性の牧師に質問したことがあります。孫もいる年齢。大ベテランの夫婦、大ベテランの牧師に、「先生、思いにおいてご主人を愛するために、何をしていますか。」とです。答えは、「朝、お祈りする」というものです。毎朝、「神様、夫を愛する思いを下さい。」と祈るのだそうです。「そうでないと、とてもじゃないけれど、愛せません。」と言われていました。大変、励まされる言葉。何十年と夫婦、それも夫婦で牧師をしてきた人でも、毎朝祈らないととてもじゃないけれども愛せない。妻を愛せないことがあっても、おかしいことじゃないとホッとするのです。しかし、そのような答えに対して、私は恐る恐る再度質問しました。「先生、それでどれ位の間、ご主人を愛せるのでしょうか。」と。すると、「昼までも、もたないです。」との答え。これには大笑いしながらも、ますます励まされました。
 一般的に言って、私たちには夫や妻、親や子を愛する愛。友人を愛する愛があります。しかし、聖書が教える愛。無条件に、その存在を愛する愛が私たちにあるのか。夫と妻の関係で言えば、キリストに従うように夫に従う愛とか、命を捨てるほどに妻を愛する愛というのは、私たちにあるのかといえば、ないのです。神様に頂くしかない。毎朝求め、昼になくなれば、またその都度祈っていく。思いにおいて愛するのに、とても大切なことは絶えず神様に求めていくということでした。

 詩篇81篇10節b
あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

 神様が私たちに恵みを注ごうと言われている箇所。それも大きく口をあけよ。大きく求めよ、と言われている箇所。この言葉に励まされて、「神様、愛を下さい。」と祈る者になりたい。霊の口を大きくあけて、「神様、めいいっぱい愛を下さい。」と祈り続ける者でありたいと思います。
 さて、思いにおいて愛するために、私たちは神様に愛を求め続けます。それでは、行動において愛するために、私たちは何に取り組んだら良いのでしょうか。
 私が大学生の時、教会のある青年から次のような相談を受けました。その青年は教会のある方から、傷つけられたというのです。そのため、教会であの人の顔を見たくない。一緒に礼拝したくない、という話でした。しかし、しばらくして、相手が悪いとしか考えていなかったけれども、赦せない自分が悪い。赦せるように、愛せるようにお祈りすると、その青年から言ってきたのです。素晴らしいこと。一件落着と思うところ。しかし、更にしばらくして、もう一度相談があったのです。一週間、その人を愛せるように祈ってくる。愛したい気持ちがある。しかし、その人を前にすると、どうしたら良いのか分からない、という話でした。今日の説教の流れに合わせて言うと、思いにおいて愛するための取り組みは十分したのです。しかし、行動において愛するには、どうしたら良いのか分からないという悩みなのです。皆様でしたら、どのように答えるでしょうか。
 行動において愛するとは何か。何をすることが行動において愛することなのか。
 韓国の先生で、孫良源という牧師がいました。朝鮮戦争の時代に、自分の息子二人が、意味もなく殺されます。その後、戦局が変わり、息子二人を殺した者が捕まり、死刑にされそうな時。この先生は、息子二人を殺した者の赦免を求め、更には自分の養子にします。自分の息子を殺した者、その死刑の撤回を願い、更には愛を示すために養子にしてしまう。敵を愛するということを、具体的な行動を持って行った例の一つです。そのようなことから、愛の原子爆弾と呼ばれる先生です。
 このようなことも、行動において愛することの一つでしょう。我が子を殺す者を愛し養子にするとは、まさに父なる神が私たちにしてくださったことで、強烈に神の愛を示すものです。しかし、行動において愛するという時に、このようなことしか思い出せないとしたら、普段の生活の中で、どのようにすることが行動において愛することなのかよく分からなくなります。毎日の生活の中で、行動において愛するというのは、どういうことなのか。
 その指針となる聖書の言葉が、今日の聖書の箇所です。

 ヨハネ13章34節
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 イエス様はここで「新しい戒めを与えましょう。」と言われました。そして「互いに愛し合いなさい。」と言うのです。しかし、「互いに愛し合いなさい」というのは、別段、新しい戒めではありません。聖書全体を通して、何度も教えられている命令です。
 では何が新しいのか。それは、この「互いに愛し合いなさい。」という言葉の続きに出てきます。「わたしがあなたがたを愛したように」です。イエス・キリストが弟子たちを愛したように、「互いに愛する」ということが言われているのです。行動において愛するとは何かと言われれば、それはキリストが弟子たちとしたこと、弟子たちにしたことを調べれば、分かるということです。
 イエス様は弟子たちと何をしたのか。そのような視点で、聖書を読んだことがあるでしょうか。キリストが弟子たちとしたように、私たちは互いに愛し合う。そのために、キリストが弟子たちとしたことを調べてみる。そのように聖書を読むことも、大切なことでした。
 キリストが弟子たちと何をしたのか。それを調べるために、聖書のどこを見るのかと言えば、四つの福音書。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つが中心です。この視点で福音書を読むことをお勧めいたします。
 さて、皆でそのように聖書を読むことは、これからの取り組みとしまして、今日は三つの箇所から、キリストが弟子たちとしたこと。その具体的なことを確認したいと思います。(今日は三つ上げますが、他にもいくらでも上げることが出来ます。)
 まずは一つ目。この箇所で、イエス様は弟子たちと何をしているでしょうか。

 マタイ9章9節〜11節
イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』

 皆様。ここでキリストは弟子たちと何をしているでしょうか。簡単です。「共に食事をする」でした。行動において愛することの一つは、「共に食事をする」こと。日常的なこと、簡単なこと。
 これは十二弟子のマタイがキリストの弟子となる場面です。当時、その職務に就くだけで十分批難の的となる取税人をしていたマタイ。そのマタイがキリストの弟子となり、自分の家にキリストを招待して、食事会をします。この時、マタイの友人たちでしょう、多くの罪人や取税人が来たと言います。これに顔をしかめたのが、当時の宗教的エリート、パリサイ人たちです。イエス様の弟子をつかまえて「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのか」と詰問するのです。
 この背景にある考え方は、ユダヤ人にとって食事を共にするというのは、新愛の表れというものです。共に食事をするというのは、愛することの表現。そのため、パリサイ人のような宗教的エリートは、罪人とされる人たちとは食事をともにしませんでした。そして、だからこそ、イエス様は罪人や取税人たちと食事をしたのです。
 今の私たちに、共に食事をすることが、愛の実践だという感覚がどれだけあるでしょうか。食事は体を養うためのもの。エネルギー補給のためのものという感覚はないでしょうか。勿論、そのような意味もありますが、それ以上に「共に食事をする」というのは愛を実践するためのもの。マルタの会の働きは、実は「愛を実践する場」を提供する、非常に重要な働きでした。教会においても、家庭おいても、その他いかなるところでも、ただ食べるのではなく、愛を実践する意識をもって食事をする者でありたいと思います。
 キリストが弟子たちとしたこと。確認したい二つ目の箇所は、

 ルカ24章13節〜15節
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 ここでキリストは弟子たちと何をしているでしょうか。これも簡単です。「共に歩く」ということです。行動において愛するというのは「共に歩く」こと。これも日常的、簡単に出来ることです。
 しかし、私たちは「愛を実践する」意識を持って、「共に歩く」ことがどれだけあるでしょうか。歩くというのを移動手段として考えるのではなく、愛するために共に歩く。愛を実践する一つのことは「共に歩く」ことです。
 もし可能であれば、今日の午後、家に帰る前に、是非教会の仲間とこの近くを散歩して下さい。愛を実践するためにです。もし難しければ、この一週間で、家族、友人、自分の愛したい人と、共に歩く時間を持って下さい。
 キリストが弟子たちとしたこと。確認したい三つ目の箇所は、今日何回も見てきた箇所。

 ヨハネ13章34節
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 ここでイエス様は弟子たちに何をしているでしょうか。ここは少し難しい。イエス様はここで弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように」と言っています。「あなたがたを愛した」と。つまり、「愛していると言う」ということです。今日覚えたい、愛の実践の一つは「愛していると言う」こと。
 私たちは日常生活の中で、どれ位、「愛している」ということを、言葉をもって伝えているでしょうか。一般的に、日本の文化圏で「愛している」ということを言葉で伝えるのは、恥ずかしこと。不慣れなことのように感じます。しかし、私たちクリスチャン、キリストが弟子たちにしたように、互いに愛し合うということを意識して、教会の仲間、家族、友人に「愛している」と言葉で伝えていきたいと思います。
 以上、思いにおいて愛すること、行動において愛することの二つの側面で、愛を実践することを考えてきました。神様に愛を下さいと願い続けること。そして、キリストが弟子たちとしたことを模範として、行動において愛すること。私たち一同で、愛を実践することに取り組みたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師