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メッセージ
東日本大震災から数えて半年。この出来事については様々な見方があり、様々な取り組みがなされてきました。
未曾有の天災、天災というより人災、国と地方の役割、防災対策、これからのエネルギー政策、人と人の本当の繋がり等等。今なお課題は山積しています。
しかし、今日私たちが考えたいのは、聖書から見たこの出来事の意味、特に神さまの救いのご計画という点からすると、この震災は何を教えるものなのかということです。
私たちが信じる神は天地創造の神、この世界に起こるすべての出来事をご支配される、生ける神です。そうだとすれば、神さまはこの出来事により、私たち教会に何を示し、何を期待されているのか。聖書に耳を傾ける必要があるように思います。
今日はその一助になればと願い、イエス様が世の終わりについて預言された箇所、ある人々はここを「イエス・キリストによる黙示録」と呼びますが、マルコの福音書13章を皆様とともに読み進めたいと考えています。
さて、紀元三十年の春のこと。ユダヤの都エルサレムにある宮、神殿で人々を教えたイエス様が外に足を踏み出したその瞬間、弟子の一人が神殿の建物を振り返ると、その見事な様をほめたたえました。
13:1「イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
当時のエルサレム神殿、ユダヤの人々が礼拝をささげた場所は、ヘロデ王が自分の威信を示すため、人々の目を引くモリヤ山の頂上に、贅を尽くして建てたもの。イエス様が弟子たちとここにおられた時、既に建築開始から46年も経っていたのに、未だ完成してはいなかった、しかし実に壮麗な宮でした。特に、壁も柱も美しい大理石からなっている様子は、観る者の心を圧倒したと言われます。
私はまだ行ったことも、見たこともありませんが、東京の永田町にある国会議事堂もまた、日本各地から集められた見事な石から造られていました。特に、中央広場にある巨大な柱は、トラバーチンと呼ばれる、沖縄石垣島産の珊瑚石灰石一塊から切り出されており、その美しさは一際人目を引くものだそうです。
イエス様のお弟子さんたちの多くは、ガリラヤの出身で、いわば田舎者。その田舎者が都登りで、神殿に入り、せっかくのイエス様による大切な教えもそっちのけ、思わず口にしたのが、この礼賛のことばでした。「…先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
イエス様はこの都で、人々の手により十字架に死ぬことになると、既に預言されていたのに、それを忘れたかのような、のんびりとしたことばです。どこか観光客のような、国で一番有名な建築物を見物することにうつつをぬかしている人のような、のどかなことばと聞こえます。
しかし、そんな弟子たちの気分は、続くイエス様の一言で、叩き潰されました。ユダヤ人が誇る神殿は滅びる。神による審判の予告が下ったのです。
13:2「すると、イエスは彼に言われた。この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
事実、神に背き、救い主イエス・キリストを拒んだ都エルサレムは、やがて戦争に巻き込まれ、壊滅しました。勿論、見る人すべてがほめたたえた神殿も、ローマ軍の戦火にさらされ、石という石は崩れ果てました。紀元70年、イエス様の予告から40年後の出来事です。
聖書が教える罪、私たち人間が心に宿す罪のひとつの特徴は、神に信頼せず、自分たちの手が作りあげたものに信頼する、ということです。
巨大で、堅固で、美しく、永遠にそこに立っているかに見えたユダヤの神殿は、その頃の文明の華、文化の代表だったでしょう。ユダヤ人はこれにより頼み、弟子たちもこれを誇りました。
今日の私たちだってそうです。ニューヨークの摩天楼。上海や東京の巨大ビル群。どこの国の人々も、自分たちが作り上げた物を誇り、頼みとし、それが永遠に続くものであるかのように考えている。
「どうです。私たちの文明の華やかさ、物凄さは」と、競い合って、この世界を創造した神の存在と、神さまの目が私たちの心に、私たちの心に神への信頼があるかどうかに注がれていることを忘れてはいないでしょうか。
さて、イエス様の口から飛び出した予告に青くなった弟子たちは、道を歩きながらも、それがとても気にかかっていたのでしょう。オリーブ山に到着すると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにアンデレ、四人を代表に立てて、「その前にどんなしるしが起こるのか」と、質問をします。
13:3,4「イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。『お話ください。いつ、そういうことが起こるのでしょうか。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。』」
神殿を誇りとし、神に信頼しようとしなかった人々。自分たちには、罪を贖う救い主等必要なしと、イエス・キリストを拒んだ人々。神殿壊滅は、そうした不信仰な人間たちに対する神の審判だと、おぼろげながら弟子たちにも理解できたようです。
しかし、「本当にそんなことが起こるのなら、それはいつか、どんな前兆があるのか。」というのが彼らの質問でした。
それに対するイエス様の答えは、やがて起こるエルサレム滅亡にとどまらず、世界全体の終わり、終末の様相を映し出しています。
13:5「そこで、イエスは彼らに話し始められた。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大勢あらわれ、私こそそれだ。と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることだからです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは産みの苦しみの初めです。」
「自分こそ本当の救い主だ」と名乗って、人々を惑わす宗教家の出現。戦争に紛争。地震にききん。耳も震えるような災いの予告でした。
今は21世紀ですが、さきの19世紀は楽天的な時代でした。世界はますますよくなってゆく、進歩してゆくという空気でした。文明はいよいよ発展して、人間の力によって、地上に天国を築けるとする、ユートピアを夢見る時代でした。
しかし、続いた20世紀は、二度の世界大戦。恐ろしい核爆弾。冷戦に地域紛争、宗教戦争。自然破壊による砂漠化、終わることのない飢饉。そんな20世紀が過ぎた今は、悲観的、色々な面で崩壊の予感がみなぎっています。そこに、ここの所相次いだ大規模な地震。
宗教の堕落、絶え間なき戦い。そして人の罪は自然の世界にも及ぶ、と言う恐ろしさでした。人類ののどかな夢は打ち消された、と言う気がします。
しかし、私たちクリスチャンは、イエス様が「こうしたことが起こっても、あわててはいけない」と教えられた通り、人間の救いがたい罪、根本悪をよくよくわきまえており、地上に天国が出現する等という夢を見ることはありません。やがて、地上の罪の有様は神にさばかれる、と覚悟しています。
と同時に、「これらのことは産みの苦しみの初めです。」と教えてくださったイエス様のことばに希望を置く者です。世の人々が様々な災いに苦しみ、悩み、「もう世界も終わりだ」とする時、「いや、これは終わりではない。むしろ、神さまが新しい世界、義と平和と愛に満ちた、本当の天国を産み出してくださる前の、産みの苦しみなのだ。だから、神さまに帰り、神に信頼せよ。」と、呼びかける者でなければならないでしょう。
ですから、次にイエス様は、この世がどんなに酷い状態になっても、あなたがたクリスチャンは、罪人のために人となり、十字架に死なれた神の愛、この愛の福音を伝える者たれ、と励ますのです。
13:9,10「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引渡し、また、あなたがたは会堂で鞭打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音が先ずあらゆる民族に対して宣べ伝えられねばなりません。」
議会や総督や王たち、つまりこの地上であなたがたを迫害する人々の前に立たされることは、福音を伝えるチャンス、そこは伝道集会の場所ですよ、と語るイエス様。教会が、私たちクリスチャンがこの世界に生かされていることの目的、その大切な意味は、神の愛を知らない人々に、福音を伝えることと、強く強く教えられるところです。
さて、今日の箇所から、私たち覚えたい事が三つあります。
ひとつは、私たち自身が神に愛され、罪からの救い、尊い救いに預かった者であることを喜び、自覚して生きる、ということです。
福島第一聖書バプテスト教会という教会を皆様はご存知でしょうか。あの福島第一原子力発電所のすぐ近くにあり、教会員全員が被災し、今なおそこに戻ることの出来ない状態にあります。
その教会の牧師である佐藤彰先生が、ある日避難所から避難所へ救援物資を届ける働きをしていた時のことです。突如自分の心が耐えられなくなり、思わず避難所から飛び出してしまったそうです。その時、自分の心がいかに深い傷を負っているかを知り、自分が溺れていながら、他の溺れている人を助けることは出来ないと感じたそうです。
「神のみが、私たち人間を救い、助け出すことがおできになります。そのひとり子であるイエスを、私たちの世界にお送りくださったほどに私たちを愛しておられる神。イエスは滅び行く人間の罪を十字架で赦し、救い出すためにこられました。この救い主を心にお迎えすることなく、痛み悲しむ人々を助けることは、自分には出来ない。」そう、佐藤先生は書いておられます。
ふたつ目は、苦しみ悩む人々のことを大切に思い、愛の行いに励む、ということです。私たちの教会は、大震災以来何度か被災地の方々の為の支援活動を行ってきました。最初は救援物資を届けること。次は、現地でボランティア活動をすること。
福島県いわき市に5回行き、7月には宮城県石巻市に行くことができました。いわき市にある平キリスト教会のグローバルミッションは、市によって正式なボランティア団体として認定されており、様々なボランティア団体がある中、いわき市の被災者の方々に「最も熱心なボランティア」という評価を得ています。
また、石巻市で支援活動を続ける「ヘルプ東北」というグループは、被災者の方々との信頼関係を築くことを大切にし、将来は津波で被災した家を建て直して、そこを地元の人々が集う教会にしたいとのビジョンを抱いています。
イエス様は、空腹な者に食べるものを与え、渇く者に飲ませ、旅人に宿を提供し、裸の人に着る物を与え、病気の者を見舞うなら、その人はわたしがもたらす天国を継ぐと、約束されました。私たちがなす愛の行いは、たとえそれがどんなに小さなものであろうとも永遠の価値がある、というのです。
この世の罪の有様はすべて滅びても、イエスの愛をもってなす行い、奉仕は永遠に廃れることなく、神さまに愛でられ、報いていただけるものでした。神のさばきが近いことを示す前兆がある今こそ、私たち永遠に価値あることのために、力を尽くしたいと思わされるのです。
三つ目は、福音を伝えることです。福島県いわき市の平キリスト教会は、教会の一回部分を開放し、被災者の方々の為の喫茶コーナーを設けています。そのお隣には、全国から集まった生活支援物資の倉庫があり、希望者にはそれを分けていました。
私が喫茶コーナーの奉仕をさせて頂いた時、多くの地元の方がやって来たのに驚きました。原発地区から着のみ着のまま避難してきた人々、仮設住宅に移ったものの、仕事を失い生活に苦しむ人々、車を流され、移動手段がないので自転車を求める人々。それらの人々にとっては、一台の古ぼけた自転車が、一枚の服が、一袋の味噌や一瓶の醤油がいかに貴重か、よく分かりました。
そして、彼らの多くが喫茶コーナーによって話をしてゆきます。家族を失った悲しみ、将来の不安、避難所の中での人間関係の難しさ等等、話は尽きません。
私は人々と交わりながら、「本当にこの人たちには福音が必要だ。是非とも、神の愛を知って欲しい。やがて生活環境が整ってゆくとしても、将来に確かな希望をもって生きるためには、この罪の世をきよめ、全く新しくしてくださる神さまを知ってもらわなければ。」そういう思いを抑えることが出来ませんでした。
幸いなことに、この喫茶コーナーを通じて、福音を聞き、教会の礼拝に出席する人も与えられているとのことです。
私たちはこの世で夫々の責任ある仕事にあずかっています。その仕事に忠実に励むこと、これも神の前に果たすべき大切なわざです。
けれども、私たちクリスチャンの最大の仕事と栄誉は何でしょうか。それは、神を礼拝し、未だ神を知らぬ人の魂を救いへと導くことでしょう。そして、礼拝は天国においてもこれをなすとして、魂の救いのための福音のあかしは今この地上でしか出来ないこと、今この地上でなすべき緊急の使命であることを覚えたいのです。
この大震災をきっかけとして、いつの間にか薄れていた、自分はこんなにも尊い救いに預かっているのだという喜びと自覚がよみがえるように、自分のためにのみ使う事に向いていた心と体を、苦しみ人々のためにささげられるように、忙しさを口実に、いつしか後回しにしていた救霊への思いを新たにすることが出来たら、と思うのです。
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