2011年9月18日
礼拝メッセージ


「私たちを背負って、救い出す神」
  聖書
イザヤ書46章1〜8節

46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
46:5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
46:6 袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。
46:7 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。
46:8 このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。


  メッセージ
 老いということについて、ギリシャ神話にこんなお話があります。
 曙の女神オーロラがティトノスという若者に恋をしました。ティトノスはハンサムで優雅な男性。一目惚れの姫はゼウスの神に、ティトノスの不死、死なないことを願って、聞き入れられ、地の果ての国で楽しい生活を送ります。
 ところが、ある日、オーロラ姫は愛する人の頭が白髪だらけになり、体のあちこちに老化現象が現れているのを発見し、愕然としました。そこで、彼女は、自分が恋人のために不死を願っても、不老、老いないこと求めるのを忘れていたことに気がついたのです。
 体を動かすことも、手足を上げることもままならず、ただ愚痴を繰り返すばかりのティトノス。昨日までの優雅な姿とは似ても似つかない姿をさらすティトノス。こんな状態でいつまでも生きられたらたまらないと感じたオーロラ姫は、彼を奥の部屋に閉じ込め、その扉を二度と開くことはなかった、というお話です。
 この何とも身勝手なオーロラ姫のお話。それは、私たち人間が昔から、いかに老いることを嫌がり、恐れ、遠ざけようとしてきたかを、物語っているように思われます。
 それに対して聖書は、真の神を知るなら老いてもなお幸いな人生を送れることを教え、老人を遠ざけるのではなく、尊ぶことを勧めてやみません。老人には、最後まで神に信頼して生きるように、若者には老人を敬うよう命じているのです。
 さて、今日の箇所に出てくるベルとかネボというのは、昔イスラエルの多くの人々が捕え移され、住んでいたバビロンという国の神々でした。ベルは太陽の神とされ、日本で言えば伊勢神宮の天照大神。ネボとは学問の神であり、日本では天神様という所でしょうか。
 当時バビロンは隣の国ペルシャとの戦いに敗れました。その為、バビロン軍はベルとネボという大きくて重い偶像を獣や家畜の背に載せて逃げなければなりませんでした。しかし、バビロンの神々、聖書に言う偶像たちは、このような危機に際して全く無力な存在。人々を救うことは勿論、自ら動くことすらできず、疲れ果てた人々の重荷となっていたのです。

 46:1,2「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなってゆく。」

 それに対して、聖書の神、天地万物の造り主なる神さまはご自身の民を背負い、運び続け、救い出すお方だと宣言しておられます。

 46:3,4「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

 人間を奴隷となして、人間に運ばれる神、人間に背負ってもらう神ではなく、むしろ人間のしもべとなり、愛する者を背負い、運んで助けてくださる神こそ、私たちの信じる神ではないかと教えられるところです。
 私も子どもの頃、母に背負われた記憶があります。昔のことなので断片的ですが、背負われた時に感じていた安心感は今でも思い出すことができます。母に背負われながら、幼い私は安心して泣き、眠り、むずがり、手足をばたばたさせていました。
 母は私を背負いながら、ご飯を炊き、洗濯をしで、大忙し。背負われた子どもの私は大安心。背負う母親と背負われる子ども。これは、神さまと私たちとの関係の縮図でしょう。
 神さまは胎内にいる時から私たちを背負ってくださり、私たちが年老いても、優しい母のように、その背中を差し出してくださる。あなたは、人の重荷となるだけの偶像の神を頼っているのか、それとも、人生の初めにも終わりにも、変わることなく私たちを愛し、仕え、背負ってくださる神を信じるのか。そう問われるところです。
 また、神は私たちを背負い、運び続けるだけでなく、「救い出そう」と約束しておられました。464の最後には「・・・わたしは背負って、救い出そう。」とあります。
 「救い出す」とはどういうことでしょうか。それは、神さまが責任をもって、私たちのため救いのみわざを完成するという宣言です。母のように優しく、父のように力に富む神さまが確実に、ご自身の祝福を、私たちのこの眼に見せてくださり、経験させてくださるという約束でした。
 子どもたちがまだ小さい頃、よく家族で山に登りました。一度背中に「しょいっこ」をつけ、それに子ども入れ、背負って登ったことがあります。その時子どもの体重がどれ位であったかは思い出せませんが、それを背負って登り続けるのは、思っていた以上に大変でした。
 最後は体がふらふらになりました。
 しかし、頂上について子どもと一緒にすばらしい景色を見ることができた時の喜びは、何物にも代え難いものだったのです。私自身が心からすばらしいと思う、山頂からの景色を子どもに見せたい。それが私の願いだったからです。
 神さまが私たちを背負い続けてくださるのも、同じ思いからでした。私たちをキリストに似た者へとつくり変え、天国の祝福へと導くこと、私たちが新しくされた自分と新しくされた世界を見ることができるため、背負い、運び、助けてくださるお方。これが、私たちの神であることを確認したいのです。
 さらに、私たちの神は、金銀で塗り固められた像の神、死せる神ではなく、生きて働き、苦しみ悩む者に答え、救ってくださるお方でした。

 4658「わたしを誰になぞらえ、わたしを誰と並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量るものたちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これに、ひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩に担いで運び、下において立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。」

 人間がその手で造った神と人間を造った神。動くことも、応えることも出来ない死せる神と人間に応え、人間を救うことのできる生ける神。どちらが、信頼できる神か、信頼すべき神か、一目瞭然と思えます。
 そんなこともわきまえず、人の手による偶像をありがたがる人々に対し、「しっかりせよ。わたしがいることを心に思い返せ。」と語る神。そのお心は、どんなに痛んでいた事でしょう。
 東京の巣鴨は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれるほど、老年の婦人に人気のある場所だそうです。その人気の理由のひとつは、これを拝む人の体からとげ、つまり痛みを抜いてくれる、取り去ってくれると評判のとげぬき地蔵がここにあるからでした。
 このとげぬき地蔵。本来なら角ばっていたはずの体の部分が、全部丸くなってしまっているとか。眼の悪い人はお地蔵の眼を、手の痛い人は手を、と言う風に、皆が触っていく。そんな人が余りにも多いので、丸くなってしまったと言われます。そうなると、またその丸い姿が評判を呼んで、人が押し寄せるとのこと。
 昔も今も、動くことも、応えてくれることもない偶像を頼る人はあとをたちません。「しっかりせよ。わたしがいることを心に思い返せ。」と語る、神さまのお声が今も、この日本で聞こえてくるようです。
 以上、人が造り出した偶像の神を頼むことの虚しさと、それに対して、聖書の神が、生涯を通して私たちに仕え、背負い、導き、助けてくださる神、天の御国へと救い出してくださる神、そして私たちの側に生き、おられて、この世の悩み、苦しみに答えてくださる人格的な神であることを確かめてきました。
 次に、覚えたいのは、この神に信頼する人の老年は何と幸いなものか、ということです。死を目前にしながら、「その眼はかすまず、気力が衰えることはなかった。」と記された、旧約聖書の偉人モーセ。老いてなお体も心も充実していたモーセの眼は最後まで、やがて自分が行くことになる約束の地、神の祝福の国へと向いていたことを、私たち忘れてはならないでしょう。
 私たちの教会の50周年記念に来ていただいた、聖路加病院の院長である日野原先生の事も思い出されます。確かあの時、既に90歳を越えておられた日野原先生は、今で現役最前線に立たれ、昼の休みは誰よりも短く、患者の診療、後進の指導にあたり、ビジョンに燃え、コーラスクラブをリードし、本を書くという多忙な毎日。
 駅の階段はかばんを持ちながら、一段飛ばしで登るという、すごい老人。日野原先生も幼い頃から、神を信頼するという一本の線を大切にしてこられた方、モーセ並の霊肉の元気さの持ち主でした。
 さらに、赤ん坊のイエス様を胸に抱きながら、神を賛美し、やすらかに世を去っていった老シメオン。最後まで宮を離れず、祈りによって神と人とに仕えた老女アンナなど、皆見事な老年を迎えています。
 そのような中、今日特に耳を傾けたいのは、最後の最後まで神の福音に仕えたパウロの告白です。

 Uテモテ47,8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それをわたしに授けてくださるのです。私だけでなく、主のあらわれを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 「私は…走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言い切るほどに、この世で神のため、人のため、懸命に生きた歩み。神さまから親しく祝福の冠をいただけると言う死後の世界での幸いな望み。こんな人生を生きられたら、こんな老年を迎えられたら、と思わされるパウロの姿ではないでしょうか。
 ある婦人からこんなことばを聞きました。「私は、自分のことだけを考えると、一日も早く天国に迎えてもらえたらと願っている。どうして、神さまは天国に早く呼んでくれないのかと思う時もある。しかし、こんな自分を神さまがこの世に生かして置かれるのは、『自分よりも苦しんでいる人、寂しい人のために、あなたがいるのだ。その手と足をそういう人のために使いなさい』ということだと思い、毎日を生きている。」まさに、このことば通りに生きておられる姉妹は私の尊敬の的。クリスチャンとして走るべき道を走っておられる、すばらしい老年だなあ、と感じています。
 最後に、教会に属することの恵みは様々にありますが、そのひとつは、どの教会にも尊敬すべき老人がおられること、それらの兄弟姉妹と愛し、愛される交わりをもてるということでしょう。特に、四日市教会は、赤ん坊から少年、青年、壮年、老年とあらゆる年代層の兄弟姉妹が集められているという、大きな恵みに預かっています。
 聖書において、長寿は神の祝福のあらわれでした。ということは、長寿の兄弟姉妹がたくさんいる四日市教会も神に祝福されている、ということでしょう。だとすれば、敬老は当然のことと言えます。老人を敬うことは神を敬うこと、神を敬うことは老人を敬うことでした。

 レビ1932「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

 「今昔物語」のなかには、こんな仏教のお話があります。昔ある所に「棄老国」という国があり、老人は皆遠くへ棄てることになっていました。ひとりの役人がいて、この人も自分の老父を捨てに行かねばならなくなりましたが、優しい人でそれが出来ず、家に秘密の地下室を造り、そこに老父をかくまいました。
 その頃「棄老国」の王宮に天神が現われ、次々に難題を吹っかけ、もし答えられないなら、国王も国も滅びてしまう、と宣告したのです。困った王様は部下と相談しますが、名案が浮かばない。この役人も相談を受けたので、地下室の父親に聞いてみた所、次々に知恵を出し、難問を突破。国は救われた、と言うお話です。
 たとえば、天神が「この大きな像の重さを量れ。」という難問を出すと、老人は「その象を船に乗せて池に浮かべ、喫水線にしるしをしておく。あとで石を積み、そのせんの所まできたら、一つ一つ石を取り出し、その重さを量って、足したらよい。」と答えます。
 また、格好も毛並みも、まったく見分けがつかない白い馬三頭を連れてくると、「どちらが母馬で、どちらが子馬か。」と天神が問題を出すと、老人はそれを聞いて、「草を与えて食べさせてご覧。母馬は子馬に草を与えるだろう。」と役人に教えた、ともあります。
 老人の賜物のひとつは、その長い人生経験による知恵の広さでしょう。若い世代は、老聖徒の方々の経験と知恵に聞き、自らを振り返ったり、励ましを受けたりする必要があると思います。
 ソロモンの子レハブアムは、老人、老臣を遠ざけ、自分と同世代の若者のことばだけを聞いたために、政治をあやまり、ついに国の分裂を招いてしまった、と聖書にあります。
 私たちの教会は、レハブアムの道を行かないようにしたい、若い兄弟姉妹は、老聖徒を敬い、その経験に教えられ、恵まれる。老聖徒の兄弟姉妹は、若い世代に尊い経験を証し、よく親しみ、よく交わる。そんな教会を目指したく思うのです。
 ここで、もう一度、私たちを愛し、仕える余り、ついに人となり、私たちの罪を背負って、十字架に登り、その死によって尊い救いをくださった神の約束の言葉を読んで見ましょう。今日の聖句です。

 46:3,4「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師