2011年9月25日
礼拝メッセージ


「愛を実践する(3)」
−神の愛が私たちのうちに−
  聖書
ヨハネの手紙第一 4章9〜12節

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。


  メッセージ
 イエス・キリストには多くの弟子がいましたが、中でも中心的な弟子たちが十二人いました。十二弟子、使徒たちです。聖書を開きますと、この十二人は多種多様。異なる立場、異なる思想、様々な人たちが、キリストのもとに集まっていたことが分かります。
 それはそれとしまして、この十二人の中に、あまりの気性の荒さのため、キリストから「ボアネルゲ、雷の子」とあだ名を付けられた兄弟がいるのをご存知でしょうか。ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの兄弟です。ユダヤの表現で、ある人の性格を強調する時には、「なになにの子」と呼ぶことがあります。慰めに満ちた人であれば、慰めの子。つまり雷の子というのは、非常に気性が激しい、激しやすい人物だったということです。

 マルコ3章17節
ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

 兄弟揃ってボアネルゲ。口より先に手が出るタイプ。理性よりも感情が勝るタイプ。衝動的な人。勝手な想像が許されるならば、幼い時から喧嘩のたえない兄弟だったでしょうか。簡単に激するため、一緒にいたくないような人たちだったかもしれません。
 具体的に、どれほど気性が激しかったのか。聖書に一つのエピソードが記されています。キリストと弟子たちがエルサレムに向かう途中、サマリヤ人の町に寄ろうとしたところ、サマリヤ人が受け入れなかった時のこと。ボアネルゲの二人、ヤコブとヨハネが激しく怒るのです。

 ルカ9章53節b〜55節
サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』

 私たち一行を受け入れないとは、なんたる無礼。これは懲らしめないといけない。預言者エリヤが祈った時、天から火が降ってきたではないか。「主よ。ここは私たちが祈り、天よりの火で彼らを滅ぼすのが良いでしょう。」と言ったのです。さすがはボアネルゲ。自分たちを受け入れない相手は、焼き滅ぼしたい。それも「私たちが天から火を呼び下して」と、自分が審判者であるかのような態度です。
 このような激しい気性の持ち主でしたが、ヤコブとヨハネは、兄弟揃って十二弟子の中でも特に中心的な人物でした。ところが、キリストの十字架の死と復活、昇天後は、この兄弟に違いがでます。兄ヤコブは、早い時期に迫害により殉教するのです。聖書に記されている範囲で言えば、十二弟子の中で最初の殉教者です。片や弟ヨハネは、十二弟子の中でも最も長く生きたと目される人物。その晩年に、福音書、手紙、黙示録を書く働きをします。
 そして、このヨハネは一般的に「愛の使徒」と呼ばれる人となります。激しやすく、ボアネルゲと呼ばれた人が、愛の使徒と呼ばれるようになる。劇的変化です。キリストに従い続ける者は、生来の気質の欠点をも補ってもらえる。その実例として見ると、私のあの欠点、この欠点も、変えてもらえると期待するのです。
 ところでこのヨハネ、一般的に愛の使徒と呼ばれますが、この呼び名は聖書の中には出てきません。聖書が記された当時、ヨハネのことを「愛の使徒」と呼んでいた人はいなかったかもしれません。ヨハネを愛の使徒と呼ぶのは、ヨハネが記した文章の内容により、後のクリスチャンが呼ぶのです。(蛇足ですが、その人が書いた文章の内容から、パウロは信仰の使徒、ペテロは希望の使徒と呼ばれます。)
 今日は、この「愛の使徒」と呼ばれるヨハネが記したものから、愛するとは何かを、いくつかの視点で考えていきたいと思います。

 Tヨハネ4章9節〜10節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 この世界を創り、支配している神様を知るとき、神様の愛を知ることになります。私たちの命は神様から頂いたもの。命を保つために必要なもの。地球や太陽、空気や水、食べ物。その他あらゆるものも、神様から頂いたもの。命自体も、命を支えるものも神様から頂いたことを知れば、自分が生きていることが、神様の愛の証と言えます。
 また私たちはただ生きているというのではなく、人生の中で様々な恵みを頂いています。趣味、仕事、財産、良い人間関係。様々なもので、私たちは人生を楽しみますが、それらも神様が私たちに下さったもの。私たちの人生には、神様の愛が溢れていると言えます。
 私たちの人生には神様の愛が溢れている。しかし、ここでヨハネは、これこそ愛だということがあるのだと言います。それはイエス・キリストが来られ、私たちにいのちを与えたこと。最も神の愛が現れされたのは、キリストによって私たちにいのちを与えるということだというのです。
 この、キリストによって私たちにいのちが与えられるというのは、どういうことでしょうか。ここで言われている「いのち」とは何でしょうか。何故これが、神様の愛が最も現われているのでしょうか。このテーマを考えるためには、そもそも私たちがどのような存在なのか考える必要があります。
 人間は「神のかたち」につくられた。これは他の被造物にはないこと。人間は特別な存在でした。

 創世記1章27節
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 「神のかたち」につくられた。これは何を意味するのか。色々な意味がありますが、特に神様に対してどのような意味があるのかと言えば、神を愛することが出来る存在という意味です。人間は神様の愛を味わい、喜ぶことが出来る存在。神様の愛に応えて、神様を愛することが出来る存在としてつくられたのです。
 ところが、神様を愛する者としてつくられたはずの人間が、神を愛さないことを選択する。最初の人間、アダムとエバがしたこと。それは、神様との約束を破るというもの。食べてはいけないと言われていた木の実を食べるということでした。具体的にした行為は、木の実を食べるだけ。しかし、その意味は、神様の愛から離れること。つくられた目的から外れること。聖書が教える罪でした。
 その結果、人間がどうなったかと言えば、自己中心的な存在。自分が中心でないと我慢出来ない存在。自分が神であるかのように思う状態となります。人間は神様を愛する存在としてつくられたのに、この時以来、自分を愛するのみの存在となったのです。
 このように、つくられた目的に沿わない人間を、神様はあるべき状態に戻してくれます。つまり、神様を愛することが出来なくなった人間に、神様を愛することが出来るようにして下さる。その方法が、救い主による罪からの解放でした。イエス・キリストを私の救い主と信じる者は、罪から解放される。言葉を換えれば、神のもとから離れた者が、神様のもとに戻ることが出来る。神を愛せない者が、神様を愛することが出来るようになる。神様を愛することが出来るいのち。これがキリストによって与えられるいのちです。
 話しを元に戻しますが、ヨハネがこれこそ神の愛だと言ったのは、神のもとから離れ、神様を愛せない存在となった者を、神様を愛することが出来るようにすること。神様の愛を受け取れるようにすること。神様と愛の関係に入ることが出来るようにすること。これこそ、神様の愛が最も現われるところだというのです。クリスチャンとは、この恵みを頂いている者のこと。神様との愛の関係に入った者のことでした。
 しかし、神様との愛の関係に入る者は、それで終わりではありませんでした。神様との愛の関係は、人を愛することへとつながると言うのです。

 Tヨハネ4章11節
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 ボアネルゲであった者が、神様の愛を徹底的に受けたと自覚しているヨハネ。大先輩ヨハネの必死の勧めです。「良いですか。これほどの愛を受けているのです。神様との愛の関係に入れられたのです。そうだとすれば、神の愛を受けた者同士、私たちは互いに愛し合おうではありませんか。」と。
 いや、ただ勧めるのではない。この少し後のところで、神を愛することと、人を愛することは表裏一体であるとの主張が出てきます。神を愛すると言いながら、人を愛さないということは起こり得ないのだと。

 Tヨハネ4章20節
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 神様を愛するということは、人を愛することとつながりがある。神を愛すると言いながら、隣人を憎むことは起こり得ない。神様を愛することと、隣人を愛することは表裏一体なのです。
 神を愛することと、人を愛することは表裏一体。そうだとすれば、神を愛する者は、人を愛することになる。そして、人を愛する者は、神様からの愛を持っていることを示すことになります。
 人を愛する者は、神様からの愛を持っている。このことを、ヨハネは次のように表現しました。

 Tヨハネ4章12節
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 霊である神様を見ることは出来ません。未だかつて、誰も神様を見た者はいない。しかし、神様と愛の関係に入った者たちが互いに愛し合う時、そのことを通して、確かに神様が示されるのです。人を愛することを通して、見ることの出来ない神様が示されていくのです。
 以上、愛の使徒と呼ばれるヨハネが記した、愛についての箇所を見てきました。今日確認したことをまとめると、こうなると思います。
 私たちは神様から離れたことにより、神を愛せない存在となった。罪人とは、神様を愛せない者のことです。その罪人、私たちのために、神様は救い主を送り、神様を愛するいのちを下さいました。キリストを我が救い主と信じる者は、罪赦されて神様との愛の関係に入るのです。そして、神様との愛の関係に入った者は、それで終わるのではなく、隣人を愛する者となる。真に人を愛する者となるのです。更に言うと、真に人を愛する者たちが、互いに愛し合う時に、神様が示されていく。それによって、まだ神様を知らない人、神様を伝えることになるのです。クリスチャンの歩みは、このような歩みであることを覚え、私たち皆で、この歩みをしていきたいと思います。
 さて、最後に一つのことを考えて終わりにしたいと思います。神様の愛を受けた者は、隣人を愛するようになるということを、今日確認しました。それでは、私たちはどのようにして、隣人を愛していけば良いのでしょうか。具体的に、どのようにして互いに愛し合うことを実践したら良いでしょうか。
 私たちは具体的に、どのように愛を実践したら良いのか。これを考える際、鍵となる聖書の箇所があります。

 ヨハネ13章34節
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 ここに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と出てきます。私たちが具体的に愛を実践する。そのお手本となるのは、イエス様が弟子たちを愛したように、ということです。具体的に愛を実践するとは何かと言われれば、それはキリストが弟子たちとしたこと、弟子たちにしたことを調べれば、分かるということです。
 このような視点で今日は二つの箇所を確認したいと思います。(今日は二つ挙げますが、他にもいくらでも上げることが出来ます。)
 まずは一つ目。この箇所で、イエス様は弟子たちと何をしているでしょうか。

 ヨハネ17章9節
わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

 キリストの十字架直前の場面。(大祭司の祈りと呼ばれるキリストの祈りの言葉が記されている箇所です。)イエス様はここで何をしているでしょうか。答えは簡単です。弟子たちのために祈っている。愛することを、具体的な行動にすると、それは祈ることなのだと教えられます。
 私たちは日々の生活の中で、愛する人のために、どれだけ祈る時間をとっているでしょうか。あの人を愛するための時間として、その人のために神様に祈る時間を持っているでしょうか。
 愛することは祈ること。そうだとすれば、互いに愛し合うというのは、互いに祈り合うことです。今日確認したことに合わせて言うならば、私たちが互いに祈り合う関係を持つのならば、それによって神様を示すことになるのです。私たち皆で、互いに祈り合う関係を築き上げていきたいと思います。
 キリストが弟子たちとしたこと。確認したい二つ目は、

 ルカ24章27節
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 ここでキリストは何をしているでしょうか。これも簡単です。聖書の内容を教えているのです。愛を実践する、その具体的なことの一つは、聖書を教える、聖書を伝えるということです。
 私たちは一週間の生活の中で、聖書の内容を教えること、自分の味わった聖書の恵みを伝えることを、どれだけしているでしょうか。自分で聖書を読んで感じた恵みを伝えること。説教を聞いて教えられたことを分かち合うこと。愛を実践する意識をもって、これらのことに取り組んできたでしょうか。是非、皆で互いに聖書の内容を伝えあう。その恵みを分かち合う関係を築き上げていきたいと思います。
 以上、具体的に愛を実践するとはどういうことかを確認してきました。神様に愛された者として神様を愛する。神様を愛する者として、人を愛する。それも、イエス様が弟子たちを愛したように愛する。そのことに皆で取り組む時、互いに愛し合うことが実践される時、私たちを通して神様が示されていく。このような歩みを私たち皆でしていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師