2011年9月4日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(22)」
−永遠の契約を−
  聖書
創世記9章8〜17節

9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」


  メッセージ
 「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。」と書いたのは清少納言、枕草子の冒頭です。
 私たち日本人は昔から移り変わる四季折々の美しさを感じ、これを愛でてきました。枕草子の場合は、春はあけぼのが良く、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、早朝の様子が良い、としています。特に夏に関して言えば、月の出ている夜、蛍の飛び交う闇、雨の降りしきる夜に趣がある、と清少納言さんは考えていたようです。
 皆様は如何でしょうか。夏を代表する光景と言ったら何を思い浮かべるでしょうか。真っ青な空、白い入道雲、太陽に向かって咲き誇る向日葵、あるいは鈴虫のなく夜が良いと言う方もいるかもしれません。どれも、神さまの手による夏の贈り物。感謝したくなります。
 しかし、もし私の好きな夏の光景は、と聞かれたら、夕立の後空にかかる虹と答えたいと思います。勿論、虹が出るのは夏に限りません。しかし、夏特有の夕立がさっとやみ、黒い雨雲を背景にして輝く七色の虹、その美しさには思わず言葉をのみます。
 虹は英語でRainbow。Rainは雨で、bowは弓、雨の弓という意味になります。聖書においても、エゼキエルという預言者は、大空にかかる虹を神が手にもつ弓になぞらえ、雨や雷をその弓から放たれる矢に見立てていました。地上を襲う雷や雨は、虹という弓を手にした神が勇士として戦い、放つものと言うイメージでしょうか。
 聖書の神は世界の造り主。神は神、自然は自然、二つは何の関係もないではなく、自然を通して造り主の神を身近に感じていた信仰者の様子が伺われ、私たちもこんな感性、こんな信仰を持てたらと願わされます。
 また、皆様ご存知の通り、虹は雨が止み、太陽の光が差してきたからこそ生まれるもの。聖書においては、神が雷雨による攻撃を止め、地上と和解し、平和をもたらすことのしるし、神のご栄光のシンボルでした。
 聖書に聞く世界の初めの歴史。今日お読みした創世記第九章の箇所は、虹と言う自然現象が何故そのような大切な意味、霊的な意味を持つに至ったのかを、私たちに教えてくれところです。
 全地を覆った大洪水。それは「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」(6:11)と聖書が語る史上最低最悪の時代、神が地上に下された審判でした。この有名なノアの大洪水は丸一年かけてようやくおさまり、世界は第二段階に入ります。
 そして、新しい段階に入った世界は、ノアの家族に託されたのです。人間の世界が余りにも罪に染まり、悪に堕ちたため、大洪水という義の審判を下したものの、神はノアの家族八人を残し、大切にこれを守りました。
 そして、彼らを基として、改めて世界を祝福されたのです。わずか八人のノア一家から、全地に人がふえ広がるよう、やり直しを期したのです。

 9:1「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。』」

 「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」思い返せば、これは天地創造の最初の時、神さまが発した人類祝福のお言葉です。あの最初の時、何の罪もなく、美しく、豊かで、平和であった世界は、罪に汚れ、やせて、暴虐に満ちた世界へと変わり果てました。
 しかし、そんな世界であるにもかかわらず、神は創造の時と同じく、人類に対する祝福を送ってくださる。それも全く同じ祝福を、でした。私たちの信じる神は、その祝福において永遠、不変。人間社会がどんなに酷い状態になっても、決して変わらないお方であることを確認したいのです。
 さらに、九章二節以下では、大洪水の後の非常に厳しい環境の中で生きてゆかねばならない人間の命を守るため、神が様々なご配慮を与えてくださったのも、ありがたいことでした。
 野獣たちの攻撃から人の命を守ること、食料の乏しくなった世界ゆえ、植物に加えて動物の肉を食べても良いと許可されたこと、残忍な殺人者から人命を守るための社会的制裁を定めたこと。そのご配慮は実に具体的でした。
 そして今日。ノア一家のため、後に続く人類全体のための、神によるご配慮の第二弾です。

 9:8〜12「神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。『さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』さらに神は仰せられた。『わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。』」

 先に、神は「もはや二度と大洪水で地上を滅ぼすことはない。」と決心されました。それを契約という方法でもう一度確認し、人間たちに安心してもらう。この契約はすべての生き物にも適用して、地上を人間たちだけが暮らす、寂しい世界にはすまい。これが神さまの思いだったでしょう。
 神さまとは、何と優しく、へりくだったお方なのかと思わされるところです。
 普通、契約というのは、契約を結ぶ二者がそれぞれ責任を負うことによって成り立つものです。もし、AさんとBさんが契約を結ぶとすれば、AにはAの責任が、BにはBの責任が課せられ、通常その責任は対等のはずでした。
 それなのに、この場合、神さまの側だけが、一方的に、無条件に、契約を守ることになっているのです。人間に対しては何一つ責任が課されてはいません。つまり、地上が人間の罪のためどんなに酷い状態になったとしても、神は二度と、決して洪水によって地を滅ぼさないと誓い、それを守る責任を負う、と言われるのです。
 まるで、被造物であり、罪人である人間がご自分と対等な相手であるかのように、わざわざ契約を結ばれるという。本当にありがたい、恵みの契約でした。
 この当時、ノア一家の心には大洪水の記憶が、未だ鮮明に残っていたと思われます。そんな状態で、再び天が黒雲で覆われ、豪雨が降り続いたなら、ノアさんたちはどう思ったでしょう。「またも大洪水で地上は滅ぼされるのか。」と不安になったでしょう。
 人間とは弱い者です。いかに、神から「大丈夫、二度と大洪水で滅ぼすことはしない。」と約束してもらっても、それを確認するしるしが欲しい、自分の信仰を支えるしるしが欲しいと願う者です。
 神さまは、そんな私たち人間の心の弱さ、信仰の脆さをよくよくご存知です。ですから、この永遠の契約のしるしのためにと、空にかかる虹を指名されました。

 9:13〜17「『わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。』こうして神はノアに仰せられた。『これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」

 この中で「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」と、神が言われていることに驚かされます。
 よく注意してください。虹が雲の中にある時、契約のことを思い起こすのは人間ではなく、神の責任でした。勿論、神が一度立てた契約を忘れるはずはありません。人間はしょっちゅう忘れますが。
 それなのに、忘れやすい人間が慈しみの神を忘れないように、わざとこんな言い方をしてくださる。子どものことを忘れるはずのない親が子どもに、「お父さんはこれを見たら必ずお前のことを思い出すからね。」と約束しているかのようです。
 洗礼式の水というしるしによって、私たちは自分の罪がキリストによってすべて洗いきよめられたことを確信します。聖餐式のパンとぶどう酒によって、私たちは確かにイエス様の贖いのからだと血とに、自分はあずかっていると信じることができます。
 また、牧師や長老は、任職の際受けた按手礼により、自らの職の重要性を心に銘記しますし、結婚指輪は、神の定めた結婚関係を思い起こさせ、配偶者に対して誠実であるようにと、私たちを自戒せしめるでしょう。目に見えるしるしは、昔も今も私たちに必要なものでした。
 厳しく、困難な世界を生きねばならなかったノア一家。時に、その心が挫けそうになることもあったに違いありません。そんなノアと後に続く子孫である私たち人間のために、大空にかかる虹をしるしとして与えてくださった神。
 大洪水の審判の後も変わることのない人間の罪。ならば、さすがに神も呆れてその慈しみも半分ほどになるのかと思いきや、さにあらず。
 さばかれてしかるべき被造物の人間を対等の相手と見立てて契約を結び、その責任のすべてをご自分が負う神。人間の弱さ、脆さを思い遣って、虹と言う壮大なしるしを与えてくださった神。
 この神の限りない慈しみを、いかにして褒め称えたら良いのか。聖書には、この神への賛美と告白が溢れていますが、今日はダビデのそれを引いておきたく思います。

 詩篇103:8〜14「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎に従って、私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」

 今の今まで、夏の夕立のあとの美しい光景でしかなかった虹。それが、今日のみことばによって、大空に描かれた神の赦しといつくしみのしるしと見えるようになる。
 今日からは、虹を見たら世界の造り主の神を思い、酷い罪に満ちたこの世界を尚も守ってくださる、いつくしみの神をほめたたえることができる。神を信じるなら、この世界に生きることも、また幸いと言えるでしょう。
 最後に、虹の命は僅か数分。しばらく間表れ、消えてゆくのが虹です。しかし、今の私たちには決して消えることのないしるし、不滅のしるしが与えられていることをご存知でしょうか。
 神の愛と赦しのしるし、不滅の、永遠の契約のしるし。それは、イエス・キリストの十字架です。教会の歴史においては、天と地をつなぐ虹を、神と人の間に立つ救い主、キリストのシンボルとする人々もいました。
 人となられた神イエス・キリストが自ら呪いの十字架の木に上り、罪人の代わりに神のさばきを受け、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与える。
 クリスチャンとは、この十字架で自分の罪が赦されたことを信じる人、この十字架に現れた神の愛を思う者、この十字架から眼を離さず、歩み続ける人のことです。
 空にかかる虹を自然現象のひとつとだけ見る人と、神の慈しみのしるしと仰ぐ人。キリストの十字架を昔の悲劇と見る人と、罪人を徹底的に愛する神の愛の表れと見る人。前者と後者では同じ世界に生きながら、その生き方は全く違ってくることでしょう。
 「さかえの主の十字架をあおげば、世の富誉れは、ちりにぞひとしき。十字架のほかには、ほこりはあらざれ。この世のものみな、消えなば消え去れ。」
 罪に悩む時、十字架を仰いで神の愛を知る幸い。ひとり寂しさを感じ、無力を覚える時、十字架を頼り、誇りとして立ち上がることの出来る喜び。キリストの十字架を仰ぎ、誇りつつ歩む者でありたいと思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師