2012年1月1日
礼拝メッセージ


「教会を慕う」
  聖書
詩篇84篇

84:1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
84:2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
84:8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
84:9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
84:11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
84:12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。


  メッセージ
 昨年2011年の流行語大賞は「なでしこ」だそうです。皆様ご存知の通り、サッカーのドイツワールドカップで大活躍した日本チームのニックネーム「なでしこジャパン」に由来します。なでしこは秋の七草のひとつで、しばしば子どもや女性に喩えられ、その花言葉は純愛、思慕、貞節、可憐等、女性的で、優美なイメージです。
 今お読みしたこの詩篇も「最も有名なのが第23篇、最も喜ばしいのが第103篇、最も体験的なのが第119篇で最も悲痛なのが第51篇、そして、最も優美なのが第84篇」と言われてきました。さしずめ、聖書の中のなでしこ詩篇でしょうか。
 そして、一読して分るのは、この詩篇の作者が教会を慕う人、教会を愛する人だと言うことです。
 「あなたのお住まい」「主の大庭」「あなたの祭壇」「あなたの家」「シオン」「神の宮」等様々に言い表わされていますが、これらはすべて旧約聖書の昔には神殿、今で言うなら教会のことです。
 作者のコラ人とは、その頃神殿の門衛、ガードマンを勤めたり、人々のお供え物の準備をしていた役人でした。そんな人々が、ユダヤの都エルサレムに全国各地から集まってくる礼拝者の心を歌にしました。
 ですから、一節から礼拝所である神殿を慕う礼拝者の心が歌われ、これが私たちを圧倒します。そして、ひとりひとり、果たして自分がどんな礼拝心を持って教会に集っていたのかを振り返ることになるのです。

 84:1〜3「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。」

 詩人は教会を「あなた(神)のお住まい」と呼んでいました。もちろん、神は世界中どこにでも居られます。臨在しています。しかし、皆様は、こうして兄弟姉妹相集って礼拝をささげる場が、神が特別に親しく臨んで下さる場、神が私たちのことを思い、特別に近く共にいてくださる場である、と意識したことがあるでしょうか。
 私たちの教会でもそうですが、多くの教会では礼拝開始の時、音楽と共に黙想とか静思の時間と言うものがあります。これは、ただ単に静かにしていれば良いという意味ではなく、公の礼拝の場に親しく、近くいてくださる神を思い、神ご自身に心を向ける大切なひと時でした。
 それにしても、です。「何と慕わしいことでしょう」とか「絶え入るばかり」とか「心も、身も、喜び歌う」とか、いかに詩人が礼拝で神とお会いすることを、望み、慕い、喜んでいることか。もう一度言いますが、圧倒されてしまいます。
 私たちクリスチャンの生活には、家庭で、職場で、あるいは通勤、通学の途中でささげる個人的な礼拝がありますし、あるべきでしょう。けれど、それにもかかわらず、兄弟姉妹相集いてささげる礼拝を格別なものとし、これを慕い、愛する信仰者の姿がここにあるのです。
 ちょっと微笑ましいのは、詩人が神殿に舞う雀やつばめに目を留めると、「ああ、あの鳥たちのようになれたらなあ」と憧れたことです。どうして、人間が雀やつばめに憧れるのか。それは、雀の住処もつばめの巣も神の家にあり、年がら年中神の近くにいられる彼らが羨ましいから、でした。
 私の友人夫婦は、結婚して新居を定めるなら教会の近くにと考え、それを実践しました。通勤や通学、買い物等に便利かどうかよりも、教会に近いかどうかを重視。ついに教会堂のお隣の物件を射止めたのです。
 「ここなら、年を取って、もし寝たきりになっても、礼拝のオルガンの音が聞こえる、賛美歌が聞こえる。自分達も礼拝の中にいるように感じられるのでは。」と言うのが、その理由。彼らもまた、教会を愛する雀やつばめのひとりでした。

 「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。」84:1〜3

 私たちも、会堂における礼拝を形だけの義務やお勤めにしては来なかったかと反省させられます。と同時に、この詩人のように生ける神にお会いすることを喜びとする者、公の礼拝を慕う者、そこにおける神の祝福を味わう者となれたら、と願わされます。
 尚一言付け加えたいのは、小さな子どもたちが、親とともに公の礼拝に参加することの大切さです。
 「小さな子どもには説教も賛美かも分りはしない。子どもは子ども用の礼拝、集会に出席すれば、それで十分ではないか。」「小さな子ども等泣いたり、叫んだり、走り回ったり、うるさくて仕方がない。むしろ静粛な礼拝の雰囲気を壊しかねない存在だ。」こういった意見が昔から聞こえます。
 これは批判の意味で言うのではありませんが、子ども用の礼拝と大人用の礼拝とを二つに分けている教会もあります。
 しかし、私たち長老教会はこの詩人と同じく、公の礼拝に神の特別なご臨在と祝福があることを信じてきました。大人も子どももひとつ神の家族としてささげる礼拝を重んじてきたのです。たとえ、説教や賛美歌が頭でわからなくても、小さな子どもたちは、みなが集う礼拝の場にいることで、いることだけで、どれだけ体と心に霊的な益を受けて取っていることでしょうか。
 大人の責任の第一は、子どもたちのために最高の環境を整えること、つまり自分自身が何よりも礼拝の場を慕い、神との出会いを喜ぶ礼拝者になること、と覚えたいのです。
 さて、次の段落は、都に向かう巡礼者の歌でした。

 84:5〜7「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」

 シオンというのは、都エルサレムが立つ丘のことですが、ここでは神殿、教会のこと、さらに神を信じる者がやがて行き着く天国のことをも含んでいるでしょう。
 幸いなのは、己の力により頼む人ではなく、神により頼む人。食べることも、寝ることも、働くことも、考えることも、楽しむことも、学ぶことも、人を愛することも、生きるに必要なすべての力の源は神にあり、と信じて歩む人。
 その心に、教会への道と天国への道、すなわち教会を愛し、天国を慕う思いを抱いている人。そういう人にとっては、苦しみ悩み涙を流す出来事をも、泉のわく所となるという告白でした。詩人自身どれほど不運、不幸に涙し、それを神とともに乗り越え、歩んできたことか、と思わされます。
 こうして、巡礼者の旅は進み、彼らは「シオンにおいて、神の御前に現れる」すなわち、朝一番に神殿の門が開くと同時に、礼拝の場である大庭に入り、祈りをささげることになります。

 84:8、9「万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。」

 「あなたに油注がれた者」とはユダヤの王様のこと。この旅人は礼拝の場に入ると、まず膝まづいて、国民が安心して礼拝をささげられるように、国を治める責任を担う王のために、と祈ったのでしょう。
 そして、いつしか祈りは賛美へと変わってゆきます。ここに登場するのが、詩篇84篇の中の名句、いや150ある詩篇全体の中でも、神と教会を愛する告白にしてこれ以上のものなし、と言われる名句でした。

 84:10「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」

 「神よ。あなたを礼拝する場にいる一日は千日分の命を満喫するにまさります。私は悪に手を染めて大きな家、立派な家に住むよりも、貧しくとも神の宮の門に立って人々に仕える者になりたいのです。」
 神を愛することは、神の家である教会を、また教会に集まる人々を愛することに通じる、と教えられます。
 四日市教会にはその昔、四日市のメンバーが大好きだからと、岐阜県の中津川市から遠路はるばる、毎週礼拝に通う兄弟がいました。
 学生時代、私が所属していた東京の杉並教会には、大学を優秀な成績で卒業し、裁判官でも弁護士でも優になることが出来たのに、就職先に生命保険会社を選んだ兄弟もいました。理由は、「その会社は土曜日が半日勤務で、午後教会の奉仕に時間が使えるから。」です。
 また、以前韓国の教会に研修に出かけた時、何度か家に宿泊させていただき、親しくさせていただいた趙執事と言う兄弟は、大会社での安定した仕事を辞め、もらった退職金を二つに分けると、半分を教会にささげ、もう半分を元手に新しい会社を興しました。会社が軌道に乗るまで大変ご苦労されたそうです。
 しかし、凄いのはその理由でした。趙さんは新しい仕事や会社を興すことに関心があったと言うよりも、「社長の立場に立って、毎週日曜日の教会礼拝を守りたいから」、「土曜日教会で行われている子ども達のための教会学校の先生になりたいから」、というものだったのです。
 どの人の生き方からも、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」という告白が聞こえてはこないでしょうか。
 そして終幕。神を太陽に見立てて賛美し、その神を信頼する者の幸いを歌い、優美で穏やかな詩篇84篇は幕を閉じます。

 84:11,12「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。」

 地上にあるすべての生きとし生けるものを照らす太陽の恵み、それでいて暖かく、明るい力ある姿が神になぞらえられています。
 また、人生と言う旅には悪い道もあれば、険しい道もある。そんな時、私たちの魂に害を与えようと襲い掛かる敵から防ぎ、守る盾となってくださるのが神ご自身であり、この神に信頼すれば天国までの旅路も安心、安全という、信仰の先輩からのアドバイスともなっています。
 「万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。」2012年毎週の礼拝を、私たちお互いにこの祝福を告白する時、確かめ合う場としたい。そうして一歩一歩、天の御国への旅を続けて行けたら、と思わされます。
 最後に、2011年もうひとつの流行語大賞は「絆」でした。あの忘れもしない東日本大震災によって、人と人の絆がいかに大切なものか、私たち日本人は改めて考えさせられました。
 しかし、一方で、この間11月末に石巻に被災地支援に出かけた時のことですが、被災者の方々から、「最近ボランティアの数もめっきり減って、世界から、日本から、自分達のことがどんどん忘れられている気がする。」そんな寂しそうな声も聞きしました。
 自分に対して差し出されている絆が見えない時、私達は心細くあります。周りの人や、信頼すべき神との絆なしに生きる時、私たちは本当に弱い存在であることを覚えます。
 神がこの世界に教会を置いてくださったのは、こんな私たちが神との絆、兄弟姉妹との絆に気がつくため、神との絆、人との絆を結ぶため、結びなおすためであることを覚えたいのです。
 公の礼拝において神の愛を受け取り、神との絆を確かめる。兄弟姉妹との交わりによって、お互いに愛しあい、仕え合い、祝福し合うべき絆があることを確認する。もし、教会と言う礼拝の場、交わりの場がなかったら、私たちの人生はかなめを失った扇のように、ばらばらになってしまうのではないでしょうか。
 神を信じる者から神を愛する者へ。神を愛する信者から礼拝と交わりの場である教会を愛する者へ。新しき年、そんな生き方を目指して、私たち歩み出したいと思うのです。

 84:10「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師