2012年1月15日
礼拝メッセージ


「悔い改めて生きよ」
  聖書
エゼキエル書18章30〜32節

18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。


  メッセージ
 少し前のこと。ゴスペルシンガーの内藤容子姉がアワナクラブに来て特別賛美をして下さいました。その歌声に感動し、アワナクラブだけでなく、礼拝でもお願いしますとお伝えし、今日はその願いが叶いました。礼拝の後、二曲、特別賛美をして頂きますこと、大変嬉しく思っています。
 内藤容子姉が来て下さることが決まり、電話で打ち合わせをした時のこと。私は格好をつけてこう聞いたのです。「特別賛美で歌う曲のもとになっている聖書箇所を教えて下さい。可能であれば礼拝説教をその箇所でしたいと思います。」と。すると「一つは、救い主の愛というテーマで、特に聖書箇所はありません。もう一つは、エゼキエル書18章です。」との答え。皆様、この答えを聞いた時の私の気持ち、想像出来ますでしょうか。エゼキエル書というと37章は有名ですが、恥ずかしながら、それ以外の章はピンとこない。「ムムム」と思いながらも電話を切った後、読んでみました。すると、聖書全体のテーマとも言えるメッセージが込められている箇所。何故、ピンとこなかったのかと思うほどです。そこで今日はエゼキエル書18章の末尾を開くことにいたします。
 年の初めの時期。神様の前で、私たちがどのように生きるべきなのか。今日の箇所から考えていきたいと思います。
 しかし、まずは私の冬期休暇の話から。年末に休みを頂きまして、父が住んでいる千葉県に行き、その時に「ホキ美術館」という美術館に行ってきました。知っている方いるでしょうか。日本初の写実絵画専門の美術館ということで、展示されている絵は、まるで写真のような絵。絵について素人の私でも、楽しむことが出来ました。
 今日はそこで見た絵の一つを紹介したいと思います。※ 生島浩という画家が描いた「5:55」という題の絵です。美術館でこの絵が飾られているところには、絵の横にボタンがありまして、それを押すと、作者が絵を書いた時のことを音声で聞こえるようになっていました。それによりますと、ここに描かれている女性は、もともと絵のモデルをしている人ではなく、頼み込んでモデルをやってもらったそうです。モデルをやる約束の時間は、夕方六時まで。題名となっている「5:55」とは、つまりモデル終了の五分前の時間。消極的に引き受けてやっている絵のモデルが、あと五分で終わる。その時の気持ちが、顔の表情や手のかたちに出ているというのです。
 絵の背景を知らずに見ても、絵を楽しむことは出来ます。作者がどのような思いでこの絵を書いたのか、あれやこれやと想像するのは楽しいものです。しかし、その背景を知って絵を見ると、その楽しみは何倍にも増します。消極的なモデルと聞くと、確かに、心ここにあらずという表情に見える。今にも席を立とうとしているように見えてきます。
 背景を知ることで、より理解が出来る。これは絵について言えることですが、聖書にも当てはまることです。聖書の言葉を理解し、味わうためには、その背景にある事柄を知る必要があります。
 このエゼキエル書の言葉が語られたのは、どのような時代、どのような場面なのか。確認していきたいと思います。
 預言者エゼキエルが活躍したのは、今から約二千六百年前。エゼキエルという名前は、主が強めて下さるという意味ですので、日本名で言えば「剛さん」でしょうか。祭司だったのではないかと思われている人物です。
 この時、イスラエルは大変な状況にありました。バビロンという国に戦で負け、国は荒廃し、生き残った者は奴隷として連れ去られる。バビロン捕囚という出来事を経験する時。エゼキエルが預言者として活動を開始するのは、まさにそのバビロン捕囚の最中でした。
 イスラエルの歴史を見ますと、近隣の強国に攻め込まれた時、神様の奇跡的な働きにより、国が守られたということが多数ありました。しかし、バビロンには負け、神様を礼拝する神殿も破壊され、奴隷として連れ去れる。神様の助け、介入がなかったかのように思われることが起こったのです。何故か。何故、神様は助けて下さらなかったのでしょうか。それについて、エレミヤ書に答えが記されています。

エレミヤ書16章10節〜13節
あなたがこの民にこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主に犯したという、私たちの罪とは何か。』と尋ねたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨て、――主の御告げ。――ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、わたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったためだ。また、あなたがた自身、あなたがたの先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き従わないので、わたしはあなたがたをこの国から投げ出して、あなたがたも、先祖も知らなかった国へ行かせる。あなたがたは、そこで日夜、ほかの神々に仕える。わたしはあなたがたに、いつくしみを施さない。』

 神様がイスラエルを助けなかったのではなく、神様の支配の下、バビロン捕囚という出来事が起こったのです。その理由は、イスラエルの民があまりに悪事を働き、神様に従わないからでした。あまりにひどい。そのための罰でしょうか。罰という意味もあったでしょう。しかし、ひどい悪のため罰したというだけではないのです。バビロン捕囚について、このように語られているところもあります。

エレミヤ30章11節
わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救うからだ。わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。

 あまりにひどい。あまりに悪いため罰するというのであれば、滅ぼし尽くすので良いでしょう。しかし、そうはしない。むしろ、滅ぼし尽くさないと約束が与えられ、更にバビロン捕囚が懲らしめであるということが語られています。
 懲らしめ。それは、愛する者が良くない状態にある時に、より良くなるためになされるものです。神様は愛するが故に、神の民を懲らしめる方。このことは、ヘブル書で明記されていました。

ヘブル書12章5節〜7節
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

 神様は愛する者を懲らしめることがある。いかがでしょうか。自分の人生を振り返り、神様の懲らしめとして考えられる出来事があるでしょうか。その時は辛く感じても、後になって私には必要であったと感じることがあるでしょうか。
 ところで、バビロン捕囚が懲らしめであったとするならば、その出来事を通して、神様はイスラエルの民にどのようになって欲しいと願われていたのでしょうか。どのようになることを目的に、バビロン捕囚がなされたのでしょうか。
 それは、イスラエルの民が悔い改めること。己の罪のために神様から懲らしめられていることを理解し、悔い改めること。それを願ってのバビロン捕囚だったと考えられます。
 さて、背景の説明が少し長くなりましたが、まとめると、悪に走るイスラエルが悔い改めるために、懲らしめとしてバビロン捕囚がなされた。その時に立てられた預言者が、エゼキエルであったということです。
 それでは、この時イスラエルの民は、バビロン捕囚を神様の懲らしめ、自分たちの罪が招いたものだと理解していたでしょうか。実はそうではなかったということが、18章の冒頭で分かります。

エゼキエル書18章1節〜2節
次のような主のことばが私にあった。あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。

 当時のイスラエルの民は、バビロン捕囚を、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」という諺で説明しようとしていた。意味が分かるでしょうか。この諺自体は、親のなしたことが、子どもに影響するという意味です。これをバビロン捕囚の意味として使うのであれば、私たちの父祖が罪を犯したので、私たちは今、バビロン捕囚という裁きに合っているとの主張になります。自分たちは悪くないとの思い。
 神様の目には、父祖たちよりも、まさにその時のイスラエルの民の罪深さが強かったのにも関わらず、です。いや、罪深い者たちであったからこそ、悔い改めることもせずに、父祖のせいにしていたのでしょうか。
 ともかく、バビロン捕囚という懲らしめを持ってしても、親のせいにして、自分が悔い改めることをしない。エゼキエルが前にしているのは、このような民でした。
 その民に向かって悔い改めを解くのが、今日の箇所です。

エゼキエル書18章30節
それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

 「いいですか。あなたの親の罪によって、あなたを裁くのではないのです。それぞれ、個々の態度によって裁きがあるのです。」との宣言でした。そして、だから、それぞれで悔い改めるように。罪を振り捨て、不義に引き込まれないようにと必死の説得です。
 預言者を送り、悔い改めを解いても悔い改めない。バビロン捕囚が起こり、大変な状況にあっても悔い改めない。その民に、再度、エゼキエルを通して、悔い改めを迫る神様。
 本当ならば、逆であるはずです。罪人が、必死になって神様に赦しを請うべきところ。それが、神様が必死になって悔い改めを勧めるのです。勿体ないというか、かたじけないというか。
 なぜ神様が、ここまで必死に悔い改めを迫るのか。その理由が次の言葉に出てきます。

エゼキエル18章31節〜32節
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

 預言者を送っても、バビロン捕囚という出来事があっても、それでも悔い改めない。それならばもう好きにしたら良い、ではなかった。神様は尚も、エゼキエルを通して、悔い改めを迫るのです。何故か。全く真剣になっていない。その者を相手に、身を乗り出すのです。何故か。
 罪の先には死があるからです。愛するイスラエルの民が、このままでは死んでしまう。失われてしまう。なんとしてでも、罪から遠ざかるように。悔い改めるように、との叫び声です。迷子になった一匹の羊を必死に探す羊飼いの姿。失くした銀貨を必死に探す女性の姿が彷彿としてきます。
 今日の箇所に示されている、私たちが罪の中で死ぬことを良しとせず、必死になる神様。福音です。何としてでも、悔い改めてもらいたい。何としてでも、罪から抜け出て欲しい。だれが死ぬのも喜ばないと言われるこの神様の情熱を感じたい。エゼキエルを通して私たちに肉迫してくる神様を今日は覚えたいと思います。
 今日の聖句を皆様とともにお読みしたいと思います。

エゼキエル書18章32節
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

 愛する四日市キリスト教会の皆様。「悔い改めて、生きよ。」との神様の言葉を、胸に焼き付けましょう。この言葉に真正面しましょう。私たちが本当に生きる道は、罪を悔い改め、キリストを信じるしかない。このことをよくよく覚えて、キリスト者の歩みを全うしていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師