2012年1月22日
礼拝メッセージ


「御言葉を慕う歩み」
  聖書
ペテロの手紙第一1章23節〜2章2節

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。


  メッセージ
 「自分自身のことや自分の生活で変えたいところ、なんとかしたいところはありますか」と聞かれたら、真っ先に思い浮かぶことは何でしょうか。自分の性格、自分の外見、あるいは病気や仕事のこと。今ある人間関係、自分をとりまく環境。人によって様々です。
 変えたいという分野で、自分ではどうにも出来ない。心の底から何とかしたいと願うけれども、自分ではどうにも出来ないという場合。その自分の願いが叶えられるとしたら、一般的には「救われた」と言います。
 キリスト教では、イエス・キリストは私たちを救い主と教えています。「救い」です。しかし、何からの救いでしょうか。キリストは私たちの願いを何でも叶えてくれる方ではありません。キリストが私たちを救うのは、罪からの救いです。
 この「罪からの救い」を別なことばで表現するとどうなるでしょうか。仮に、キリスト教を知らない友人から、「キリスト教が教えている救いとはどのようなものか?」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。
 聖書を読みますと、罪からの救いということば、罪からの救いという概念が、狭い意味で用いられる場合と、広い意味で用いられることがあります。皆様、ピンときますでしょうか。
 狭い意味で救いと言う場合は、罪ある者、そのままでは永遠に罰せられるべき者が、罪赦され天国で暮らす特権を得ることを指します。どちらかと言えば、この地上の後。私たちの地上での死の後に焦点が当てられて、救いが表現される場合です。神学的に言えば、義認に焦点が置かれているわけです。
 広い意味で救いと言う場合は、この地上で神の子として生きてゆく幸いを味わうこと。キリストを信じる前には失っていた、神様との親しい関係、人生の目的、自分の価値を回復し、本当の意味で愛ある人生を送ること。この地上の人生にも焦点を当てて救いが表現される場合です。
 これは二つの異なる救いがあるという意味ではありません。キリストを信じる者には、この両方の恵みが与えられます。天国には行けるが、この地上では一切何も変わらないということありません。この地上では、神の子としての喜びはあるが、天国には行けないということもありません。キリストを信じる者には、義とされ天国に行く特権が与えられ、更にはこの地上で神の子として生きる喜びが与えられるのです。
 このことを頭に入れておきまして、今日の箇所を読み進めていきたいと思います。キリストの一番弟子とも言えるペテロが記した手紙。その中でも、神のことばを慕うことの大切さがテーマとなっているところです。

 Tペテロ1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 ペテロはここで、「あなたがたが新しく生まれたのは」と言います。これは「罪からの救い」の表現の一つです。「新しく生まれた。」強烈な表現です。
 キリストを信じて、罪から救われる。これは、死んでいた者が新たないのちを得る程の変化。ある人が福音を伝えられ、それを受け入れた。その結果何が起こるのかというと、行儀が悪い人間が、行儀が良くなるとか、不道徳な人間が道徳的になるとか、無能な人が有能になるというだけのものではない。そうではなく、死んでいた者が新たないのちを得る程の変化、大変化だというのです。
 もう少し言いますと、大きな変化を表現するためだけに「新しく生まれた」ということばが選ばれたのではありません。世界の造り主から離れる。神を無視して生きる。そのような罪の中にいる時は、事実、霊的には死んでいたのです。その状態のままでは、やがて永遠のさばき、永遠の死を受けることになるのです。その霊的に死んでいた者が、キリストを信じることによって「新しく生まれる」のです。大きな変化であるという強調のためのことばではなく、事実として生まれ変わるのだという意味でした。
 キリストを信じた者。私たちは新しく生まれた者。神の前で死んでいたのが、神の前で生きる者となったのです。そのような自覚はありますでしょうか。新しく生まれた者としての喜びは味わっているでしょうか。
 ペテロは「あなたがたは新しく生まれた者だ」と呼びかけて、何によって「新しく生まれたのか」それを確認するようにとことばを続けていました。もう一度読みたいと思います。

 Tペテロ1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 罪からの救い。新しく生まれるというのは、神のことばによるとの宣言。罪の中に死んでいた者が、新たないのちを得る。そのような変化は、修行によってもたらされるものでも、善行を積むことでもない。教会に貢献することでも、多額の献金をすることでもない。高額な壺を買えば良いというのでもない。神のことばを信じること。これでしか、新たないのちを得ることはないとの宣言です。
 この宣言を皆様はどのように受け止めるでしょうか。罪人が神の子となる変化を手にするには、神のことばを信じるのみ。これのみであるとの宣言。私はこの聖書の宣言を心から信じていますが、ふと考えてみると、自分でも「よく信じられているなぁ」とも思います。私含め、変に真面目な日本人。「神のことばを信じるだけで良いなど、そんな都合の良い話はない。」天国に行くためには、年収の半分をささげれば良いとか、一日一時間の祈りを死ぬまで欠かさなければ天国へ行けるとか。その方がより人が集まるのではないかと想像します。
 しかし、聖書はあくまでも、救いは神のことばを信じることによってのみと宣言でした。考えてみますと、この宣言を信じることが出来ているということが、大きな恵みでした。
 ところで、ペテロはこの時、「あたながたが新しく生まれたのは、神のことばによる」とだけ言えば良いところを、神のことばについてあれこれと表現します。「朽ちない種であり、生きていて、いつまでも変わらないものなのだ」と。それだけに留まらず、神のことばはいかに信頼すべきものかとことばを続けるのです。

 Tペテロ1章24節〜25節
『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

 ここは少し面白いところです。話の流れとしては、23節で「あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによる。」として、続けて2章の1節に言っても良いところ。ところが、ペテロは「あなたがたが新しくうまれたのは、神のことばによる。」と記す時に、神の言葉がいかに信じるに価するかということを、どうしても言いたくなった。情熱溢れる脱線です。
 「いいですか、あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによるのです。神のことばは、朽ちない種で、生きていて、いつまでも変わらないものです。ほら、旧約聖書にも書いてあるじゃないですか。人はみな草のようだと。どれ程栄えた者たちでも、やがてしおれ、散っていく。しかし、神のことばは永遠に変わらないと。あなたがたが聞いたのは、この神のことばですよ。」と。ペテロの聖書に対する思い、神のことばに対する情熱が滲み出ているところです。
 考えてみますと、神様がこの世界を造られた時も、神のことばによりました。キリストは「ことば」と表現さています。そして、私たちの救いも神のことばによると言います。実にキリスト教はことばの宗教です。
 このように、私たちの救いは神のことばによる。神のことばは変わることのない、最も信頼すべきものであるとしたペテロは、新しく生まれた者としての生き方を提示します。

 Uペテロ2章1節
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

 新しく生まれた者。罪から救われた者としての生き方が示されるところです。ここに二つの側面が記されています。一つは、悪から遠ざかること。
 神から離れ、罪の中にいた時は、何が正しいことで何が正しくないことなのか、あやふやでした。それが神のことばを信じることにより、新たに生きる者となった。その私たちは、何が正しいことで、何が正しくないのか、分かるようになりました。キリストを信じ、助け主なる聖霊がともにいて、正しい歩みをすることが出来る者とされました。
 新しく生まれた者の生き方は、自分の歩みを振り返り、自分の犯した悪があるならば、悔い改め、告白し、清めて頂いて、悪から遠ざかることに取り組む。そうやって生きるのだと教えられます。皆様、自分の歩みを振り返り、罪を悔い改め、告白するということ。どれだけ取り組んでいるでしょうか。本当に罪から遠ざかるという思いがどれだけあるでしょうか。私たちは悪から遠ざかるということに、真剣に取り組むべきでした。
 新しく生まれた者としての生き方。もう一つは、神のことばを慕う生き方でした。

 Uペテロ2章2節
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 新しく生まれた者の生き方。もう一つの側面は、「みことばを慕う」生き方です。それも、生まれたばかりの乳飲み子が乳を求めるように、神のことばをしたいなさいと言われます。凄い表現。生まれたばかりの乳飲み子が、どのように乳を求めるのか。親になって分かりました。四六時中、ひっきりなしです。数時間おきに、夜中だろうが、どこだろうが、お構いなしに乳を求めます。そのように、みことばを慕うよう教えられています。
 ところで、この2節のことばに違和感を覚えた方はいますでしょうか。ここはもともと、新しく生まれた者。つまり、既に救われた者たちに語られていた箇所です。それにも関わらず、みことばを慕い求めることによって「成長し、救いを得る」と言われています。既に救われている者なのに、これから「救いを得る」のだと。これはどういう意味か。
 今日の冒頭にお話ししたことを考えれば、お分かりになるかと思います。神のことばを信じた者。キリストを救い主と受けいれた者は、確かに罪赦され、天国へ行く特権を頂きました。新しく生まれた者です。しかし、この地上で神の子として喜んで生きるために。最高の人生を送るために。広い意味での救いを得るために、私たちが取り組むべきことがあるとここで教えられているのです。それがみことばを慕うということ。それも、四六時中、ひっきりなしに、どこであろうとも、神のことばを求める。私たちが神の子として最高の人生を送るために、神のことばを慕うということは、非常に大切だと教えられるのです。
 以上、今日の箇所を確認してきました。まとめると、このようになります。私たちは、神のことばを信じることによって、新しいいのち、永遠のいのちを頂きました。その新しいいのちを喜び、楽しむこと。神の子として最高の人生を送るための生き方は、悪を捨てること、そしてみことばを慕うことです。
 新しいいのちを頂いた者として歩み。悪を捨て、みことばを慕うことですが、今日は特にみことばを慕うことに更に焦点を当てたいと考えています。
 みことばを慕うこと。聖書に親しむこと。聖書を読むこと。これは簡単なようでなかなか難しい。出来るようで、なかなか出来ない。クリスチャンが何度もチャレンジして、失敗することの一つです。しかし、私たちにとって、みことばを慕うことがいかに大切なことか。よくよく教えられていますのでなんとか取り組みたい。「聖書を読みましょう」というのを、お題目として掲げて終わるのではなく、なんとか皆で取り組みたいと思うのです。
 そこで、今日はみことばを慕う歩みをするために、聖書を読み続けるために、三つのことをお勧めして説教を閉じたいと思います。
 その一つは、なぜ聖書を読む必要があるのか。聖書を読む必要性を正しく理解し、いつも意識しておくということです。「よく分からないけれども、私はクリスチャンなのだから聖書を読まないと」というのではなく、クリスチャンとして本当に喜びある人生を送るために、聖書を読むことは非常に大切であるということを意識したいと思います。本当に、このことをいつも意識出来たとしたら、聖書を読まないことが難しくなると思います。みことばを慕うこと、聖書を読むことの重要性を理解し、覚えておきたいと思います。
 聖書を読み続けるためにお勧めしたいこと。二つ目は、聖書の内容を理解するための努力をするということです。聖書は箇所によって、分かりやすいところと、難解なところがあります。難解な箇所が続くと、読む気力が失われていきます。そのため、分からなくても読み進めるとい姿勢は大事です。しかし、分からないことが続くと、聖書を読む楽しさが薄れ、苦行のように感じます。継続して聖書に親しむためには、内容が理解することも大事です。書いてあることがよく分からない時は、牧師や長老、先輩クリスチャンに聞いてみて下さい。あるいは本やインターネットで調べることも有効です。聖書が分かるための努力を惜しまないことが、聖書を読み続けるための助けになります。
 みことばを慕うためにお勧めしたいこと。三つ目は、教会の仲間とともに、分かち合いながら読むということです。これは実際に聖書を読む時に、教会の仲間と読むという意味ではありません。実際に聖書を読む時は、一人で読むのでも良いです。仲間とともに、分かち合いながら読むというのは、礼拝の前後、食事の時、奉仕の合間に、最近自分が読んでいる聖書の箇所について、その感想を言い合うこと。次週までに私はこの箇所を読むということを交換し、互いに祈りあうことです。このようなことに取り組めたら、継続して読む助けとなります。聖書を読むことに慣れていない人は、一日どれ位のペースで、どの箇所から読むのが良いのか。慣れている方から聞いてみるのも良いと思います。私の経験では、聖書を読めていない時に、今は読めていないということを仲間に打ち明け、祈ってもらうことで再開出来るということが何度もありました。仲間とともに、分かち合いながら読むことは、聖書を読み続けるための助けとなります。
 この年始めの月、今一度、皆で聖書を読むこと。みことばを慕う歩みをする決心をしたいと思います。

 今日の聖句です。
 詩篇119篇
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師