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メッセージ
皆様は、イエス・キリストの生涯というと、どのような事を思い浮かべるでしょうか。
私たちを真の幸福に招くために語られた山上の説教でしょうか。病に苦しむ者を癒し、死人をよみがえらせた力強いわざ、あるいは、ただ一言で荒ぶる波と風とを静めた目の覚めるような奇跡でしょうか。人々の悪口、雑言を忍耐しつつ、人類の罪の為、十字架の木に上げられたキリスト受難のお姿でしょうか。
しかし、聖書をよく読みますと、それらイエス・キリストの地上での歩み、お働きのすべてを支えていたと思われる、あるひとつのことが見えてきます。
それは一枚の絵に喩えれば背景の部分。ですから、余り目立ちませんが、これこそイエス様の力の源であったと思われることです。それは、祈りをもって天の父と交わるイエス様のお姿でした。
1:35「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
ここに「朝早く暗いうちに起きて、祈っておられた。」とあります。父なる神様との交わりを持って一日をスタートするのが、イエス様の習慣であったと考えられる場面です。
それにしても、前日は多忙を極めました。先ず会堂に入ると人々に聖書を教え、汚れた霊につかれた人を癒します。次に会堂を出て、弟子のシモンの家に入ると、そのお姑さんの熱病を直し、その後ようやく食事のひと時。
しかし、夕方になると、「イエス奇跡を行う!」との評判を聞いたカペナウムの町の人々が家に押し寄せ、押すな押すなの大盛況。イエス様は休む間もなく病を治し、悪霊を追い出すために働き続け、人々に仕えたと言うのです。
もし、皆様が多忙な一日を過ごしたとしたら、どうでしょう。朝早く祈ることを選ぶでしょうか。それとも布団に入り続けることを選ぶでしょうか。
私たちは祈りが大切だと理解しています。しかし、祈りを実行することにおいて実に弱い者でもあります。そして、多くの人が祈れないことの理由の第一に挙げるのは忙しさ。「忙しくて祈れない」というものでしょう。私も同感すること大です。
しかし、このイエス様のお姿を見ると、「忙しくて祈れない」と言って、生活の中から簡単に神様との交わりの時間を退けてしまって良いものか、と考えさせられます。
イエス様は忙しい生活にもかかわらず祈られた、いや忙しい生活であるからこそ、天の父と親しく交わるひと時を願い求め、大切にされたと思われるからです。もし私達が忙しさを理由に神様と交わりをしなくなったら、果たしてどんな症状が表れるでしょうか。
「忙しい」と言う漢字は「心が亡ぶ」と書きます。神様との親しい交わりがないと、私たちの心の中の大切なものが亡んでゆく、失われてゆく。この様な経験はないでしょうか?
心の中から余裕が失われ、ちょっとしたことでイライラする。心の中から愛が失われ、回りの人のことを責めたり、腹を立てたり、赦せなくなる。心の中から平安が失われ、将来のことを思い煩って夜も眠れなくなる。自分が生かされていることの意味や喜びを見失い、働くこと、学ぶこと、生きていることが虚しくなる。
余裕、愛、平安を失って毎日を生きる。生かされていることの意味や喜びを覚えることなく、それでも忙しく働き続ける。何と悲惨な状態か、と思えます。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」1:35
忙しさそのものが問題と言うよりも、日々の生活の中に、私たちを愛し、見守りたもう神様との交わりのないこと、つまり神様を離れ、神様と関係を持たずに歩むことが、こうした症状を生むと聖書は教えます。
こうしたことを背景にすると、イエス様の生涯の一日のスタートをさりげなく描く、この一文は、私たちに対する無言の、しかし重要なメッセージでした。
イエス様にとって、祈りを持って天の父と交わることがこれほどに大切であり、その歩みと働きを支えるものであったとすれば、まして私たちにとってはさらに大切なものではないか。そう、イエス様の祈りのお姿に、私たちも教えられたいのです。
一方弟子達には、神様との交わりの大切さが分っていなかったように見えます。彼らは、昨日次から次へと病人を癒したキリストの奇跡の評判を聞きつけ、早朝にもかかわらず大挙して押し寄せたらしい町の人々に興奮し、急いでイエス様もとにやって来ました。
1:36,37「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております。』と言った。」
元のことばでは、「イエスを追って来て」は、狩人が獲物を追いかけるような迫り方を示し、「『みんながあなたを捜しております。』と言った。」の「言った」は「叫んだ」とも訳すことができます。
息を切らせた弟子達が、「大勢の人々の前で奇跡的な業を披露するなら、イエス様が有名になるチャンス」と考え、「イエス様、お祈りなんかしてる場合じゃないですよ。名を上げる絶好の機会ですから、早くこっちにきて、人々の前で奇跡をなさるようお願いしますよ。」興奮して叫ぶ彼らの様子が目に浮かびます。
「祈るより働け」「神様と交わる暇があったら、動け、働け」。この世的な効率主義を思わせる叫び声です。
しかし、イエス様はこの弟子たちの要求を退けました。ご自分を捜してやってきた群集が救い主を求めるからではなく、ご自分の行った奇跡の再現を求めてやって来たにすぎないことを知っておられたからです。
昔から今に至るまで、人間と言うのは、神の奇跡には関心を寄せても、神ご自身には関心を寄せない者、神の恵みを受け取っても、恵みの与え手なる神ご自身には心を向けようとしない者だったのです。
そして、ご自分がこの世に来た目的は奇跡を行うことにあらず、人々の魂を罪から救うことにありと確認したイエス様は、カペナウムではなく別の村里に行き、福音を知らせることが使命、今日ご自分がなすべき業と語り、進むべき道を示されました。
1:38,39「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」
「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
父なる神様との交わりのうちに、イエス様はご自分が世に来た目的を教えられたのです。イエス様の場合は、福音の知らせをもって神の救いを知らない人々の魂を愛し、仕えることでした。
以上、イエス様の地上の生涯のある一日の様子を、神様との交わりと言う点に焦点を当てて見てきました。
しかし、神様との交わりを慕い求めこれを大切にしてきたのは、イエス様に限りません。聖書の語るところ、あらゆる信仰者が、神のみ前に出て神のことばを聞くこと、願いと賛美、罪の悔い改めと感謝をささげることを通して、神様と交わってきたのです。
何故でしょうか。今日は、神様との交わりについて、三つの事を覚えたいと思います。
ひとつ目は、イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちが神様と交わるためであった、ということです。
ヘブル10:19「こういうわけですから、兄弟達。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」
旧約聖書の時代、イスラエル民族の神殿は、簡単に言いますと、礼拝者が入ることのできる庭と、礼拝を仕切る役目の祭司だけが入れる聖所と、ただひとり大祭司という代表者が定められた時、罪のいけにえをもって入ることの許される至聖所からできていました。
ここで「まことの聖所」と言われているは至聖所のことです。至聖所は最も聖なる場所、神がおられる場所とされ、普通の礼拝者は入ることができませんでした。
しかし、キリストが十字架の上で、私たちの代表として、ご自分を罪のいけにえとしてささげてくださったので、私たちは大胆にまことの至聖所に入る、つまり聖なる神様の前に出て神様と直接交わる事のできる者となった事を、このことばは教えています。
世界の創造の初め、人間は神様と親しく交わることで、最高の幸せを覚える者として造られました。しかし、アダムの罪以来、人間は神との交わりを絶たれ、神に背を向け、神以外のもので心満たそうとしてきたのです。
けれども、神の側はどこまでも私たちを愛し、交わり回復を願って、イエス・キリストを世に送り、十字架の死に至らしめました。私たちの罪を赦し、私たちが安心して、親しい思いを抱きつつ、神を父と呼んで交わるためです。
大宇宙の創造主が、宇宙では塵のような無きに等しい者に目を留め、親しく交わりたいと思っていてくださると言う。この事だけでもありがたいのに、神の御子のイエス様が交わりを回復すべく、命がけで十字架にかかってくださったと言う恵み、本当にありがたい恵みではないでしょうか。
この神の思い、ありがたい恵みを知った上で、尚私たちが神と交わろうとしないと言うのなら、これほど神様を悲しませ、そのお心を痛めることはないと思われます。
私たちが神様を求める以上に、神様の側が私たちを求めていると言う事、私たちの思いやことばを聞き逃すまいと、全身全霊耳を傾け、そばにいて仕えてくださる、父の神がおられると言う事。このことを覚えて、日々神様の前に出る者となりたく思います。
ふたつ目は、イエス様の場合と同じく、私たちにとっても神様との交わりが、生きてゆく上での力の源だということです。
マタイ4:4「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる。」
余りにも有名な聖書のことばで、旧約聖書の申命記にも、荒野でサタンの誘惑に会われた際、イエス様のご自身の口からも発せられました。
肉体の健康を保つのにパンという肉の糧が必要なように、魂の健康を保つために、私たちは神のことばと言う霊の糧を取り込む必要があると教えられます。
罪に悩む時、神による罪の赦しのみ声を聞くなら、私たちは慰められます。苦しみの中にある時、子を心配し、子のために心砕いてくださる父の愛のみ声を聞くなら、私たちは本当に安心できます。
自分の弱さを思う時、それをすべて知った上で受け入れ、愛してくださる神のみ声を聞くなら、私たちの心は喜びにあふれます。一日のスタートを切る時、いつ、どこにいても、神がともにおられ、支えてくださるとのみ声を聞くなら、私たちは力づけられるのです。
神様との交わりとは、御ことばを通して自分に対して語りかける神様のみ声を聞くこと、神様はどのようなお方であり、神様にとって自分が如何に大切な存在であるかを思い巡らすこと、そして、本気で神様の御ことばを信じ、従って生きることでした。
私たちはこのような交わりを繰り返すことで、神を愛し、神に信頼する者として成長する祝福に預かることを覚えたいのです。
三つ目は、神様との交わりを習慣にすることのお勧めです。この世界は、神との交わりを妨げるもので満ちています。私たちの魂にとって最も大切なこと、最も喜ばしいことに取り組むためには、最悪の環境かもしれません。
それに加えて、私たちはキリストを信じて罪赦され、神の子とされましたが、地上にある間中身は罪人です。クリスチャンは罪赦された罪人、神の子であるけれども、心の中では罪の力が未だ、強力に働いている状態です。という事は、いとも簡単に神を離れて生きる者、神のことを思わないで、考え、選択し、語り、行動してしまう者なのです。
私たちを取り巻く環境、私たちの抱える凄まじい弱さを考える時、神様との交わりを習慣とする事は、とても助けになると思います。
イエス様も、天の父との交わりのために、朝早くに時間を確保し、寂しい場所つまり神様と一対一の関係になれる場所を探しました。
もちろん、聖書に神との交わりに関して、時間や場所のルールはありません。大切なのは、御ことばを読み、神様の語りかけを聞くことに、また心からの賛美や感謝、願いや悔い改めの思いをささげることに、自分が集中しやすい時間や場所を考え、決めておくと言うことです。「今日寝るまでのいつか、どこかでやればいいだろう。」では、実現も、継続も難しい気がします。
また、聖書だけを読んで神様と交わることができたら、それはすばらしいと思いますが、自分はまだ聖書に慣れていないのでそれは難しいと感じると言う方は、補助となる本を使うのも良い方法だと思います。
これは「日々のみことば」という本です。聖書の箇所を順番に、短めに取り上げてその解説があり、その日自分が教えられたこと、生活に適用しようとしたこと、祈り等を書くノートがついています。神様との交わりをどうするのか、その方法も教えられていますので、その点でも使いやすいかと思います。
それから、これは「きょうの力」と言って、小畑先生が書かれた物で、聖書を最初の創世記から始めて一章づつ読み、短い解説を読んで進めて行きます。教会スタッフの朝の祈りの時にもこれを使っていますが、個人的にも何度も使ってきた愛用の本です。
補助の本も、何を選ぶかは人それぞれです。大切なのは、自分が御ことばを味わい、神の語りかけを聞く助けになるものを選ぶことだと思います。神様との交わりの時間をもちたいけれど、どうしたらよいか分からない、どんな本がよいかわからないという方、私や大竹先生、周りにいる兄弟姉妹に気軽に聞いてみてください。
最後に、今日の聖句です。
マタイ4:4「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる。」
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