2012年1月8日
礼拝メッセージ


「天は神の栄光を語り告げ」
  聖書
詩篇19篇

19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。


  メッセージ
 個人的なことですが、私は、例えば南部丘陵公園の芝生に寝転んで、空を見上げ、雲を眺める時間が大好きです。
 空の最も高い場所に現れ、まるで筆で掃いたかに見える、透き通るようなすじ雲。秋の空に白い小石をばらまいたようないわし雲やうろこ雲。薄いベールで空を覆うかのようなかすみ雲。青空にぽっかりと浮かぶ姿を眺めていると、綿菓子やシュークリームを思い浮かべてしまう積雲。背が高くて、巨大な入道雲など、その形は多種多様。
 どれだけ見ていても飽きない気がしますし、その雄大さ、その面白い動き方に心奪われると、時の経つのを忘れてしまうことさえあります。
 加えて朝焼けや夕焼けの美しさと言ったらどうでしょう。また、同じ青空と言っても、春夏秋冬それぞれ独特の美しさがありますし、楽しめます。
 さらに、夕立の後にかかる虹の架け橋に、夜になったら夜になったで、満月に三日月におぼろ月、満ちては欠ける月の姿や夜空を飾る満点の星。
 雲にお月様にお星様。造り主の神が空に浮かべた物の、形や色彩の多種多様なこと、人間の予測を超えた自由奔放な動き等を見ていると、神様とは何とすばらしい芸術家であることか、と感嘆せざるを得ません。
 まさに、天は神の栄光を奏で、大空は神の創造を語り告げる、というこの詩篇の作者ダビデの告白に、私たちも同感ですし、大いに共感したくなります。

 19:1〜4a「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」

 科学者のアイザック・ニュートンは、自然を指して「第二の聖書」と言ったそうです。確かに天は物言わず、大空は沈黙しています。
 しかし、よく耳を澄ませば、雲も、月も、夜空に輝く星星も、これらを創造した神がいますことを語り、証ししていることが分るのではないでしょうか。声を発することのない自然が、まるで聖書のように雄弁に神の存在、神の栄光、神のすばらしさを、地上の私たちに語りかけてくるのです。
 けれども、天の勇者、大空の王者と言えば何と言っても太陽でしょうか。ダビデ王も特に太陽を指し、その雄大な姿を誉め歌います。

 19:4b「神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」

 ギリシャ神話ではアポロ、つまり男性を太陽神とし、日本の神話では、スサノオのみことのお姉さん、つまり女性が太陽神とされました。
 それでは聖書の詩篇はと言うと、花婿、勇士と言われているように、男性的です。「神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。」とは、夕方西に沈み、朝東から昇るまでの夜の間、神がもうけた幕屋、家の中に太陽が休んでいる、そんなイメージでしょうか。
 そして、一旦昇った太陽は、花婿のように喜び、勇士のように雄雄しく天空を走る。それも天の果てから天の果てまで全力疾走して、その発する熱はあまねく地上に届く、という力強さです。
 しかし、注意したいのは、詩人はいかに雄大で、力強いからと言って、太陽そのものを神としてあがめてはいない、ということです。むしろ、太陽を通して神の存在を思い、神を褒めたたえています。
 天の自然、大空の自然を通して、神の恵みを知り、神に親しんでいるのです。太陽の大いなる力を知ってこれを神とせず、むしろ、これを創造し、動かし、働かせたもう神の大いなる力を崇めているのです。
 これこそ、聖書の教える人間と自然と神との正しい関係でした。
 こうして大自然が語る神の栄光、特に太陽のすばらしさを歌ってきた詩人は、神が人間に与えてくださったすばらしいものと言えば、太陽以上にすばらしいものがあるではないか、と考えたのでしょうか。ここで、神の御ことば、聖書に思いを向けるのです。

 19:7〜9「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」

 主のみ言葉は完全で、確かで、正しくて、きよい。作者はことばをきわめて、かみのみことばを褒め称えていました。
 太陽はその熱によって人の体を暖め、活力を与えますが、みことばはそれ以上で、人のたましいを生き返らせ、わきまえのない者を賢くし、人の心を喜ばせ、人の眼を明るくする。人間のたましいにとって、神の御ことばは効果抜群、万能の力を発揮するもの、と賛美してやまない詩人でした。
 しかも、です。太陽は私たちの心に神の存在を感じさせたとしても、神を主として畏れる信仰を養うところまではしてくれません。ただ神の御ことばだけが、「主を畏れる」という人生で最も大切な、宝石のような知恵を私たちにもたらしてくれる。この告白にもアーメンです。
 しかし、圧巻は詩人ダビデのみことばへの親しみ、みことばへの愛でした。

 19:10,11「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」

 皆様は、旧約聖書の創世記に記された天地創造の記録や、出エジプト記にある「殺してはならない、盗んではならない」などと教える十戒や、レビ記に書かれたしち面倒くさい儀式に関する掟の価値は認めていることと思います。
 しかし、それらのことばを「金よりも、多くの純金よりも好ましい」とか「蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と感じたことはあるでしょうか。
 金と言うのは、この世で最も貴重なもののシンボルです。蜂蜜はこの世で一番美味しいもののシンボルです。
 果たして、私たちは、聖書創世記は自分が銀行にためている金銭よりも好もしい、十戒は自分の大好きなコーヒーを焙煎する香りやもぎたてのイチゴよりも食欲をそそる、そう告白できるでしょうか。
 私たちは愛する人のことばなら、いつも聞いていたい、近くにおいて親しみたい、それを大切に心に刻みたいと思うものです。
 果たして、自分はどれほど愛する神のことばとして、聖書に親しんできたか。詩人のように、神のことばを愛してきたか。ひとりひとりみことばと自分自身の関係を振り返るとともに、神のことばを読む者から親しむ者へ、神のことばを知る者から愛する者へと変えられたい、と願わされます。
 さて、いよいよ詩篇19篇は最終段落に移ります。神のみことばのすばらしさに思いを巡らしたダビデ王様が、今度は神の御ことばを鏡として面と向き合うと、自身の罪深さに思い至ることとなります。

 19:12、13「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」

 「だれが自分の数々のあやまちを(すべて完全に)悟ることができましょう」と言った詩人は、自分の眼からは隠れている罪、自分の良心も気づかない罪があることを知っていました。
 ですから、「どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」との告白は、「私は自分の罪を全部知っています。他の人や、神様、あなたから指摘されるまでもありません」と考える傲慢さから守ってください、そんな謙虚な願いを神にささげる詩人の姿とも見えます。
 そして、最初自然を通して神の創造を褒め称えた信仰者は、次に神のみことばへの愛を告白し、さらに神のみことばを前に自分の罪を深く思うと、最後は罪を贖い、赦してくださる神に頼る祈りをささげることとなります。

 19:14「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」

 こうして読み終えた詩篇19篇。今日私たちはふたつのことを覚えたいのです。ひとつは、私たち人間に与えられた最高の恵みとは何か、ということです。
 「人間は、自然の中で最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これを押し潰すのには宇宙全体が武装する必要はない。一つの水滴も、彼を殺すに十分である。 しかし、宇宙が彼を押し潰すときも、人間は彼を殺すものよりも尊いであろう。なぜならば、人間は自分が死ぬこと、宇宙が力において自分に勝ることを知っているからだ。宇宙はそれを知らない。だから我々人間の尊さは考えることにある。」
 これはパスカルと言うクリスチャンの科学者のことばです。少々小難しいことを言っていますが、要するに、人間は自然の中で最も弱い葦の様な存在だと言うこと、しかし、この世界がどのようなものかを考え、知ることができると言うことが人間の尊さだ、と言うのです。
 私たちは、この詩人のように、大空に浮かぶ月や星、太陽を見るにつけ、自分と言う者の小ささ、無力さ、弱さに圧倒されます。自然環境が少し悪くなるだけで、病に倒れ、死に至るのが人間なのです。
 しかし、神は、他の生き物にはないふたつの恵みを私たち人間に与えてくださいました。それは、この大自然を創造した神を知り、神に親しみ、神を褒め称えるという賜物、それと、神のみことばを手に取り、耳に聞き、思い巡らし、これを喜び、愛するという賜物です。
 皆様は、この賜物を感謝しているでしょうか。また、この賜物をどれ程活用してきたでしょうか。心の眼開かれて、自然の中にもっともっと神様の栄光を見る者となりたい。もっと神の御ことばに親しみ、これを喜ぶ時間を持ちたいと思います。

 申命記6:5〜9「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教えなさい。あなたが家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」

 ふたつめは、自分の罪を認める者となることです。「人の信仰の質は、その人が罪を犯した時にわかる」と言われます。
 人間の救いがたい性質は、罪を犯してもそれを隠したり、ごまかしたり、言い逃れようとしたりすることに表れます。しかし、私たちは自分の罪を心低くして神と人の前に認める者、告白する者でありたいのです。
 それ以上に、「自分に気がつかないでいる罪があるなら、いや自分にはきっとあると思いますので、それをもお赦しください」、と神に祈る者でありたいのです。
 そして、罪を認めたなら、自分に絶望するのでも、自分で何とかしようと傲慢になるのでもなく、ただひたすら神による罪の贖いに頼る者となりたいと思います。
 私たちの信じる神は造り主にして、みことばの主、また罪の贖い主にいますことを喜びつつ、新しい一週間の歩みを進めて行きたいのです。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師