2012年10月14日
礼拝メッセージ


「わたしが与える水は」
  聖書
ヨハネの福音書4章1〜19節

4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、
4:2 ――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。


  メッセージ
 「日本人は水と安全はただで手に入ると思っている」。皆様はこのことばをご存知でしょうか。以前、ベストセラーになった「日本人とユダヤ人」という本の中で、日本人とユダヤ人の考え方の違いのひとつとして、知られるようになりました。
 豊かな水に恵まれた日本と違い、厳しい自然の中を生きてきたユダヤ人にとって、水は大変貴重なもの。日本と異なり、隣国からの攻撃に脅かされることの多かったユダヤ人にとって、安全とは犠牲を払って確保するもの。その様な意味のことばです。
 今日の箇所は、この貴重な水を巡って、イエス・キリストとひとりのサマリヤ人の女性が会話を交わし、女性が救いに導かれてゆくという場面となっています。
 さて、今までエルサレムの都があるユダヤ地方で活動してきたイエス様ですが、一旦この地方から退き、活動の拠点を故郷ガリラヤに移そうと旅立ちます。

 4:1〜4「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」

 その頃、イエス様の弟子達は、ユダヤ地方でキリストの御名による洗礼を授けていました。洗礼を受け弟子となる人の数は日に日に増え、ついに、当時絶大な人望を得ていたバプテスマのヨハネの弟子を上回るほどの勢いとなったらしいのです。
 そのことが都に住む宗教指導者パリサイ人の耳に入ったのを知った時、イエス様はユダヤ地方を去って、ガリラヤに行かれたとあります。
 既に、イエス様はパリサイ人ら宗教指導者が、ご自分のことを快く思わず、敵視していることを知っていました。ですから、ここは彼らとの無用の衝突を避け、本来の目的である人々の心に神の救いを届ける活動に専念しようとした所、と考えられます。
 当時、ユダヤの国は、地図で言うと一番下、南にユダヤ地方、北にガリラヤ地方、その間にサマリヤ地方がありました。そして、ユダヤからガリラヤへ向かう道はふたつ。最短距離のサマリヤを通過するルートと、ユダヤからヨルダン川を渡り、一旦東側に出て、サマリヤを迂回する遠回りルートです。
 ヨルダン川の東の地方に用事のある人々は勿論、サマリヤ人を嫌う人々の中には遠回りルートを選ぶ者もいたと言われます。しかし、短い旅を好む人はサマリヤ通過ルートを選びました。どちらの道もよく使われていたということです。
 イエス様が選んだのはサマリヤルートです。しかし、もしそれが最短距離だからという理由なら、「サマリヤを通って行った」という表現で十分なはず。それを、聖書はわざわざ「しかし、主イエスはサマリヤを通っていかなければならなかった。」と語る。イエス様のサマリヤ行きには大切な目的があった、と教えるためです。
 では、イエス様の目的とは何だったのか。それは、この町に住むひとりの女性を神の救いに導くこと、彼女を通してサマリヤの人々に神の救いをもたらすことでした。

 4:5〜9「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――」

 「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」とある通り、ユダヤ人とサマリヤ人は長い間対立、時には争いにまで発展、深い溝ができていました。
 ここに名前が出てくるサマリヤ人の先祖ヤコブもその子ヨセフも、ユダヤ人の先祖でもあります。つまり、元々ユダヤ人とサマリヤ人とは共通の先祖を持つ同一民族でした。それが、何故兄弟喧嘩、骨肉の争いの関係となってしまったのか。
 発端はサマリヤが昔北イスラエル王国と呼ばれた時代。大国アッシリヤと戦って破れた為、人々は捕囚の民となってアッシリヤに強制移住させられ、代わりに、サマリヤには大量の外国人が移動し、彼らがサマリヤに残っていた民と結婚、混血したことです。
 さらに、彼らが外国の宗教、習慣を持ち込んだため、旧約聖書に立っていたサマリヤの宗教も異教の影響を受けます。ついにサマリヤ人はユダヤ人とは別の神殿を持つに至り、対立は決定的となりました。
 ユダヤ人は、血筋においても、宗教的にも汚れた者としてサマリヤ人を見下し、避ける。サマリヤ人はそんなユダヤ人を嫌う。そんな悲しい歴史のため、両者が互いに偏見なしに接するというのは、非常に難しいことでした。しかし、イエス様はそんな偏見とは全く無縁だったのです。
 また、当時の常識は男尊女卑。男性が、特に宗教の教師が自ら女性に声をかけ、教えることなど、常識はずれでした。
 それなのに、水を願う旅人としてへりくだり、ご自分の方から「わたしに水を飲ませて頂けませんか」と、ものを頼んだイエス様。それを聞いた女性が、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と驚き答えたのも、無理はなかったのです。
 罪から生まれた偏見や、世間の悪しき常識に捕われがちな私たちは、このイエス様の姿に教えられる必要があるでしょう。
 一方、女性の行動もどこか不自然です。と言うのは、彼女がやってきたヤコブの井戸はサマリヤの町の外れ、スカルと言う場所にありました。サマリヤの町中にも井戸は幾つもあったのに、彼女はわざわざ遠い場所にある井戸に足を運んだのです。
 さらに、時間は当時のユダヤ時間で第六時、今で言う昼の十二時。普通、水汲みと言う仕事は朝涼しい内に済ませる仕事だったのに、彼女は最も陽が高い、暑い時間を選んだ、と言うのです。
 何故か。町の人に会いたくなかったから、人目を避けていたからです。何故、人目を避けて行動したのか。女性が自分を恥じ、人目を避けて行動せざるをえないような問題を抱えていたからでした。そして、その問題をイエス様はご存知だったのです。

 4:17〜18「・・・イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」

 死別と言う不幸があったのか。我儘な夫で、一方的に離縁されてしまったのか。それとも、彼女の側に性格や行動の問題があったのか。いずれにしても、五人もの男性と結婚しながら全て上手くいかなかったことには、彼女の側の責任もあったと思われます。
 結婚に失敗し、今は夫ではない男性と同棲している自分を、町の人たちが「ふしだらな女」と思い、冷たい視線で見ていること、その様に見られても仕方のない恥ずべき自分であると、彼女自身が感じていること。
 そんな、彼女の立場、孤独、苦しみや悩み、恥ずかしさなど、すべてを知っていながら、いや知っていたからこそ、イエス様はサマリヤに来て、この女性を神の救いに導こうと、井戸の傍らに座り待っておられた、と思われます。
 イエス様の配慮は、これにとどまりません。この時、井戸に腰を下ろしていたのはイエス様お一人、弟子達は食べ物を買いに出かけており、いませんでした。これも、イエス様が弟子達に命じたことと考えられます。
 もし、弟子達に取り囲まれ、いかにも宗教の教師らしくしておられたら、その様な堅苦しい雰囲気の中で、女性が気安くイエス様と会話することはできなかったでしょう。
 こうして、女性が恐れも、気詰まりも感じることなく、気安く接することができるようになると、いよいよ、イエス様はことの核心に迫ろうとされたのです。

 4:10〜12「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』」

 「神の賜物」とは生ける水、人を永遠のいのちに生かす御霊のことです。そして、イエス・キリストは、信じる者に御霊を通して罪の赦しと限りなき愛、永遠のいのちを与えるため、天からくだって人となり、十字架に死んでくださった神であり、救い主でした。イエス様は最も大切なことをこの女性に話されたのです。
 しかし、女性は「生ける水」を井戸に湧き出る水と取りました。「先生、あなたは汲む物ももっていないし、この深い井戸の一体どこから水を汲むつもりですか。それとも、あなたはこの井戸を掘った私たちの先祖ヤコブよりも偉いのですか」。
 皮肉交じりの、余裕の答えと見えます。しかし、イエス様のへりくだりにより、女性はより心を開いていた、本心を言える状態になっていた、そんな兆候でもあります。
 そこで、今度はご自分が与える水について、はっきりと説明されました。

 4:13〜15「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」

 女性は、イエス様が与えてくださる水についてまだ誤解しています。イエス様は永遠のいのちへの水と教えていますのに、女性の方は、「どこかの井戸にある水をください」と頼んでいるからです。
 しかし、この答えの中には、女性の苦しみが込められていることを、聞き逃してはならないでしょう。
 五人もの男性と結ばれながら、全てが破綻した悲惨な結婚。今は、ただ生活をともにしている男性がいると言うだけの、人目を恐れる、寂しい同棲生活。自分でも恥ずかしくなるような歩みだったでしょう。
 ですから、ここで女性は「この様な遠くにある井戸ではなく、もっと近くに、もっと人目につかず水を汲める井戸があるなら、それを教えて欲しい」と、求めているのです。
 しかし、それは現実逃避です。一時的にあるいは表面的に女性の心を楽にするものでしかありませんでした。イエス様が言われたように、井戸の水で女性の人生の問題は根本的に解決しないのです。
 そこで、本当に必要な水は、ご自分が与えることのできる、永遠のいのちへの水であることに彼女自身が気づくため、その内面に切り込みます。

 4:16〜19「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。』」

 触れられたくないことに触れられた女性は、素っ気なく「私には夫はない」と答えました。しかし、それでもイエス様は彼女の問題をずばり指摘しています。
 彼女を責めているのではありません。彼女が人に知られたくなかった問題の全てを知った上で、彼女を愛し、彼女に永遠のいのちへの水を与えるため来られた救い主がここにいる、目の前にいる、それを知ってもらうためでした。
 さて、今日の箇所から、イエス・キリストについてふたつのことを、私たち確認したいと思います。
 第一に、イエス・キリストは、人種の違いや様々な障害に対するこの世の偏見に捕われず、人を愛してくださるお方、そればかりか、今日の女性の様に、本人の責任で罪を犯し、世間から嫌われている人にも真剣に向き合い、愛してくださるお方だということです。
 私たちは、しばしば自分の社会的立場や能力、容姿を人と比べて、自分を恥じます。また、毎日罪を犯します。
 もし、自分の思い、願い、欲望、口から出たことばや行いの全てが記録されていたら、それが人に知られたら、どんなにか恥ずかしいことかと思います。この様な自分は責められて当然、とても神に受け入れていただくことなどできないと感じ、失望する時もあるでしょう。
 しかし、そのような時は、このサマリヤの女性を受け入れ、本当に大切な存在として、愛してくださったイエス・キリストのことを思い出したいのです。イエス・キリストは自分自身の罪に苦しむ者の近くにいてくださることを覚えておきたいのです。
 第二に、私たちの心を本当に満たし、生かすのは、イエス・キリストが御霊を通して与えてくださる永遠のいのち、つまり罪の赦しと限りない愛だけだということです。
 サマリヤの女性はそれが分からずに、一時的、表面的に自分が楽になれる井戸の水をくださいと求めました。それを手に入れても、自分を恥じ、人目を避ける生き方そのものは変えられないのにです。
 私たちも同じことをしていないでしょうか。お金、名誉、物、薬など、一時的に楽になり、心満たしてくれそうなものをこの世に求めて、もがいているのです。しかし、私たちが自分を恥じることなく、自分の価値と生きる目的を知り、喜んで生きるためには、十字架のイエス・キリストから罪の赦し、無限の愛、永遠のいのちを受け取る必要があるのです。日々イエス・キリストから生ける水を受け、飲む者となりたく思います。

 詩篇34:18「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師