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メッセージ
私が四日市に住む恵みの一つと感じるのは、水道の水が美味しいということです。以前住んでいた東京の水道水よりも遥かに美味しく感じます。四日市の町は水源の鈴鹿マウンテンに非常に近いから、美味しいのだそうです。
ところが、京都大阪などの人に言わせると、関西の水は東京の水よりももっと不味いと言う。「飲めたものではない」と言う人もいる。琵琶湖が水源だからと言われます。
しかし、世界を見渡すと、安心して水道の水を飲める国はそれほど多くなく、水道が全く整備されていない国さえある。そう考えると、日本人は何と水に恵まれていることかと思います。
水は生命を支えるために欠くことのできないもの。疲れきった体に新しい力を与え、渇ききった体に潤いを与えるものです。しかし、昔ユダヤの国はしばしば旱魃に襲われ、人々は水の乏しさに苦しみました。だから彼らは水を貴重な恵み、命の源と考えたのでしょう。聖書は、水を人の心を癒すもの、人に新しい命を与える神の御霊のシンボルと教えています。
ヨハネの福音書第四章は、ユダヤ地方を去りサマリヤにやって来たイエス様がひとりの女性と、水を巡って会話するという場面から始まります。所謂「サマリヤの女」と呼ばれる所。今日は、先週に続いて二回目となります。
さて、サマリヤ郊外にあるヤコブの井戸に辿り着いたイエス様は、疲れ果て、腰を下ろしました。そこに、ひとりのサマリヤの女がやってきます。
すると、イエス様は渇きを潤す水が欲しいと頼み、これに女性が非常に驚きます。何故なら、その頃ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑、差別していたからです。また、男尊女卑が意識された時代、男性特に宗教の教師が見知らぬ女性に物を頼むのも珍しい事でした。
一方、この女性はどんな人だったのか。水汲みという労働は、朝か夕方の涼しい時に行うのが普通でしたのに、ユダヤ時間の六時、今で言う昼の十二時という暑い盛り、それも町中の井戸は使わず、わざわざ外の遠い井戸を訪れている。
明らかに人目を避ける行動でした。イエス様はそれを既にご存知でしたが、彼女は五人もの男性と結婚しながら、全て破綻。今は正式な結婚関係にない男性と同棲していたため、ふしだらな女として、町の人から冷たい視線を向けられていたのです。
ですから、水を求める一人の旅人として物を頼むという、イエス様のへりくだった、ごく自然な態度が女性の警戒心を解き、その心を開かせた、と考えられます。
事実、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の女の私に水を求めるのですか」、「先生、あなたは汲む物もないのに、どうやって水を汲むつもりですか。あなたは、この井戸を掘った私たちの先祖ヤコブよりも偉いのですか」など、彼女のことばはからかいを含んだ余裕の答えと見えます。
しかし、人の命を霊的に、新しく生かす水のことを言われたイエス様に対し、井戸の水のことしか考えない女性。平行線でした。そこで、イエス様、今度はずばりと語り、女性の心に近づいてゆきます。
4:13〜15「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」
「このヤコブの井戸の水を飲んでも人の心は渇きます。しかし、私が与える水は人の心を満たす永遠のいのちへの水です」。そう言われたイエス様に対し、「私の喉が渇くことがなく、人を恐れて、もうこんな遠くまで汲みに来なくてよい様に、その様な井戸の場所を教えて下さい」と答えた女性。
彼女が願ったのは、簡単に人眼を避けられ、ヤコブの井戸より近く、今よりも楽に水を手に入れられる井戸でした。しかし、その水は女性の生活をほんのひと時楽にするものでしかなかったでしょう。自分を恥じ、世間を恐れる生活。その根っこにある問題を解決することのできないものを、彼女は求めたのです。
イエス様のことばは今度も女性の心を素通りしたかに見えます。しかし、井戸の水とは言え、彼女の方から願い求めたことは心の変化を感じさせます。今まで水を与える立場にいた女性が、イエス様に水を求める者となったからです。
これを見たイエス様、今度はずばり女性の心に切り込みました。彼女が触れて欲しくないと思っていた問題に光を当てたのです。
4:16〜19「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。
』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。』」
女性は「私には夫などいません」と素っ気なく答え、これ以上問題に触れるな、とサインを出しました。痛い所を突かれると、私たちも同じことをします。それにも関らず、イエス様が女性の問題を明らかにすると、驚くべきことに、彼女は「先生、あなたは神のことば私に語る預言者だと思います」と告白したのです。
ひとりの旅人から宗教の教師へ、そして神の預言者へ。イエス・キリストに対する彼女の思いは大きく変りました。これは、女性が隠していた罪の問題、自分を恥じ、人を恐れてきた生活、冷たい視線にさらされてきた辛い立場、それら全てを知った上で、へりくだり、忍耐深く、本気で神の救いに導こうとされたイエス様の愛を彼女が知ったから、信頼したからと考えられます。
こうして、自分の罪を認めた女性は、罪の赦しを求めて神に近づき、神を礼拝したいとの思いに導かれたのでしょう。神を礼拝すべき場所について尋ねました。
4:20〜24「『私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから(つまり、救い主はユダヤ人から出るということを)、わたしたち(ユダヤ人)は知って礼拝していますが、あなたがた(サマリヤ人)は知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。(救い主であるわたしがこの世に来た)今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」
最初神殿があったのはユダヤの都エルサレム。しかし、元々同じ民族でありながら、ユダヤ人と対立を繰り返してきたサマリヤ人は、ある時からサマリヤの町に近いゲリジム山に神殿を建設し、両者の溝は決定的となりました。
ユダヤ人は、エルサレム神殿こそ正統な神礼拝の場所と主張し、嫌われ者のサマリヤ人はゲリジム山の神殿を誇りとして、双方譲らない。女性の問いの背景にはこの様な事情があったのです。
しかし、ここにイエス様はエルサレムかゲリジム山かと、礼拝の場所に拘る時代は終わったと宣言しました。そして、今神が求めるのは礼拝の場所ではなく、霊とまことにより神を父と信頼して礼拝する真の礼拝者ですよ、と教えられたのです。
霊とまことにより神を礼拝することが肝心要。この単純なイエス様の宗教は、礼拝の場所に悩んでいた女性の心を自由にしました。そして、イエス様は「あなたの様に神から遠く離れ、罪の道を歩んできた者も、神を父として信頼して近づき、親しく交わることができるのだよ」と励ましたのです。
ところで、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」という有名なことばは何を意味しているのでしょうか。
「神は霊ですから」とは、神が人間の眼には見えない人格的存在であり、私たち人間が神を父として知り、信頼し、礼拝する、その様な人格的交わりを何よりも大切にし、求めておられるお方ということです。
また、「霊とまこと」については様々な解釈がありますが、ここでは「霊」を御霊・の神、「まこと」を私たちの心の真実と考えたいと思います。
御霊が私たちに、イエス・キリストの十字架の死によって罪が赦され、きよめられたこと、神の子とされたこと、神が父であることを教えてくださるので、私たちは神を礼拝することができるからです。
そして、御霊がイエス・キリストの十字架において表された神の愛を心に注がれたので、私たちはまことをもって、すなわち全身全霊で神を礼拝する者となったからです。
こうして、イエス様から、神の求める礼拝者について教えられ、励まされた女性の心には、「このお方が救い主では」との信仰が芽生えたのでしょうか。「自分も救い主が来るのを知っている」と告げました。
4:25,26「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
「あなたと話しているこのわたしがキリストと呼ばれるメシヤ、救い主です」。聖書広しと言えども、イエス様が個人的に、親しくご自分のことを教えている人は、他にいません。もって、この罪深き女性に対するイエス様の愛を思うべきところです。
私たちが次に見るのは、イエス・キリストを信じ、神を父として礼拝する恵みを受けた女性の人生が、いかに大きく変えられたのか、その姿です。
4:27〜30「このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、『何を求めておられるのですか。』とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。』とも言わなかった。女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。』」
買い物から戻った弟子達は不思議に思ったとあります。サマリヤ人への偏見、それに宗教の教師が女性を教えることなど論外とする当時の常識に捕われていた彼らにすれば、イエス様と女性の親しい交わりは不思議であり、驚きだったでしょう。
しかし、そんな弟子達の姿を見ても、女性はもはやユダヤ人だからと恐れてはいません。イエス・キリストにより永遠のいのちへの水、つまり神による罪の赦しと無限の愛を受け取ったからです。
むしろ、新しく生かされた女性は、彼女を嫌っていた人々、彼女も避けていた町の人々のところに出かけていきます。そして、自分にとって最も大切なお方イエス・キリストを紹介したのです。
「この方がキリストなのでしょうか」ということばは、女性の不確か信仰を表すとも言われます。しかし、そうではないでしょう。女性自身はイエス様が救い主であることを信じていましたが、今までの自分の立場を意識して、控え目な表現を選んだと考えられます。
事実、彼女の証しがいかに説得力があったか。それは、実際にサマリヤの町の人々がイエス様のところにやってきたとのことばからも伺われます。キリストにより新しく生まれ変わり、喜んで証をする女性の姿が眼に浮かんできます。
さて、今日の箇所から、私たちが教えられたことをふたつ確認したいと思います。
ひとつは、神の救いを求める者は、先ず自分の罪を認めること、それが救いがたく、ひどいものであることを認める必要がある、ということです。
サマリヤの女性は、イエス・キリストが指摘するまで、自分の罪が本当に救いがたく、神の救いが必要であることを認めていませんでした。何故でしょうか。
私たち人間は自分の罪を思っても、それを人のせい、社会のせいにします。「あの人がこんなことをしたから」「親が悪い、夫が妻が悪い」と言い訳し、「社会の流れだから」と責任転嫁をはかります。さらに、自分の罪を他の人と比べて考え、「他の人だって同じようなもの、程度の問題」と相対化するのです。
サマリヤの女性も同じような思いを抱いていたことでしょう。しかし、彼女はイエス・キリストに出会い、初めて心の暗闇にあるものすべてを知りたもう聖なるお方を知りました。イエス・キリストの聖なる眼から見るなら、自分の罪がいかに救いがたく、酷いものであるかを悟った、いや悟ることができたのです。
私たちも自分の罪を責任転嫁することなく、人と比べるのでもなく、聖なるお方の眼の前に置いて悔い改める、本来なら自分こそ十字架で罰を受けるべき酷い罪人、腐った罪人と思い、心から十字架の罪の贖いに頼る。日々、その様な歩みをなしてゆきたく思います。
ふたつ目は、神を礼拝する者とされたことの恵みです。イエス・キリストの十字架の恵み、罪の赦し、限りなき愛、神を父と知り交わること、これら全ての恵みは、御霊が私たちひとりひとりの心に届けてくれたものです。御霊は、いつ、どこにいても、これらの恵みで私たちの心を新しくし、神に向かわせてくれる助け主なのです。
皆様は、イエス・キリストと御霊とがともに全身全霊仕えてくださるからこそ、神を父と呼んで礼拝できる。この恵みの大きさに感謝しているでしょうか。この驚くべき恵みを覚え、霊とまことにより、毎週主の日には、神を礼拝する者となりたいのです。
また、この恵みを私たちはどれ程活用しているでしょうか。教会の礼拝はもちろん、職場、家庭、移動する電車の中、また朝目覚めた時、昼働く時、夜眠る前、場所も時間も関係なく、自由に、親しく神と交わる恵みを用いているでしょうか。
私たち人間は良く交わる者から最も影響を受ける、と言われます。御霊に助けられて、いつでも、どこでも、どんな状況でも神と交わり、心新しくされ、なすべきつとめに励みたい。そう願わされます。今日の聖句です。
ヨハネ4:24「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
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