2012年10月28日
礼拝メッセージ


「どうしてうまくいかないのか」
  聖書
ローマ人への手紙6章23節

6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


  メッセージ
 私たちは生きている間に、様々なものを失います。失くしたら困るのに、それでも紛失してしまう代表格と言えば、財布、携帯電話、鍵、定期券などでしょうか。私自身の経験で思い起こされるのは、大学生の時。通学用に50CCのバイクを購入しようと決め、アルバイトで貯めたお金を銀行から下ろしました。家の近所のバイク屋に行ったところ、その日は臨時休業。翌日には購入するつもりでいたのですが、なんと、その日に財布を落としました。しばらくは財布が見当たらなくても、まさか紛失したとは思わない。思いたくない。しかし、どこを探しても出て来ない時に、あまりのことにしばらく茫然としたことがあります。持っているものを失うというのは、なかなか大変なこと。大学生であった私にとって、十数万円入った財布を失うのは大変な痛手でした。
 しかし、所有物を失うことよりも、より痛手となる喪失があります。仕事や地位を失う、信頼を失う、大切な人間関係を失う。家族や仲間を失うこともあります。生きるというのは大変なこと。私たちは、様々なものを失いながら生きています。いかがでしょうか。「失ったもの」と聞くと、何が思い出されるでしょうか。

 今日の礼拝のテーマは「私たちが失ったもの」です。「失ったもの」に焦点を当てました。本来ならば、「得たもの」「得るもの」に焦点を当てたいところ。「失ったもの」に焦点を当てるのは、後ろ向き、ネガティブな印象があります。
 実際、私たちは生きている間に多くのものを失いますが、同時に多くのものを手に入れます。悲しみや喪失感もありますが、喜びもあります。それでも、今日は「私たちが失ったもの」に焦点を当てようというのです。
 何故か。それは聖書の重要な教えの一つが、「私たちは大切なものを失っている」というものだからです。最も多くの言語に訳され、最も多く発行された本。世界中の文化、社会、人に多くの影響を与えてきた本。聖書の重要な教えの一つが「私たちは大切なものを失っている」というものです。そこで、今日はこの聖書の重要な教えが、具体的にどのようなことなのか。私たちは何を失っているのか。確認していきたいと思います。

 私たちは何を失ったのか。それを探るのに、どこから考えたら良いのかというと、この世界と、私たち人間がどのような存在なのかというところからです。聖書には、このように記されていました。
 創世記1章31節
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 これは神様によって世界が創られた時のことが記されている箇所。この世界が造られた当初、人間を含め、非常に良かったと言われています。何が、どのように良かったのか。聖書によりますと、神様はこの世界を人間中心に創られました。この世界は、人間の住みかとして非常に良かったのです。

 それでは、なぜ他の生物ではなく、人間が中心なのか。聖書にはその理由も出てきます。
 創世記1章27節
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 「神のかたち」に創られた人間。その意味するところは、神を知ることが出来る、神を愛することが出来る存在であるということ。この点で、人間は他のあらゆる生き物と異なります。「神のかたち」に創られた。神を知ることが出来る存在。神を愛することが出来る存在として創られた。
 他の生き物は、この世界を創られた神様を知ることが出来ない。この世界の素晴らしさに気が付かない。「神のかたち」に創られた人間は、この世界の素晴らしさに目と留め、それを喜び、楽しむことが出来る。そして、この世界を創られた神様に感謝することが出来る存在として創られたのです。人間が世界の中心であるというのは、このような意味です。
 どれ程素晴らしい絵画があったとしても、それを見て、素晴らしいと思う存在がいなければ、その絵画は意味のないものになってしまう。非常に良く造られた世界は、それが自分のためであることを理解し、それを喜ぶ存在がいてこそ、意味のあるものとなります。

 この世界は人間を中心に創られた。私たち人間は、神様との関係の中で生きるために創られた。聖書はこのように教えていますが、皆様はこの教えにどのように応じるでしょうか。現代の日本では、この世界や私たちの存在理由について、明確な答えを出すことは殆どありません。何しろ、偶然の積み重ねで今の世界があり、私にとって最も良い生活をすることが最上であるとする風潮が蔓延しています。しかし、聖書の教えることが真実だとすれば(私は真実だと信じているわけですが)、世界を創られた神様を抜きに生きていくことは、目的に沿わない人生となっていることを意味します。

 「目的に沿わない存在」。皆様はどのようなものを想像するでしょうか。
 少し前のことですが、「Gショック」という腕時計が流行ったのをご存知でしょうか。(最近、また人気が復活してきたそうですが。)壊れにくいという特徴があります。当初は、10メートルの高さから落としても壊れないことを目標に作られたものですが、次第にその強度は増し、トラックに踏まれても壊れないものまで作られました。更に防水加工のものがあり、水に落ちても壊れない。非常に壊れにくい腕時計です。
 ある人が防水加工の「Gショック」を付けて海水浴に行きました。水に入っても壊れない。人にぶつかっても壊れない。付けたまま海水浴が出来る。ところが、海から出てきたら、手に付けていたはずの「Gショック」がなくなっていました。泳いでいるうちに、海の中に落としてしまったのです。さて、その「Gショック」の腕時計は、壊れているでしょうか。壊れていません。何しろそう簡単には壊れないのです。海の中で、正確に時間を刻んでいるはずです。しかし、どれほど正確に時間を刻んでいても、意味のない存在になりました。何しろ、腕時計というのは、人がそれを見て何時なのか分かるために存在しているのです。海の中にあっては、その目的を果たせない。「海の中のGショック」は、「目的に沿わない存在」です。
 腕時計は意識がないので、目的に沿わない存在となっても故障しません。しかし、これが人間の場合。人間が目的に沿わない存在となった場合。つまり、この世界を創られた方を抜きに人生を生きる時、大変な影響が出ます。どのような影響でしょうか。

 もともと、この世界を創られた神様との関係の中で生きることが最大の喜びであったのに、その神様との親しい関係を失います。自分には何かが足りない。自分の人生に満足出来ないという思いを持たれたことはあるでしょうか。その思い、その感覚は正常なものです。何しろ、本来味わうべき喜びを味わっていない。そのため、お金を集める、地位や権力に執着する、あるいは異性や快楽に走る、はたまたお酒やギャンブルにはまる。それらでは結局満足出来ないのに、何かが足りないと思い続ける人生となります。これは大変なことです。

 また目的を持って創られた世界であるのに、その世界を創られた方を抜きに生きると、本来の使命が何なのか分からなくなります。そのため、何を目指して生きたら良いのか分からない。今の自分の生き方が有意義なものなのか判断がつかない。自分で、自分の人生は有意義である、自分には存在理由があると思わないといけない。私たち人間にとって、存在理由を確信出来るかどうか。非常に大切なことですが、その確信を失うことになります。

 また、本来ならば何が善で何が悪なのか。この世界を創られた方がいるならば、その方が定めるべきですが、この神様を抜きに生きるというのは、自分が判断基準となることを意味します。自分が判断基準となると、私たちは自分には甘くなります。三浦綾子さんという方が本の中で記していました。「大切なお皿がありそれを家族が割った場合、怒り、罵倒する。しかし、自分が割った場合、お皿の寿命だったと思う。」このような経験はありますでしょうか。
 お皿のことだけであれば、まだ良いのですが、自分が判断基準となるというのは、言葉を換えると、自己中心となるという意味です。何が善で何が悪かよりも、何が得か、何が損かで生きるようになる。皆が皆、自分にとっての損得で生きるようになると、多くの悲劇を生みだすことは、今の世界を見れば良く分かります。

 人間が目的に沿わない存在となると、私たちがこの地上での生涯を終えてから。私たちが死んだ後にまで大きな影響を与えると聖書は言います。聖書によると、私たちの生涯の後、行き先は二つのうちのどちらか。天国で神様との関係の中で生きるのか。神様との関係が完全に絶たれるところで生きるのか。もともと、神様との関係の中で生きるように創られたのに、その目的に沿わないままでいると、やがて神様との関係が完全に絶たれたところで生きることになる。簡単にまとめると、天国で暮らす特権も失うということです。

 今日の礼拝のテーマは「私たちが失ったもの」。聖書の重要な教えの一つが、「私たちは大切なものを失っている」というものですが、私たちが何を失ったのかと言えば、神様との関係の中で本来持っているはずの良いものを失っている。神様との親しい関係、自分の存在理由、あるべき生き方、天国で暮らす特権。これらを私たちは失っているというのです。私たちは大変良いものを失った状態にある。聖書はこのことを次のように表現していました。

 ローマ6章23節
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ここに「罪から来る報酬は死です。」と出てきます。「罪とは何か。」一般的な日本人は、罪と聞くと、法律に反すること。あるいは法律に反しなくても、道徳的、倫理的に間違ったことをすることと考えます。
 そのため、「あなたは罪人です。」という聖書のメッセージは、不人気。多くの人にとって、受け入れがたいものです。罪と聞いて、「私は罪人ではない。私は警察に世話になったことがない。」と言う答え。「罪人とは失礼な。私はクリスチャンと言われる人よりも、道徳的な生き方をしています。」と言われる方もいらっしゃいます。私などよりも、義理堅く、人情が厚く、道徳観、倫理観が優れている方、多くいらっしゃると思います。
 しかし聖書がいう罪の本質は、この世界を創られた方を抜きに生きること。神様から離れる。神様を無視することを意味します。ここまで使った言葉で言うならば、目的に沿わない生き方ということです。ですので、法律に背くことなく、道徳観、倫理観がどれ程優れていたとしても、この世界を創られた神様を抜きに生きるならば、その方は立派な罪人だということです。

 そして、その神様を抜きに生きる時、その結果は死を招く。その報酬は死であると言います。私たちが死と聞きますと、心臓が止まり、そのままにしておくと腐っていく。肉体の死をイメージします。しかし聖書のいう死は、肉体の死だけではありません。宗教色の強い言葉になりますが、霊的な死も意味します。霊的な死。これが、先程お伝えした、大切なものを失った状態です。神様との親しい関係、自分の存在理由、あるべき生き方、天国で暮らす特権。これらを失った状態が、霊的に死んだ状態です。

 「罪から来る報酬は死です。」この言葉を今日の話の文脈に沿って換えると、「神様抜きに生きる時、多くのものを失います。」という意味です。私たちが自分の人生でうまくいかないと思う。生きるのが大変に感じる。その根本的な原因は、神様抜きに生きることにある。いかがでしょうか。このような聖書の教えについて、どのような感想を持つでしょうか。その通りだと思うでしょうか。奇想天外な話と感じるでしょうか。

 このような、大変良いものを失った状態にある私たちに、神様はプレゼントを下さっていると聖書は教えていました。もう一度、お読みいたします。
 ローマ6章23節
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ここに「キリストイエスにある永遠のいのち」と出てきます。この永遠のいのちというのは、先程言いました死と対になることです。つまり、死んだ状態にある私たちに命が与えられる。大切なものを失った状態にある私たちに、再度、その大切なものを与えて下さるという意味です。
 キリストイエスを私の救い主と信じる者には、この永遠のいのちが与えられる。神様との親しい関係の回復が与えられる。自分が何のために生きているのか、どのような使命があるのか。理解して生きることが出来るようになる。自分の価値、隣人の価値を理解し、命の大切を味わいます。更には死んだ後のこと。天国で暮らす特権を手にします。これら人間が人間として生きてゆく上で最も重要なものを手にする。その救いを、イエス・キリストがもたらすというのです。
 今日、これまで話しましたこと。世界の造り主から離れ悲惨な状況にある私たち。その私たちを救いだす救い主が送られてきた。イエス・キリストを私の救い主として信じることで、私たちは失ったものを再度手にすることが出来る。このれが、キリスト教の中心中の中心のメッセージ。聖書の中心中の中心のメッセージです。このような聖書のメッセージを皆様はどう思うでしょうか。真実と受けとめるでしょうか。フィクション、お伽噺とするでしょうか。

 これまで、この話を本気で信じた者が、この話を世界中で伝え広めました。二千年間、伝え広めてきました。時代や場所によっては、この話を信じること、この話を伝えることで命の危険となることもありました。実際に、命を落とした者も多くいます。それでも、この話は世界中に広まり、今はこの四日市にまで届いています。今日は、この話を本気で信じた私が、皆様に伝える番となりました。

 今日初めて来て下さった方、久しぶりに来られた方に申し上げます。聖書の視点から言うならば、自分が大切なものを失っている。あるべき状態にないと自覚することは、重要なこと。その自覚がないというのは、どれ程人生が苦しく大変であっても、人生とはそのようなものだと考えることになるからです。「私たちは大切なものを失っている」そして、「その私たちがあるべき状態に戻る道が用意されている。」この聖書のメッセージに、向き合い、応じられることを心からお勧めいたします。

 普段教会に来られている方、クリスチャンの方に申し上げます。キリストを信じた私たちは、永遠のいのちを頂きました。あの失ったものを回復したのです。それが、どれ程凄いことなのか。その喜びを味わいながら生きているでしょうか。永遠のいのちを楽しんでいるでしょうか。まるで、永遠のいのちを持っていないかのような生き方になっていないでしょうか。神様が下さった世界として、神様との関係の中でこの世界を喜び楽しむこと。自分に与えられた使命を神様との関係で理解して、その使命を全うしていくこと。自分の価値、隣人の価値を理解し、その存在を尊ぶこと。更には、地上での生涯の後、天国で暮らす希望に溢れて生きること。それが、永遠のいのちを持つ者の生き方でした。私たち皆で、この永遠のいのちを持つ者として生きることを心から願います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師