|
メッセージ
アメリカのある牧師の本に、信仰について考えさせられるひとつのエピソードが載っていました。
その教会には、七十歳になる八百屋さんがいて、信仰の人、善意の人として評判でした。当時町では鉱山のストライキが頻発、苦労する鉱夫たちに同情した八百屋さんは、店の品物を全部掛売りにしてあげた為、遂に店は倒産してしまったと言うのです。
そして、それが信仰の問題になりました。というのはその八百屋さん、何故これほど神のため、人のために尽くした者が、酷い目にあわなければいけないのか。神を信じている自分の生活は、神が特別に守ってくださると信じていたのに、神に裏切られた思いがする。その様に牧師に訴えたというのです。
確かに、苦労している人を助ける愛の行いは、神の喜ばれることであり、この人が善意の人であったのは間違いないでしょう。
しかし、肝心の愛の行いを続けてゆくためには、店の経営にも意を用いる必要がありますのに、それを考えず、「神が何とか守ってくれるだろう」と信じて進むというのは、果たして聖書の教える信仰でしょうか。
神の特別な守りを信じて、それが起こらないと神に不平を言うというその姿は、神を信じる者というより、自分の勝手な信念を信じる者と見えます。神信頼ではなく、自己信頼と言えるでしょうか。
それでは、聖書が教える信仰とはどの様なものなのか。信仰は私たちの人生にどんな影響を与えるのか。今日の物語を通して考えてみたいのは、この信仰の問題です。
さて、今日イエス様の前に登場するのはお役人。それも、6当時一世を風靡していたユダヤの王ヘロデの王宮に仕えるという高級役人でした。
4:46,47「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。」
重病を患う息子を心配しない親はいません。息も絶え絶えに苦しむ息子のためなら、なし得る限り手を尽くすのが親というものでしょう。
しかし、すでに王宮では尽くすべき手を尽くし、万策尽き果てたのでしょうか。このお役人、愛する子どもを助けて欲しい一心で、イエス様のもとに自ら足を運びました。
カペナウムからガリラヤのカナまでは、およそ30キロ。休まずに一日歩き続けなければならない道のりです。
その間、お役人の頭からは地位の事も、名誉の事も消え去っていたでしょう。ただ「イエス様に息子を助けてもらうのだ」という願いひとつを抱いて、急ぎ足でカナの町にやってきたのです。
しかし、「我が息子をどうぞお助けてください」と頭を下げるお役人に対するイエス様のお答えは、一見断りのことばとも感じられます。冷たく響くのです。
4:48「 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
イエス様は役人の心中を知っていました。彼が助けを求めてきたのは、以前カナで行った「水をぶどう酒に変える」というしるし、奇跡について聞いたから、また、都エルサレムで行われた奇跡の評判を聞きつけ、期待してのことと見抜いておられたのです。
「あなたがた」とあるのは、こうしたしるし信仰、奇跡信仰が、ひとりこの役人にとどまらず、周りにいた人々一般に見られたからと思われます。
それにしても、普通お役人と言えば、気位が高く、プライドの塊。権威をかさにきて、人を呼びつけることなど何とも思わない。そんな人が多いと思われますのに、この人はわざわざ遠路遥々足を運び、自ら頭を下げイエス様に願いました。
それに対して、お断りとも見えるイエス様の答え。普通のお役人だったら、怒り心頭、席を蹴り、即座に立ち去ったことでしょう。
しかし、この人は逆でした。むしろ、膝を屈してへりくだり、「主よ」とすがりついたのです。
4:49「その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
「イエス様、ご指摘の通り、私がここに来たのはあなたのなさる奇跡を期待してのことでした。しかし、今心の中をずばり指摘され、私はあなたが主、神から遣わされた救い主であることを信じます。ですから、どうか子どもに息があるうちに、カペナウムに下ってきてはいただけないでしょうか」。ここは、そんな思いを込めた言葉と読めます。
イエス様は、身を低くして「主よ」と呼ぶお役人の心に信仰が芽生えたのを喜ばれたでしょう。しかし、この信仰もイエス様の眼から見るなら、まだ未熟、小さすぎました。
イエス・キリストは、このお役人が信じるより遥かに大きな業をなしうる全能の神、彼のことも、彼の子どもの事もよく知り、これを愛したもう救い主であられたのです。
ですから、ご自身のみ力と愛とを示し、この人の心に芽生えた小さな信仰をさらに成長させ、高め、確かなものとするため、イエス様が発したのが、驚きの一言でした。
4:50「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」
「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」。キリストの奇跡を期待して集まってきた人々にしてみれば、ことばによる癒しの約束など、拍子抜けもいいところだったでしょう。それより、彼らが驚いたのは、イエス様のこのことばをまともに信じて、本当に帰途についたお役人の行動と考えられます。
「見ろよ。あのお役人、イエスが口にした、あんな信じられない、馬鹿げたことばを信じて、帰ってゆくらしいぞ。一体何を考えているんだか」。
しかし、人々の冷ややかな眼が向けられる中、足を踏み出したお役人の心に迷いは無かったように見えます。この時、お役人の心に宿っていたのは、奇跡、しるしを見て信じる信仰ではなく、キリストのことばを心に受けとめ、信じ、従う信仰でした。
私たち人間同士でも、相手の語ることば以外何の証拠も無い時、そのことばを信じるということは、余程相手に対する深い信頼が無ければ難しいことと思えます。しかし、この時、しるしを見ての信頼ではなく、ことばを聞き、受け入れ、イエス・キリストご自身を信頼するという真の信仰への第一歩をお役人は踏み出したのです。
そして、その様な信仰は、帰り道の途中出会ったしもべたちのことばによって、さらに強められました。さらに、彼の家族全員が同じ信仰に与るという、思ってもみなかった祝福をこの人は受けたのです。
4:51〜54「彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、『きのう、七時に熱がひきました。』と言った。それで父親は、イエスが『あなたの息子は直っている。』と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。」
「七時」とはユダヤ時間の「第七時」のこと。今で言う午後一時です。その時刻が、あのおことばを頂いた時と一致することを知ったお役人は、息子の癒しがイエス様の業であることを確かめ、感謝の声を上げたに違いありません。
イエス・キリストが自分たち家族の苦しみ、悩みを知り、あわれみ、愛してくださった救い主の神であることを仰いで、賛美したことでしょう。
ここまで読んできますと、何故イエス様が最初厳しく語りかけ、次にお役人の願いどおりカペナウムに行かず、ただおことばだけを与えたのか。そのお心が理解できるように思います。
もしイエス様が、お役人の願う通り行動していたとしたら、どうなっていたのか。
子どもを癒していただいたことへの感謝。眼の前で行われた奇跡への感動。イエス様と彼との関係は、その様なひと時のものに終わってしまったかもしれません。
しかし、イエス様の導きにより、この人は本当にイエス様を救い主の神と知ることができました。そのおことばを本気で受けとめ、信じ、考え、行動するという新しい生き方を始めることができたのです。
この様なイエス・キリストとの関係、新しい生き方こそ、お役人とその家族の生涯にわたる宝物になったと考えられます。
ルカの福音書には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」(8:3)という女性が登場し、自分の財産をささげて病める人、貧しい人に仕えたとあります。この「ヘロデ家の執事クーザ」が今日のお役人、同じ信仰を恵まれた妻がヨハンナではないか、との説もあります。
もしそうだとすると、みことばを杖として歩む信仰の生涯が、いかに幸いなものかを思い、私たちも嬉しくなります。
さて、今日の箇所から私たち覚えたいことが二つあります。
ひとつは、イエス・キリストは、今も私たちの信仰を成長させ、確かなものとするため、日々私たちのために働いてくださっているということです。
私たちの信仰はどうでしょうか。あの王宮のお役人のように小さなもの、弱いものでしょうか。眼に見えるしるしがあるかどうかで左右される信仰、「神がこの様に働いてくださらなければ」と決めつけ、それが実現しないと消えてしまうような信仰ではないでしょうか。
しかし、イエス・キリストは、こんな者たちをお見捨てにならない。時間をかけ、様々な試練を通して、私たちの信仰を練り、変わることのないみことばに立つ者へと変えてくださるのです。
Tペテロ1:7「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉にいたるものであることが分かります。」
眼に見えるしるしがあってもなくても、心から神を信頼する。自分の願いどおりになってもならなくても、神様のなさることを最善と信じる。現実がいかにあろうとも、神のみことばは必ず実現すると信じて心安んじる。このような信仰は、金の様に、いや金よりも尊いものなので、大いに精錬される価値があると教えられています。
皆様は、私たちの信仰をこの様なものへと成長させるため、イエス・キリストが今も私たちに仕え、助けてくださることを自覚しているでしょうか。私たちの信仰が練られた金の様に輝くまで、イエス・キリストのお働きはやむことが無いと考えているでしょうか。
このキリストの愛に応えて、私たちも日々みことばに親しむ者、みことばに聞く者、みことばを本気で信じ、考え、従ってゆく者となりたく思います。
ふたつめは、神のみことば、その約束を信じることがいかに私たちの人生に影響を与えるのか、ということです。今日の聖句です。
ヘブル11:1「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
聖書には、イエス・キリストを信じる者のために、神が用意された様々な祝福に関することばがあります。
今でも美しく、豊かな自然が天地創造の初めの状態に回復し、さらに美しく、さらに豊かにされる新天新地の事。今は、悪が横行し、義が廃れ、善悪逆転している世界が、義と平和に満ちる天国の事。そして、今は罪人の私たちが、完全にキリストに似た者に造りかえられた新しい自分となり、愛する兄弟姉妹との交わりを永遠に喜ぶ者となる事。
今はまだ目に見えないこれら将来の祝福を、皆様は、神がみことばにおいて約束しておられるという理由で信じているでしょうか。確信しているでしょうか。
私たちの心の羅針盤は、自分の欲や世間の誘惑によってすぐに狂いだします。しかし、もし目指すべき新天新地、天国を確信しているなら、軌道修正し、正しい方向に舵を取ることができるでしょう。
また、この世にありながら実は天国人、地上にありながらすでに神の子のひとりという尊い自覚は、どれ程私たちの志を高め、神のみこころを行う者へと励ましてくれることでしょうか。
神のみことばを信じ、目に見えない数々の祝福を確信することが、私たちの人生にいかに大きな影響があるか。今日改めてこのことを覚えたいのです。
|