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メッセージ
私たちクリスチャンはイエス・キリストを信じ、神の子とされた者、死後必ずや天国に行けることを信じ、喜ぶ者です。
しかし、神に救われた後、天国に行くまでの間、私たちは何のためにこの地上で生かされているのでしょうか。礼拝、奉仕、交わり、献金など、いわゆる教会生活のためだけでしょうか。
勿論それも大切だけれど、普段の日この地上で、つまり神を知らない人々の中で、神の栄光、神のすばらしさを表すために仕事をするのも、それと同じく大切なことと教えるのが、今日のイエス様のことばです。
「あなた方は地の塩、また世界の光です」。この有名な教えを、今日は、私たちがこの地上、この世で働くことの意味という点から考えてみたいと思います。
聖書において仕事あるいは働くという時、それは会社での仕事や収入のある仕事に限られてはいません。蛇口の修理や子育て、食事作りなどの家事、教会での奉仕、地域におけるボランティアの働き、病人をお見舞いすることなど、家族や隣人を助け、この世を良くするあらゆる努力が仕事のうちに入ります。
イエス・キリストは、たびたび弟子達とガリラヤの湖に漁に出ました。最後の三年間を除いて、生涯の殆どを大工として過ごしました。地上におられる間、説教する時間よりも大工として働いていた時間のほうが長かったのです。
神について、信仰について教える時も、種を蒔く人、ぶどう畑の労働者、麦の刈入れをする農夫、家を立てる建築家、豚を飼う者、パンを焼く主婦など、働く人々の姿を引き合いに出すことが実に多くありました。
また、キリストの弟子パウロは、天国が来るのをただ待つだけ、何の働きもせず人に迷惑をかけている者を、「働きたくない者は食べるな」と戒めています。よく知られる「働かざるもの食うべからず」は、聖書のことばでした。
つまり、聖書は、礼拝や祈りと言った宗教的なことと同じく、私たちの日々の働きを非常に大切にしていました。この地上での仕事に対し真剣に取り組むように教えているのです。
そして、この世での働きに真剣に取り組むため、私たち是非とも知らなければならないことがあります。それは、私たちが働くことに、神がどの様な目的を持っておられるのかということです。
ところで、皆様は、神に造られた動物や昆虫もすばらしい働きをしていることをご存知でしょうか。
私の大好物の一つは、厚切りのパンを焼いて、その上にバターを塗り、さらにその上に蜂蜜をたっぷりと塗ったトーストです。これに香りの良いコーヒーがついたら、他には何も要らないという気持ちになります。
この蜂蜜の供給源が蜜蜂です。蜜蜂の社会は一匹の女王蜂と沢山の働き蜂、それに少数の雄蜂からなっていて、各々役割分担があります。中でも働き蜂の仕事振りは凄いの一語に尽きます。
働き蜂の最も重要な仕事は蜜を集めること。彼らはこれを一致協力し、見事に成し遂げます。一匹の蜂が良い蜜を見つけると、何種類ものダンスを駆使し、蜜のある場所までの距離、方向、蜜の質の良し悪しなどを他の蜂に伝え、仲間を集めて、一挙に作業に取りかかり、やり遂げるのです。
また、働き蜂は、蜂の子どもたちを限られたスペースの中に、最も効率よく納める六角形の住居を作り上げます。これはハニカム構造と呼ばれるもので、飛行機の翼、建築物、新幹線などにも使われています。しかし、彼らは人間と違い、長さを測る定規も角度を測る道具もなしに、正確な六角形の家を完成することができるのです。
さらに、働き蜂はたとえ集団で人間の体を覆いつくしても、手で振り払うなど人間の側から攻撃しない限り、刺さないそうです。
彼らが刺すのは自分たちの巣が襲われた時のみ。そして、殆どの場合、彼らは針を抜く時、同時に自身の内臓も引き裂かれるため、死ぬことになります。働き蜂は巣を守るため命をも惜しまない、献身的な働き者でした。
蜜蜂も人間も働く。両方とも一生懸命働いている。どちらも、自分の能力を用いて仕事をしている。そうだとすれば、働く人間と働く蜜蜂の違いとは何でしょうか。
蜜蜂たちは、この世界を創造した神を知りません。自分たちに命や仕事をする能力を与えてくれた神を知りません。彼らはただ生きるための本能から働いているのです。
それに対し、私たち人間は、神を信頼し、神のすばらしさを表すために働くこともできますし、自分の力一つを頼りに、ただ生きるため、食べるために働くこともできる者として造られました。
「あなた方は地の塩、世界の光です。」このことばは、イエス・キリストを信じ、神に救われた者が、ただ地上を生きるため、日々食べるために働く人生ではなく、神を信頼し、神のすばらしさを表すため働く人生に召されていることを教えていたのです。
それでは、神を信頼し、神のすばらしさを表すために仕事をするとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
先ず、神とともに働くという信仰に立つことです。使徒パウロは、奴隷であっても、自由な市民であっても、つまり仕事の種類は何であれ、今自分が与えられた仕事を神の御前で、神とともに行いなさいと勧めています。
Tコリント7:24「兄弟たち。おのおの召された時のままの状態で、神の御前にいなさい。」
最後の「神の御前にいなさい」は、「神とともにいなさい」とも訳されることばです。
私たちはただひとり仕事に行くのではありません。私たちを子として愛してくださる神とともに仕事に行くのです。ただ働くのではありません。心から信頼する父なる神の御前で、神とともに働きをなすのです。
ある兄弟は、毎朝職場に行く時、また、職場で緊張、不安を覚える仕事に入る前に、このことばを通して神と交わり、心に平安と力を頂くのだそうです。
イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
私たちはいつでも、どこでも、働いている時でも、それを通して、神と交わり、神と話し、重荷を委ね、神に助けて頂く、その様なみことばを持っているでしょうか。そのみことばは私たちの心に刻まれ、覚えられているでしょうか。
日盛りに額に汗して働く農夫の労苦、緊張する会議の場に臨むビジネスマンの不安、夜中に子どもの泣き声で目を覚まし、おしめを変えなければならない母親のストレス。それら全てを知り、受け入れた上で、神は私たちを助けるためそこにいてくださる。
神と親しく交わりながら働けるという幸い。神に助けられて仕事をなすことのできる心強さ。私たちも、日々神とともに仕事をする者となりたいと思います。
第二に、仕事が何であれ、また相手が誰であれ、私たちの働き方は正しく、誠実なものでなければならないということです。イエス様はこう言われました。
マタイ5:13「あなた方は、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけにされるだけです。」
昔から塩は、人々の生活に欠かせないものでした。塩によって兵士の給料が支払われたり、塩を巡って戦いが起こった時代もあります。ですから、イエス様は、クリスチャンがこの地上で、神を知らない人々とともに働くことが絶対に必要だと、教えておられるのです。
塩の役目の一つは食べ物の腐敗防止です。もし、ある職場に悪い慣習がはびこっていたとしたら、それに馴染まず、正しい働き方を貫くクリスチャンの存在は職場の塩となります。
もし、私たちが住む地域に理由なき噂に苦しむ隣人がいる中、そんな噂や偏見に捕われず、その隣人のため、ただひとり誠実に接し、交わるクリスチャンがいたら、その存在は地域の塩でしょう。
さらに、塩のもう一つの役割は、食物の味付けです。自分の仕事を真剣に、朗らかに、そしてともに働く人を配慮しつつ行うクリスチャンは、口を開けば聖書の話をして内心迷惑がられているクリスチャンよりも、はるかに強力な福音の伝道者と思えます。
そんなクリスチャンの存在は、職場や家庭に活力、明るさ、協調性など、良い影響をもたらすでしょう。これが味付け効果です。
私の大学時代の先輩、M兄弟が証しをしてくれました。M兄弟がクリスチャンになった大きなきっかけは会社の先輩の存在でした。
その先輩は普段から、くだらない駄洒落は飛ばすけれど、同僚や上司の悪口を絶対に口にしない、人の噂話には加わらない。仕事への取り組みは真剣そのものなのに、いつも楽しげ。そして部下となったM兄弟に仕えるごとく、教育してくれたのです。
教育期間が終わり、お礼の挨拶に伺った折、M兄弟が「先輩の仕事への情熱、部下や同僚への愛情はどこから出てくるのですか」と聞いたところ、「僕にはね、いつも僕の仕事を見ているイエス様って言う、上司がいるんだよ」というのが答えでした。その時から、M兄弟はキリスト教信仰を求め始めたそうです。
果たして、神に遣わされた場所で、私たちは本当に塩であるのか、塩として塩けを放っているのか。一人一人振り返ってみたいのです。
第三に、私たちが働く動機の問題です。私たちはただお金を稼ぐために働いているのでしょうか。それとも、その働きを通して人を愛し、神をあがめる事が願いでしょうか。
自分の成功と名誉が目的でしょうか。それとも、自分の仕事が人の役に立つこと、神のすばらしさを表すことが願いでしょうか。
使徒パウロは、自分の人生を振り返った時、あるイエス・キリストのことばがいつも心の支えとなっていたことを告白しています。
使徒20:35「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与える方が幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」
もし、私たちが経済的利益を得ることができないからという理由で、能力も、機会もあるのに、弱い者を助けるために働かなかったとしたら、私たちに対する神の恵みは無駄になるでしょう。
もし、働いて得た収入を自分の生活のためにのみ使い、神にささげることも、困窮している人のために用いる事もしないなら、私たちが本当に信頼しているのは神ではなく、富だということにならないでしょうか。
神から受けた賜物を活用して仕事をし、仕事を通して隣人に仕えること、仕事によって受けた恵みで神をあがめ、隣人を富ませること。このような人生を生きるためにこそ、イエス・キリストが命がけで十字架にのぼり、愛してくださったことを覚えたいのです。
宗教改革者のルターと言えば、プロテスタント信仰の巨人です。当然、本を書くこと、説教、賛美歌の創作、伝道など、所謂教会の仕事に専心していたのでは、という印象があります。
しかし、実際のルターは家庭人でもありました。当時男尊女卑の風潮があり、男性にとって子育てや奥さんともに家事をなすことは取るに足りないこと、卑しいこととされていたようです。
けれども、ルターは、自分にとってはおしめを洗うことも、妻が必要なものを備えることも神にささげる尊い奉仕とし、それを喜ぶと告白しました。
「神様。あなたは私を男として造り、私を通してこの子を与えてくださいました。ですから、あなたが私の子育てを本当に喜んでくださっていることを知っています。何の価値もない私が、あなたが造られた幼子と女性のために働き、あなたの御心にお仕えできるとは、何と栄誉なことでしょう。私は喜んでこの仕事をさせていただきます。」
仕事の価値を、収入の多さや社会的地位ではかるというのは、人間の罪から来る考え方です。むしろ、私たちは、収入のある仕事であれ、ないものであれ、世間で評価される仕事であれ、取るに足りないとされるものであれ、隣人を愛し助けるための仕事、神をあがめるための働きとして実践してゆく者でありたいと思います。
それこそ、イエス様が教える、私たちが頂いた救いの光をこの世で輝かせること、神を知らない人々の中で、良い行いを示すことではないでしょうか。今日の聖句です。
マタイ5:16「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」
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