2012年11月25日
礼拝メッセージ


「一書説教 ヨシュア記」
−告げられたように−
  聖書
ヨシュア記23章5,6節

23:5 あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。
23:6 あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。


  メッセージ
 聖書には様々な特徴がありますが、その一つは世界で最も多く出版されていることを挙げることが出来ます。その数は圧倒的。あまりの多さに、正確な数は分からないと言われていますが、この200間で約3900億冊と言われます。これは本の世界では異常な数でした。一般書籍のうち、単一書籍で最も売れたのは、イギリスの作家、チャールズ・ディケンズの「二都物語」で約2億冊。シリーズ物の本で最も売れたのは、ハリー・ポッターシリーズ。全七巻の累計売上数が、約4億5千万冊。シリーズ物で最も売れた本の最大数が、約4億5千万と聞くと、聖書の約3900億冊というのが、いかに大きな数か分かります。日本だけでも、聖書は約3億5千万冊発行されているそうです。これまで日本で発行された聖書が全て残っているとしたら、一人3冊程聖書を持っている計算になります。聖書は世界で最も多く出回っている本です。
 しかし、それではどれ位の人が、聖書を最初から最後まで読み通しているのか。発行数は多くても、全部を読み通したという人は、どれだけいるのか。何しろ聖書は読み易いとは言えません。私たちの手にしている日本語聖書は、小学校を卒業したら読める文法で書かれていますので、文法として読みにくいことはない。しかし、その内容と意味が、どのようなものなのか、理解するのは簡単とは言えません。
 信仰を持っている私たち。聖書は、神様の言葉。神様から私たちへのメッセージが記されていると知っています。聖書を読む重要性はよくよく理解している。それでも、聖書全部を読み通すことは容易ではありません。
 このようなことが背景にありまして、断続的にですが、私の説教の際、一書説教に取り組んでいます。全部で六十六巻ある聖書を、一つの書毎に、その内容と中心的なメッセージを確認する説教です。
 このような訳で、一書説教を行う目的の一つは、私たち皆で聖書を読むことにあります。毎回お願いしていることですが、一書説教で扱われた書は、どうぞ皆さまご自身で読んで頂きたいと思います。

 これまで旧約聖書の頭、五つの書を扱ってきました。今日は旧約聖書、第六の巻。「ヨシュア記」を見ていくことになります。実は、旧約聖書の最初の五つの書は、「律法の書」とか、「モーセ五書」と言われ、このヨシュア記からは「歴史書」と呼ばれます。旧約聖書全体を見渡して考えると、このヨシュア記から、新たな枠組みになるわけです。
 とはいえ、内容はこれまで確認してきたことの続き。神様がアブラハムに約束した土地を、アブラハムの子孫がいよいよ手にする場面。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、遂に約束の地に入る場面。これまで聖書を読み通してきた私たちからすると、やっと、この場面に来たという印象もあります。
 エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、助け出されたのが出エジプト記。これからは、どのような礼拝をすべきか記されたのがレビ記。約束の地に向かう途上、神様を信頼しなかったために、合計四十年の荒野での旅となった、民数記。エジプト脱出を果たし、四十年の荒野の旅を終え、神様が与えると言われていた地を前にした時。それまでの指導者モーセが遺言説教をする、申命記。これに続くのが、ヨシュア記となります。モーセの従者として活躍していたヨシュアが、モーセの代わりに指導者となり、イスラエルの民が約束の地を手にしていく場面となります。

 ヨシュア記の特徴をいくつか挙げるとすれば、一つは、約束の実現の記事が多いということです。モーセを通して与えられていた神様の約束が、事実その通りになっていた記事。約束の地、カナンに入ったらするように命じられていたことを、イスラエルの民が行った記事など、約束の実現が多く出てきます。
 またヨシュア記は概ね、勝利、征服の書であり、全体として明るい印象があります。特に、続く士師記は敗北と失敗の書で、比べると違いが顕著です。
 更に、特徴と言えるかどうか。後半に部族毎の土地の割り当てが出てきますが、私たちに馴染みのない部族名、土地名のため、読みづらい箇所も出てきます。
 是非、自分で読んでみて、その特徴を実感して頂きたいと思います。

 今回、ヨシュア記を何度も読みまして、中心的なテーマと言えるものが二つあると感じています。概観する前に、この二つを確認します。
 一つは、冒頭に記されている神様からヨシュアに対する励ましの言葉に、テーマが込められています。

 ヨシュア記1章6節〜7節
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

 モーセに代わり、ヨシュアが新たなリーダーとなった時。神様はヨシュアを励ます言葉として、「雄々しくあれ」と何度も言われます。これから、神様が与えると言われていた地を手にする。それは、そこに住む民に勝利する必要があるわけですから、ヨシュアの任務の一つは、戦いに勝利することでした。そのヨシュアに対する言葉として、「雄々しくあれ」とは然もありなんというところ。
 しかし、よく見てみると、「雄々しくあれ」に続く言葉は何だったでしょうか。「雄々しくあって」、攻め上れとか、勝ち獲れとか、勝利せよではなかった。そうではなく、「雄々しくあって、律法を守り行え。」というのです。ヨシュアは、その働きをする上で、最も気を付けるべきことは、勇敢に、勇ましく、強く、果敢に、毅然と、断固として、聖書の教えを守るということ。神様がヨシュアに第一に求めていたことは、いかに戦略を立て、いかに武器を用意し、いかに勝つかではなかった。そうではなく、徹底的に神様に従うこと。神様を信頼することでした。「雄々しくあって、律法を守り行え。右にも左にもそれてはならない。」なのです。
 事実、ヨシュア記を読み進めますと、とても敵わないと思える相手でも、神様を信頼している時には勝利を得ますが、普通に戦えば勝てるのではないかという場面で、神様に背き敗北します。
 これがヨシュア記に流れている中心的なテーマの一つ。つまり信仰生活が、その他の生活に影響しているということです。霊的な事柄が、実際の生活と密接に関係があるということです。
 この点、私たちはどのように考えているでしょうか。聖書の教えは、心の問題だけであって、実際の生活には関係がない。日曜日は礼拝をささげ心安らかに過ごすが、それ以外の日は、この世の常識で生き抜くということはないでしょうか。もし、そのように考えることがあれば、是非ヨシュア記をお読み下さい。信仰生活と、それ以外の生活は切り離せるものではないのです。この世界を創り、支配されている神様がおられるのであれば、これは当然のことですが、ヨシュア記はそれをよく教えている書物と言えます。

 もう一つ、ヨシュア記のテーマとして挙げることが出来るのは、ヨシュア記の後半に記された言葉に込められていると思います。

 ヨシュア23章5節〜6節
あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。

 神様は土地を与えると約束していました。それでは、ヨシュアを始め、イスラエルの民は何もしなくて良かったのかというとそうではありません。その約束を信じて、行動を起こす。「彼らの地を占領しなければならない。」と教えられていました。
 信仰というのは、信じて何もしないということではありません。信じるというのは、むしろ神様が約束されたことが実現するように自分も取り組むことでした。ヨシュア記を読み進めますと、約束を信じて行動する時には成功があり、何もしない時には問題が残ることを見てとれます。これが、ヨシュア記に流れているもう一つの中心的なテーマ。つまり、信仰とは行いが伴うものだということです。
 この二つの中心テーマを意識して、読み進めて頂きたいと思います。

 さて、ヨシュア記の全体像ですが、大きく三つに分けることが出来ます。前半は約束の地占領の記録。1章から12章となります。中盤は部族毎の土地の割り当て。13章から22章。最後が、ヨシュアの遺言説教。23章から24章です。
 まずは前半、約束の地の占領の記録です。印象的な場面、出来事が多く記されています。斥候の派遣、ラハブとの約束、ヨルダン川踏破、割礼と過越し、エリコでの勝利、アカンの罪、アイでの敗北、エバル山とゲリジム山、ギブオンとの同盟、などなど。ヨシュア記の特徴としてお伝えしたもの、中心テーマを読みとれる出来事が続々と出てきます。
 前半で私が特に印象に残ったのは、ヨルダン川踏破です。
 ヨシュアが約束の地に入る際、大きな障害となったのがヨルダン川でした。大軍でこの川を渡るのは、どうしたら良いのか。3章に出てきます。この時の神様の約束は、次のものでした。

 ヨシュア記3章11節、13節
 「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。・・・全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。

 契約の箱を先頭に川に入る。すると川がせき止められるという約束でした。印象的なのは、せき止められたら、川を渡りなさいではない。まず川に入る。すると、せき止められると言う約束なのです。神様の約束を信じるかどうか、試された場面でもあります。
 この約束を信じて、その通りにした時、どうなったのか。

 ヨシュア記3章15節〜16節
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

 川がせき止められる。これが起こると、流れてくる水は、そそり立つことになります。滝の反対、上へ上へと水が登る場面。皆さま、このような出来事が聖書に記されているのを、ご存知だったでしょうか。出エジプトの際、海が割れるという出来事が有名ですが、私の勝手な想像では、こちらの出来事の方が、より迫力があったのではないかと思います。この出来事を通して、イスラエルの民は、神様を信頼して実行することがいかに重要なのか、知ることになります。
 興味深い場面が続々と記されるヨシュア記の前半ですが、一つ気になるのは、もともとカナンの地に住んでいた人たちの扱いです。神様はイスラエルの民に、その地を与えると約束していましたが、それでは、その地にいた住民はどうなるのか。ここに、聖絶というテーマがあります。イスラエルの民を中心に見たら、勝利、征服の話しでも、その地にいる住民からすれば、敗北と死を意味します。神様は、神の民のためならば、他の民族がどうなっても良かったのか。そうではありません。何故、イスラエルの民が勝利することを良しとされたのかと言えば、その地の住民の悪があまりにひどいからだと教えられていました。

(ヨシュア記11章20節、申命記9章4節〜5節)

 ヨシュア記中盤は、土地の割り当てです。イスラエル民族は、特別に選ばれたレビ部族を除いて、全12部族。この12部族への割り当てが、13章から22章まで出てきます。この中盤で特に覚えておきたいことは二つあります。
 一つは、12部族の中で特に力を持った部族が、二つあったこと。一つは、ヨシュアが属していたエフライム部族。もう一つは、カレブが属していたユダ部族です。12部族のうち、ヨシュアとカレブの属していた部族が台頭していった。ヨシュアとカレブと言えば、お気づきだと思います。約四十年前の斥候に選ばれた十二人のうち、神様を信頼した二人です。土地の割り当ての記事において、特にユダ部族、エフライム部族について多くの記事が割かれていました。
 そして、この段階で特に力をつけたユダ部族とエフライム部族は、ヨシュア記以降においても、強力な二部族として確認出来ます。

 もう一つ、土地の割り当てで覚えておきたいことは、神様は約束の地はイスラエルの民に渡すと言い、その地の住民は追い出すように求めていたのに、その地の住民を全て追い出したわけではなかったということです。
 土地の割り当ての記事に何度か出てきますが、例えば、次のように記されている箇所があります。

 ヨシュア記16章10節
彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。

 その地の住民を追い払わなかった。これが、後々問題となりますが、その詳細は次の書、士師記で扱うことになります。

 ヨシュア記の後半、最後の二章はヨシュアの遺言説教、二つが記されています。ヨシュアの時代の人々が経験したこと。その父たち、父祖たちが経験したことも合わせて、過去を振り返り、神様が約束したことは実現し、多くの恵みを頂いたこと。その神様の恵みを確認した上で、それでも背くというならば、好きにすれば良いという宣言が響き渡ります。

 ヨシュア記24章14節〜15節
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。

 この時、ヨシュアやイスラエルの民が味わった恵みは、大きなものでしたが、彼らは、イエス・キリストのことを私たちが知るようには、知りませんでした。ですので、もし今日、ヨシュアがこの四日市キリスト教会で説教をするとしたら、この言葉はより迫力をもって語られたことだと思います。「あなたを仕えるために、神様が人となられた。正しい人生を全うし、私たちの身代わりに十字架で罪の罰を受けられた。キリストを信じ、キリストと一体となったあなたたちは、罪の赦しだけでなく、神の子とされたではないですか。これ程の恵みを受けてでも、それでも主に仕えるのが気にいらないのだとしたら、覚悟をもって好きにすれば良いでしょう。私と私の家とは、主に仕えます。」とです。
 ヨシュアの説教を読みながら、私はどのように神様の恵みに応えるのか。考える者でありたいと思います。

 以上、ヨシュア記を概観しました。最後にもう一度、お勧めをして終わりにしたいと思います。ヨシュア記の中心的なテーマは、神様との関係は、私たちの生活のあらゆる分野で影響があること。私たちは生活のあらゆる部分で、神様に従うべきであること。もう一つは、信仰とは信じて何もしないことではなく、信じて実践することでした。
 是非、ヨシュア記をお読みになって、そこに託されたテーマ、メッセージを実感して下さい。そして、受け取られた聖書のメッセージの通りに、自分の生活を整えることに取り組み下さい。
 私たち皆で聖書を読むことを。私たち皆が、聖書によって、神の子として整えられていくことを味わっていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師