2012年11月4日
礼拝メッセージ


「信仰は聞くことにより始まる」
  聖書
ヨハネの福音書4章31〜45節

4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
4:43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。
4:45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。


  メッセージ
 皆様は大相撲が御好きでしょうか。最近は外国人力士が多い大相撲ですが、今、大鵬部屋にエジプト生まれ、初のアフリカ大陸出身、イスラム教徒の力士がいることをご存知でしょうか。
 名前は大砂嵐金太郎。何とも豪快、勇ましい四股名です。今は未だ序二段ですが、すぐにテレビ放送にも登場するだろと、将来を有望視されている若手力士です。
 しかし、この大砂嵐。イスラム教徒であるがゆえに様々な苦労を経験していることが、紹介されていました。
 本場所前になると、他の力士はげんをかついでトンカツを食べる。しかし、食事担当の大砂嵐はトンカツの料理はしても、それは他の人用。自分はひとりアジフライを作って、食べる。イスラム教徒は豚を食べることを禁じられているからです。
 また、ラマダンという断食の時期になると、本場所中であっても、朝から夕方まで食べ物はもちろん水も口にできない。さらに、練習中であっても、決められた時間になると、一日に五回聖地メッカに向かって礼拝をささげなければなりません。
 一般に、宗教とくに礼拝においては特有のしきたりがあり、それが戒律のように絶対的なものとされることも珍しくはありません。
 しかし、イエス・キリストが教えた宗教、神礼拝の要は、実に単純でした。礼拝する場所は、ユダヤ人の言うエルサレムか、それともサマリヤ人の主張するゲリジム山か。そんな問題で悩んでいたサマリヤ人の女性に対し、「大切なのは場所ではない。神を父とし、霊とまことをもって礼拝すること」と教えられたのです。
 イエス・キリストを信じる者は、誰でも、いつでも、どこでも、御霊に助けられ、心から神を父と信頼して礼拝することができるという、自由で、親しい神との交わりを大切にするのがキリスト教でした。
 さて、今日は、罪深い生活を送っていたサマリヤ人の女性がキリストを信じて、神の愛を受け取ると、まるで生まれ変わったように、今まで自分を嫌っていた町の人々のところに出かけていった直後のことです。
 食べ物を買いに出かけ、戻ってきた弟子達が、それをイエス様に差し上げるという場面でした。

 4:31〜34「そのころ、弟子たちはイエスに、『先生。召し上がってください。』とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』そこで、弟子たちは互いに言った。『だれか食べる物を持って来たのだろうか。』イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」

 お腹が空いただろうと折角買い物に行ったのに、食物には眼もくれず、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と不思議なことを言われるイエス様。それを聞いて、「だれかが食べる物を持って来たのだろうか」と首をひねる弟子達。
 そんな彼らに対し、ヨハネの福音書では何度も語られる大切なおことばを、イエス様はここで口にされたのです。「わたしを遣わした方(天の父)のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
 五人もの男性と結婚しながら、全て破綻。今は正式な夫ではない男性と同棲生活をしていたため、ふしだらな女と町の人から嫌われていた女性。その魂を神の救いに導くべく、全力で女性を愛し、仕えたイエス様は、彼女を先頭に多くのサマリヤ人が近づいてくる姿を見て、心満ち足りていたのでしょう。
 「わたしを遣わした方」、天の父のみ心とは、罪人を愛し、仕える事、その魂の救いのために全力を注ぐ事です。それを心からなしたい、またなすべき使命と考えていたイエス様は、この世の食物で満たされた時以上の喜びで、心満たされていたと思われます。
 そして、弟子達にも同じ喜びを味わって欲しいと願い、サマリヤの人々を愛し、その魂の救いのために働くよう、彼らを励ましました。

 4:35,36「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」

 昔ユダヤでは、種を蒔いてから刈り入れまで、四ヶ月待たなければなりませんでした。しかし、イエス様は、色づいて借り入れるばかりの畑を見よ、と言います。
 ユダヤ地方とは違い、丁度この季節、サマリヤ地方の畑は収穫時期だったのでしょう。と同時に、「色づいて借り入れるばかりの畑」とは、女性を先頭に近づいてくる人々、神の救いを求めるサマリヤ人たちを指していました。
 一方、当時弟子達ユダヤ人はサマリヤ人を、宗教的、人種的に見下し、差別していましたから、サマリヤ人がイエス様を救い主と信じるとしても、それは随分先のことと思っていたでしょう。まさか、このサマリヤ滞在中に、彼らのために働くことになろう等とは考えていなかったはずです。
 それに対して、イエス様は「今、わたしがその心に永遠のいのちの種を蒔いた女性が救われ、彼女の証しが実を結び、大勢のサマリヤ人がここに近づいてきている。さあ、わたしとともに彼らに仕え、神の救いを伝えよう」と、心鈍い弟子達を励ましたのです。
 さらに、励ましのことばが続きます。イエス・キリストがこの世に来てから、多くの人々が神の救いに導かれる、そんな収穫、刈入れの時代が始まったと言うのです。

 4:37,38「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 種を蒔く人と刈り取る人が違う、と言うのはよくあることで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』という諺がその頃あったようです。それは、収穫を喜ぶ人はその陰に労苦して種を巻いた者がいたことを忘れてはいけない、先人の働きに感謝して刈入れに励め、との教えだったと思われます。
 イエス様は「ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」と語りました。事実、この後、弟子達は旧約時代の預言者たちの労苦、それに何よりイエス・キリストの十字架の死という尊い犠牲、労苦の実を刈り取るべく、広く世界に出て行き、神の救いを伝える者となるのです。
 さて、以上は神のみこころを行う者たち、キリストの弟子である者への励ましでした。次は、神のみことばを聞くことが、キリストを信じる者にとって、いかに重要かを教えるところです。
 先ずは、その頃ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人が、イエス様のことばを聞いて心開かれ、確かにイエス・キリストを救い主と信じたことが語られます。

 4:39〜42「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った。』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」

 最初サマリヤ人は、罪深い女と嫌っていた女性の証しを通して、イエス・キリストを信じました。しかし、それで満足せず、さらに自分たちのところに滞在して欲しいと願い、直接イエス様の教えを聞き、その信仰を深めるべくつとめたのです。
 「私たちは自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」という確信に満ちたことばは、その様な彼らの取り組みから生まれたのです。
 他方、本家本元、イエス様の故郷ガリラヤのユダヤ人たちの応答は、サマリヤ人のような信仰ではなく、歓迎でした。

 4:43〜45「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない。』と証言しておられたからである。そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。」

 ガリラヤの人々がイエス・キリストを歓迎したのは、祭りの時イエス様がエルサレムでなさったこと、つまり奇跡を見ていたからだ、と言われています。
 確かに、エルサレムでは多くの人々が奇跡を見て、イエスを信じたと聖書にあります。しかし、聖書には、そんな人々のことをイエス様は弟子とは認めなかったとも書かれています。
 事実、奇跡を見て信じた都エルサレムの人々も、歓迎した故郷ガリラヤの人々も、やがてイエス様が自分たちの期待する救い主ではないと分かると、ある者は去り、ある者は迫害する側に立つようになりました。
 ガリラヤの人々が歓迎したと言うことと、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』というイエス様の思いは一見矛盾するように感じます。
 しかし、私たちはイエス様を尊ぶとはどういうことかを教えられます。それは、一時的な感動、歓迎にとどまることなく、あのサマリヤの人々のように、み言葉を真剣に聞き、心に受けとめた上で、イエス様を本当に救い主と信じることでした。
 今日の箇所から、私たち二つのことを考えておきたいと思います。
 ひとつは、私たちもイエス様のように、体を養う食物のほかに、神の御心を行うというもう一つの食物、魂を養う食物を与えられているということです。ことばを換えて言えば、私たちは神の御心を行うことで心満たされる者として神に造られ、生かされているということです。私たちはどれぐらいこのことを自覚しているでしょうか。
 旧約の昔から、信仰者たちは神の御心、みことばを食べ物、ご馳走である蜂蜜に喩えてきました。

 詩篇119:103「あなたのみことばは、私の上あごに、何と甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」

 神のみことばを知り、神の御心を行うことは、蜂蜜のご馳走を食べることに似て、喜びであると、詩人は告白しています。
 果たして、私たちはイエス様のように、人を愛し、人に仕え、その魂の救いのために労するという神の御心を求め、喜んでいるでしょうか。それを実践して心満たされてきたでしょうか。その様な生き方に日々取り組んでいるでしょうか。
 それとも、地上の食物で心満たす食欲人間、金銭で心満たす貯蓄人間、世間の評判を得ようとあくせく生きる名誉欲人間で、毎日を過ごしているでしょうか。
 「天の父の御心を行い、それを成し遂げることが、わたしの食物」。このことばにより、神に愛され、神に救われた者として地上に生かされていることの意味、目的を一人一人改めて考えてみたいのです。
 ふたつ目は、神のみことばに聞く信仰の大切さ、ということです。先程も言いましたが、ガリラヤの人々は、奇跡を見て、驚き、感激して、故郷に帰ってきたイエス様を歓迎しました。
 しかし、やがて、イエス様が自分たちの思うように動かず、自分たちの願うような教えを語らないと分かると、去ってゆきます。つまり、奇跡信仰はあくまでも自分中心。それは彼らの生き方を根本的に変えることはなかったのです。
 しかし、サマリヤの人々は、イエス様のことばを聞いた罪深い女性が、神の愛と罪の赦しを受け取り、その生き方が大きく変った姿を見ました。そして、自分たちもイエス様からみことばを聞くことを求め、それを実践したのです。
 みことばに聞き、みことばによって心養われる信仰こそ、私たちの生き方を根本的に変えるもの、と聖書は教えています。みことばに根ざす信仰は、自己中心の生き方を砕き、神中心の考え方、生き方へと私たちを変え、整えてゆく力があるのです。
 日々、みことばに聞く者、みことばを心に刻むもの、みことばで心養われる者として歩んでゆきたいと思います。

 ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師