2012年12月16日
礼拝メッセージ


「主が目を留めて」
  聖書
ルカの福音書1章46〜55節

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」


  メッセージ
 教会はキリストの到来を覚えるアドベントの時期を過ごしています。十二月に入り、礼拝説教もキリストの誕生にまつわる箇所を扱っています。
 イエス様の生涯が記されているのは、福音書。四つの福音書がありますが、その誕生についての記録には、各書に特徴があります。マルコの福音書には、キリストの誕生の記事はありません。何も記されていない。ヨハネの福音書は具体的に、誰がどこで何をして、キリストの誕生になったとは記されず、「光が来た」と表現します。詩的、抽象的でした。マタイの福音書、ルカの福音書には、具体的な出来事が記されていますが、違いがあります。マタイは男性のヨセフを中心に記されているのに対して、ルカはマリヤ中心の記録です。
 先週はルカの福音書より受胎告知の場面、マリヤのもとに天使が現れ、キリストを身ごもるとの宣言を見ました。今週はその続きにあたる場面、「マリヤの賛歌」に焦点を当てます。
 マリヤの賛歌。今やキリストの母として全世界の人に知られるマリヤですが、この時は田舎の名もなき娘。そのマリヤが歌った賛歌が聖書に記録され、貴重な遺産として私たちの手元にある。大変感謝なことでした。この歌をもとに作られた曲も複数あり、バッハやモンテヴェルディが作ったものが有名です。
 救い主の到来、キリストの誕生という出来事は、マリヤにとってはどのような意味があるのか。マリヤの賛歌より確認し、更には私たちにとって、キリストの誕生とはどのような意味があるのか、考える時にしたいと思います。

 「マリヤの賛歌」に焦点を当てますが、まずは先週確認した受胎告知の後のマリヤの姿から見ていきます。
 ルカ1章39節〜40節
そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

 この場面は約二千年前のこと。しかし、マリヤが現代の人だったとしたら。受胎告知の後、マリヤはまず何をしたと想像するでしょうか。天使より、あなたは神様の力によって男の子を産むと宣言されたら、まず何をするのか。
 マリヤが現代の人であれば、妊娠検査薬を買うか、産婦人科に行き、本当に妊娠しているか確認したと思います。自分が出会った天使は、幻ではなかったか。言われたことは、本当にその通りになっているのか。確認する必要があります。当時は、妊娠検査薬はありません。本当に妊娠していたとしても、しばらくしてからでないと、体の変化も起こりません。
 それでは実際に、マリヤは何をしたのか。親類のエリサベツのもとに行きます。何故でしょうか。おそらくは、マリヤのもとに現れた天使が、神様に不可能なことはないことの例として、エリサベツのことを挙げていたからです。

 ルカ1章36節
ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

 天使が現れ、男の子を産むと宣言された。まだ、自分の体には変化が起こっていない。
(1章36節、56節と、一般的な妊娠期間は約十カ月であることより、マリヤがエリサベツを訪問したのは、受胎告知の後1ヶ月以内と考えられます。そのため、この時、マリヤは自分で気付くような体の変化がありませんでした。)
 今の段階で自分に出来ることは、天使が名前を挙げたエリサベツのもとに行き相談することだと考えたのでしょうか。マリヤはエリサベツのもとに行きました。そこで、あの天使の告げたことが事実そうなると実感する出来事が起こります。

 ルカ1章41節〜45節
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。て大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』

 マリヤがエリサベツに挨拶すると、不思議な出来事が起こります。マリヤは挨拶しただけでした。それにもかかわらず、エリサベツは聖霊に満たされて、「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」と大声で言い、更には胎児であったバプテスマのヨハネも、エリサベツの胎内で喜び踊ったというのです。
 この時、マリヤは受胎告知を受けてから、すぐの時。体に変化もなく、自分でも本当に妊娠しているのか分からない。マリヤは天使の言葉を信じていたでしょう。しかし、まだ実感はない。ところが、このエリサベツの言葉を聞いて、マリヤは自分が約束の救い主を産むことを実感したのです。
 約束の救い主が来る、キリストの到来、そのことを実感したマリヤがささげた賛美。それが今日の箇所です。キリストの到来を実感した者の口から出てきた賛美、それがマリヤの賛歌でした。

 ルカ1章46節〜47節
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 一般的に、「マリヤの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とはラテン語で、「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。
 約束の救い主の誕生を前に、マリヤは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリヤにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマグニフィカートする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリヤの第一の思いは、賛美であり喜びでした。

 私たちはどうでしょうか。キリストの到来を覚える、このアドベントの時、どれ程の喜びを感じているでしょうか。
 年の暮。社会人も学生も忙しい時期。教会自体も多くのプログラムを用意し、忙しくしています。キリスト教信仰を持ち、何年、何十年と過ごすうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、クリスマスを過ごすことがどれだけあったでしょうか。過去のことはともかく、今年、アドベントを過ごしながら、どれだけイエス・キリストの誕生自体を喜び、楽しみ、賛美をささげたでしょうか。
 私たちは、一度自分の生活を止めて、キリストの誕生に思いを馳せるべきです。世界の創り主が、私のために人となられた。この出来事に感動や喜びはあるのか。そして、もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認してみるべきです。今一度、マリヤが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。

 ところで、マリヤの感動、喜び、賛美には理由があり、そのことも歌われていました。
 ルカ1章48節
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

 マリヤの喜び、賛美の源は、「主はこの卑しいはしために、目を留めて下さった」というものです。主が来られる、キリストが来られるということは、マリヤにとって、主が私に目を留めて下さった出来事、それもこの卑しいはしために、目を留めて下さった出来事だというのです。
 マリヤの卑しさは、社会的立場という意味もあったかもしれませんが、それ以上に、神様の前での卑しさです。罪という卑しさ。本来ならば、永遠に神様には目をむけられないはずの卑しさ。しかし、そのような卑しいはしために、主は目を留めて下さった。マリヤにとって、救い主が誕生するというのは、「神様が罪ある私に目を留めて下さっていた」という出来事なのです。
 これが、マリヤの中心的な思い、マニフィカトの根底にある思いです。「神様は私のような罪人を選ばれた。」「主がこのような卑しい私に目を留めて下さった。」そこから喜びが溢れだし、主を大いなる方とする思いが、湧き出ているのです。
 この主が私に目を留めて下さったという喜びには、二重のものがあると思います。一つは、罪の中にいる卑しい私へ、約束の救い主、待望のメシアが与えられるという意味での喜び。またもう一つは、マリヤ個人の喜びとして、マリヤの胎内にその救い主がいるという喜びです。
 処女である自分が、聖霊によって今、実際に妊娠している。これから後、自分の体で、救い主の到来を絶えず感じていくということです。主がこの卑しいはしために目を留めて下さっているということを、自分のお腹が大きくなるのを見るだけで、実感できる。ここに、マリヤならではの喜びがあります。婚約中の妊娠という負の状況よりも、主が到来することを、実際に体験していることが、本当に幸せだという思い。
 キリストが来られることを体験している。同時に、主が私に目を留めて下さっているということを、体験している。その喜びが、マリヤの根底にある喜びでした。

 さて、マリヤのこの思い。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という思いが、続けて様々な表現で出てきます。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という基本のメロディがあり、それがいくつかのヴァリエーションとなって流れでます。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という太い幹から、いくつかの枝が生えるような賛美。

 一つ目のヴァリエーション。一つ目の枝は、49節から50節です。
 ルカ1章49節〜50節
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 主が卑しいはしために目を留めてくださったという思いが、ここでは、力ある方、御名が聖い方が、主を恐れかしこむ者をあわれんで下さる、という思いへと広がります。
 キリストの到来は、マリヤにとって、とてつもない喜びでした。しかし、マリヤ個人だけの喜び、マリヤのもとにだけ救い主が来るのかというと、そうではありません。救い主は、主を恐れかしこむ者のところへ。「主が卑しいはしために目を留められた。」というメロディが、「あわれみは、主を恐れかしこむ者へ」とアレンジされているのです。
 キリストが到来するということ、救い主が来るということを、本当に喜ぶ人は、自分には救い主が必要であるということが分かっている人。自分は正しいという人は、自分に救い主が必要であるということが分かりません。救い主が来ると聞いても、喜びがないのです。
 神様のあわれみとして、救い主を迎える人は、主を恐れかしこむ者。そのような、主を恐れかしこむ者に与えられる喜びは、主が、卑しいはしために目を留めて下さったという、マリヤの喜びと同じ喜びです。

 さて、続けて、第二のヴァリエーション、二つめの枝です。
 ルカ1章51節〜53節
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 主の御腕をもってなされる力強いわざは、どのようなものなのか。それは、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、富む者に何も持たせないで追い返すという、高いものを退けるというわざ。そして、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ちたらせるという、低いものを省みるというわざでした。
 この「高ぶる者を低くし、低き者を高くする」神様の働きを喜ぶことが出来るのは、自分は神様の前で低く、自分の霊は飢えているのだと自覚する者でした。「主は卑しいはしために目を留めて下さった」というメロディが、「主は、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる。」とアレンジされるのです。

 さて、最後のヴァリエーション、三つ目の枝です。
 ルカ1章54節〜55節
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

 マリヤはその賛美の最後に、キリストの到来という出来事の出発点に目を向けます。今、自分自身に起こっている出来事、それはイスラエルの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りである。主が卑しいはしために目を留めて下さったのも、ひとえに、この神様の真実さがあったからだと歌い上げます。
 マリヤは救い主の誕生という出来事は、神様の変わらない真実によると感動したのです。人間がどれ程、神様に対して、歯向かい、無視をしても、それでも神様の真実さはかげることがない。マリヤは、神様の真実さを、その身で感じたのです。
 「主は卑しいはしために目を留めて下さった」という喜びは、このような神様の真実さに触れた喜びです。低く、飢えた、卑しいはしために、主は目を留めておられる。そのまなざしは、永遠の昔から変わらない、神様の真実さに溢れている。その真実なまなざしを浴びた者の喜びの賛美でした。

 以上、マリヤの賛歌、マニフィカトを見てきました。
 マリヤは、キリストが到来するという出来事を、主がこの卑しいはしために目を留めて下さった出来事として理解しました。どうにもならない貧しい私に、救い主が来られる。自分の罪が分かれば分かるほど、救い主の到来が嬉しいという思い。その思いに溢れた賛歌です。

 待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。この時に、私たちはどのようにして、キリストを待つのでしょうか。それは、マリヤが抱いた喜びと、主をあがめたいと思ったのと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜び、主をあがめること。そのためには、まず、自分の卑しさに目が開かれることです。マリヤと同じ思いで、喜びと感動と賛美を持って、クリスマスを、迎えたいのです。
 いや、もっと言えば、私たちは、マリヤ以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリヤは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。
 私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に及ぶどころか、主を知らなかった者にまで及んでいることを知っています。高きを退け、低きを顧みる主は、なんと、その業を行うために、ご自身が徹底的に低くなられたということも知っています。アブラハムとその子孫に語られた通りになされる主の真実さは、実は、アブラハムの時から始まった真実さなのではなく、世界の基の置かれる前からの真実さであることも知っています。更に、この時、マリヤの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、よく分かっている私たち。それならば、マリヤ以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。
 キリストの到来を、主が私に目を留めて下さった出来事として覚え、クリスマスを迎えたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師