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メッセージ
今日から待降節。イエス・キリストのお誕生を祝うクリスマスに心を向け、待ち望む。その様な日々が始まります。この世界を創造した神が人となられたという驚くべき出来事、キリスト教最大の奇跡ともされるクリスマスの意味を、特に思い巡らして過ごすのが待降節でした。
ところで、イエス・キリスト誕生の経緯を記しているのは、マタイとルカの福音書ですが、ふたつにはちょっとした違いがあります。
ルカの福音書では、マリヤに御使いが現われ、「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と告げました。それに対し、今日読みましたマタイの福音書では、御使いが夫ヨセフに現われ、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。」と語っています。
つまり、ルカの福音書は、マリヤの立場からキリスト誕生を待ち望む者の姿を教え、マタイの福音書は、ヨセフの立場から、私たちにキリスト誕生の意味を考えさせる。同じクリスマス物語でも、その様な視点の違いがありました。
さて、順番としては、御使いは最初マリヤに、次にヨセフに現われました。ですから、この時点でヨセフは、いいなづけのマリヤが身重になった事実は知っていても、その真相をまだ知らなかったものと思われます。
1:18,19「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
婚約関係していたヨセフとマリヤ。しかし、その頃ユダヤの風習は独特で、結婚式が済むまで一緒に暮らすことはできませんでしたが、婚約した男女は正式な夫婦とみなされたのです。
ですから、もし裁判となれば、マリヤの妊娠は間違いなく姦淫によるものと判断されたでしょう。そうなると、マリヤは不義、姦淫の女として世間のさらし者。重い刑罰を受け、生涯を恥と苦しみの中で過ごさねばならなくなります。
一方、ヨセフとしては裁判に訴えて、事柄の真相を知りたいとの気持ちもあったでしょう。「何故、マリヤが妊娠したのか」。悩めば悩むほど、はっきりとした事情を知ることは夫として当然の権利、そうヨセフが考えたとしてもおかしくはありません。
しかし、ヨセフはその様な自分の思いを抑え、夫として当然の権利を捨て去りました。裁判に訴えず、自ら離縁状を書き、正式に離婚する道を選ぶ決心をしたのです。愛するマリヤをスキャンダルから守るため、彼女が再婚のチャンスにも恵まれるよう、内密に去らせる。聖書の法律にかなう方法で、なおかつなしうる限り精一杯の配慮でした。
正しい人でありながら、愛の人でもあるヨセフらしい決断と思えます。
しかし、それでも思い悩むヨセフに、思わぬ所から助けの手が差し伸べられました。神の御使いが現われ、マリヤ妊娠の真相を告げたのです。
1:20、21「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」
聖書の神は三位一体の神。父、御子、聖霊、三つの人格をもちながら、唯一の神ということです。
ここで御使いは、マリヤを用いて、御子の神が人間の性質をおとりになり、ひとりの男の子として誕生すると告げました。そして、イエスと名づけられる赤ん坊は、ごく普通の人間としてこの世で生活をし、人としての喜びや楽しみ、痛みや苦しみをすべて味わい、ついにはご自分を信じる者をその罪から救ってくださると預言したのです。
御使いがヨセフにつけるようにと命じた「イエス」という名は、ありふれたものでした。当時ユダヤには、「イエス」という名の男の子が沢山暮らしていたと思われます。
何故、「イエス」という名はそれほど広まっていたのでしょうか。それは、旧約聖書に登場する英雄「ヨシュア」に由来していました。
「イエス」はギリシャ語「イエースース」から来ていますが、「イエースース」をヘブル語で呼ぶと「ヨシュア」となります。「主は救い」との意味でした。
ここで、御使いが生まれてくる男の子に「イエス」と名をつけるよう言ったのは、ヨシュアが旧約聖書最大の出来事、出エジプトに関わっていたからです。
出エジプトは、神による救いの御業の原点です。旧約の昔、神はエジプトの国で奴隷として苦しめられていたイスラエルの民をエジプトから救出、やがて彼らを約束の地へと導きいれてくださいました。
エジプト脱出と四十年にわたる荒野の旅を導いた指導者がモーセ、その後を継いで、イスラエルの民を約束の地カナンに導きいれ、定住させたのがヨシュアです。
先ほど、出エジプトは神の救いの御業の原点と言いました。それは、出エジプトの際、神がエジプトの人々をさばいたことが、この地上を生きたすべての人に対してなされる神の最終的なさばきを示しているからです。また、イスラエルが約束の地に導き入れられたことは、神を信じる者がみな永遠のいのち、天国での生活に導きいれられることを教えていたからでした。
この様に見てきますと、イスラエルの民を約束の地に導き入れた英雄ヨシュアの名を、マリヤから生まれる男の子の名とせよ、と神が命じたのも分かる気がします。
何故なら、イエス・キリストこそ身代わりとなって、本当なら人間が受けるべき罪に対する神のさばきを十字架で受けてくださった方、また、ご自分を信じる者をみな永遠のいのちに入れ、生かしてくださる方だからです。
それにしても、誕生する男の子は民をその罪から救ってくださる方との御使いのことは、その頃のユダヤ人の期待を裏切り、がっかりさせるものでした。彼らが望む救い主は、自分たちを支配し、苦しめるローマ帝国を打ち倒し、ユダヤ人中心の国を建設する王様のような救い主だったからです。
彼らが救い主に求めたのは、ローマ人に支配され、利用されている、この世の苦しみからの解放、そして今度は自分たちが中心に立って、他の国を支配することでした。
この様な願いには、自分の利益のために人を支配し、利用する立場に立ちたいと言う罪の思いが隠れています。昔に限らず今も、この様な罪に縛られた自己中心の生き方は、国と国の関係のみならず、私たちの普段の人間関係をも支配しているように思えます。
親と子、夫と妻、地域の隣人同士、職場の同僚や上司、それに、教会の兄弟姉妹の関係も、時として例外でないことは、聖書が教えていました。
私たち一人一人の中にある徹底的な自己中心性と言う罪が清算され、この罪の力から解放されない限り、結局は支配する者とされる者、利用する者とされる者の立場が変わるだけのこと、私たちにとって真の救いはないのです。
もちろん、苦しみは人間関係に限りません。有名なのは、仏教が「生老病死」、つまり生まれること、老いること、病になること、死ぬことを、避けることのできない四つの苦しみ、四苦と考え、その苦しみから解放される事が、仏教の説く救いと言われます。
それに対して、より深く苦しみの源に目を向けるのがキリスト教です。この世で人間が経験する苦しみの源、根っこには、神を離れ、徹底的に自己中心に生きようとする罪があるとし、その罪から人を救い出すため、イエス・キリストが生まれてくださる、と御使いは教えるのです。
1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
昔も今も、人間関係の悩み、老いることの不安、病の苦しみ、死への恐れ、これらは切実な問題です。人間はそれらから解放されることを願い、宗教に頼ってきました。
しかし、神は一歩突っ込んで私たちの心の目を、それらの源である罪に向けよ、罪について考えよと言うのです。そして、「あなたをあなたの罪から救い出すことのできる救い主を待ち望め」とヨセフに語り、私たちにも命じておられるのです。
そして、この後ヨセフは御使いの告げたとおりに歩みました。
1:24,25「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
改めてマリヤを妻として迎え入れた事、子どもが生まれるまでマリヤと性的関係を持たなかった事、子どもにイエスと名をつけた事。これら全ては、ヨセフがいかに自分の罪を真剣に考えていたか、また、どれ程罪からの救い主の誕生を待ち望んでいたかを物語っているように思えます。
果たして、私たちはどれ程自分の罪について、神の前で真剣に考える時間を持っているでしょうか。イエス・キリストがなしてくださった罪からの救いについて、どれ程理解し、喜び、感謝しているでしょうか。
最後に、罪と罪からの救いについてふたつのことを確認したいと思います。
第一に、私たちの罪は神の眼から見る時本当に酷いもの、救いがたいものだということです。
詩篇14:2,3「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、誰も彼もが腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」
私たちは、神の御心を尋ね求め、それに基づいて考え、語り、行動することが、どれ程あるでしょうか。むしろ、自分の思いのまま語り、自分の感情のまま行動することが本当に多いことを思わせられます。
私たちは、自分の心、性質が罪のために腐り果てていると感じることがあるでしょうか。むしろ、勝手に周りの人と比較して、「罪人と言っても、あの人ほど自分は酷くない」等と思い込んでいる呑気な自分を省みるべきかもしれません。
私たちは、私たちの努力や善行のうち何パーセントが、神と人への愛から生まれたものか、考える時があるでしょうか。それらの多くが、習慣や見栄からの行い、自分の評判を気にしての行動、隣人へのお返しに過ぎなかったのではと、神の前に頭を垂れる姿勢が必要と思われます。
聖書が教えるところ、私たちはみな罪人です。それも神の怒りとさばきの対象である罪人です。しかし、イエス・キリストを信じるなら、過去の罪も、現在の罪も、将来犯すであろう罪も、全ての罪が赦される。そして、永遠に神にさばかれることのない義人とされる。これが、罪からの救いの一つの意味です。
もう一度言います。キリストを信じる私たちは罪人のまま罪赦されています。罪をもったままの私という存在を丸ごと神に愛され、受け入れてもらっているのです。
自分の良い点も、恥ずかしい欠点も、自分でも嫌になるような罪の性質も、全てを知った上で、神は自分という存在を心から大切に思い、受け入れてくださっている。皆様は、このことを信じているでしょうか。信じて、心に平安を得ているでしょうか。
第二に、罪は私たちの考え方や行動を支配する大きな力だということです。
コロサイ1:13,14「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
聖書は、罪が私たちの生き方を支配する様子を「暗闇の圧制」と表現しています。キリストを信じる以前、私たちは罪の力に支配され、コントロールされ、がんじがらめにされていたと言うのです。
人間関係を自分中心に考え、行動するしかないよう罪に支配された存在、悪しき思いにコントロールされるがまま語り、行動するしかない存在でした。しかし、イエス・キリストを信じる者は罪の支配から救い出され、神の御子キリストの恵みの支配の中に移されたと言うこと。これが、罪からの救いのもう一つの面です。
今、私たちは、十字架に命を捨ててまでこの様な罪人を愛してくださったイエス・キリストへの感謝から、罪を避けたいと思います。キリストの十字架の愛に励まされ、心動かされて、神の御心に従う者、神の喜ばれることをなしたいと思うのです。これが罪から救われた者の生き方、新しい生き方です。
皆様は、今イエス・キリストの恵みの支配の中に置かれ、守られていることを信じているでしょうか。自分の願い、考え、語ることば、行動、それらすべてがキリストの愛に支配され、動かされる者とされたことを喜んでいるでしょうか。
クリスマスを迎えるにあたり、私たちもヨセフの如く、神の前で自分の罪について真剣に考える時、罪から救い出してくださるためにイエス・キリストが誕生してくださったことを感謝する時を持ってゆきたいと思います。
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