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メッセージ
ルカの福音書第2章が伝えるイエス・キリスト誕生の瞬間。皆様はこれを読んでどう感じられたでしょうか。
神が人となったというのに、奇跡も起きなければ、人々の歓迎の声もない。やってきたのは、貧しい羊飼いのみ。救い主誕生と言うのなら、もっと輝かしい出来事のはずではと思っていると、それが余りにも平凡で、みすぼらしい。意外でした。
この福音書を書いたルカは歴史家です。ですから、キリスト誕生の時世界では一体何が起こっていたのか、詳しく記録していました。
2:1〜5「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋もあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」
ローマ皇帝から地方総督へ。その命令によってゾロゾロ移動する群衆へ。そして、群衆の中の名もないヨセフとマリヤへ。都から村、皇帝から庶民。まるでカメラのレンズを絞るように焦点は下へ下へと絞られてゆき、最後に光が当てられたのは、飼い葉おけに眠るみどり子、赤ん坊だったのです。
神様の愛は、最初からこの世の底辺を目指していた、というメッセージがここに聞こえてきます。神様が人となってこの世に来りたもうのは、人の上に立って人に仕えられるためではない、むしろ人の下に降って人に仕えるためであったということです。
この宇宙の造り主の神、太陽を空に浮かべ、四季を造り、夜空に北極星を留めることのできる偉大な神。また、人間の心の奥底まで見通される聖なる神。そんな神様が、もしこの地球に人となって来たりたもうとしたなら、どんな風に、どんな姿で、どんな所に来られると、皆さまは思いますでしょうか。
先ず天地の主なのですから、たとえ、人間の形で来られるとしても世界一権力のある王の姿で来られるのではと想像されます。それなのに、何の力もない赤ん坊の姿で現われたという意外さです。
次に、全能の神ですから、たとえ赤ん坊で生まれるにしても、普通とは違い、生まれる時奇跡的なことが起こるのでは、とも思われます。あのお釈迦様はマヤ夫人という高貴な女性の脇腹から生まれ、その姿は光り輝き、生まれて歩き出すや「天上天下唯我独尊」と凄いことを口にしたとの伝説があります。
しかし、イエス様の場合、そんな奇跡も伝説もない。ガリラヤの田舎者で、貧しい女性から、ごく普通の赤ん坊としてお生まれになった。これも意外でした。
また、誕生の場所としても、大きな国の宮殿に生まれるのではと予測されるでしょう。それが何と、動物の飼い葉という汚れた場所であったという意外さ、不思議さです。
救い主のお誕生は、私たち人間が頭で考える予想を全部ひっくりかえすものでした。世界を創造した神なら王として来ることも、奇跡的な能力を備えた子どもとして誕生することも、身分の高い両親のもとに生まれることも出来たのに、実際に選ばれたのは普通の赤ん坊の姿、平凡で貧しい家、人間に使われる家畜の飼い葉桶の中だったのです。
大宇宙の造り主が、私たち人間の仲間となってくださった。これだけでもありがたいことなのに、この世の上ではなく下に、強い者富める者の側にではなく、弱き者貧しい者のそばに来てくださったということ。この神様のへりくだりを確かめたルカは、こう伝えています。
2:6,7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
それにしても、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」という言葉は悲痛です。歓迎の声一つ聞こえぬ中に、神様は人として来られた。神様はご自分に背いた人間を愛し、約束通り人となったというのに、人間の側は無関心で無情という有様。一体、誰がこんな状況を予想したことでしょう。
しかし、その様な中、夜遅くまで働いていた羊飼いたちに御使いが現われ、彼らをキリストのもとに導こうとしました。
2:8〜11「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなた方は、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」
「みどり子」とは、新芽の初々しい緑に生まれたての赤ん坊の姿を重ねたことばです。この世に到来したばかりの救い主に、最初に会うようにと神様が招いたのは貧しい羊飼いたち。そして、彼らのためのしるしは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどり子でした。
こうして二千年前の最初のクリスマスを私たち心に思い浮かべる時、これらの事実の中に物語られている神さまの知恵と恵みを汲み取ってゆきたいのです。
まず、第一はなぜ赤ん坊の姿だったのか、ということです。なぜ、この世の王や偉人の姿ではなかったのでしょうか。それは、赤ん坊は誰もが恐れず、緊張せずに近づける存在、誰もが親しめる存在だと言うことです。
私たちの教会には毎年赤ん坊が生まれます。赤ん坊が笑っているのを見ると、誰もが近づきたくなります。泣いているのを見れば、思わずあやしてやりたくなります。難しいことを考えている青年も、世のことに悩む壮年、老年の人も、赤ん坊には勝てません。誰もが近づきやすく、親しみたくなる存在、それが赤ん坊でした。
もし神様が聖なる栄光そのままで現れたなら、私たち人間は、恐れおののかねばならなかったでしょう。旧約聖書の昔、神の栄光を拝した預言者イザヤは言いました。
イザヤ6:5「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の中に住んでいる。しかも、万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
もし、神が聖なる栄光を隠すことなく現われたら、このイザヤの様に人間は恐れいってしまう。もし、神がこの世の力ある王の姿で世に来られたら、私たち人間は緊張し、親しめない。誰もが、恐れず、気兼ねなく近づき親しめるようにと、神様は赤ん坊の姿でこの世に来て下さったのです。
私たちはどれ程人となられた神、イエス・キリストに近づいているでしょうか。どれ程親しく交わってきたでしょうか。むしろ、ごく普通の赤ん坊の姿で生まれ、人となられた神様のお心を思わず、おざなりのお付き合いしかしてこなかったのではないか。
そう振り返り、ただ人となってくださっただけでもありがたいのに、誰もが気安く近づき、親しく交われるようにと、全能の神がへりくだって無力な赤ん坊となられた恵みを確かめたいのです。
さらに、神が赤ん坊となり、この世に来られることを選ばれた理由は、あの有名なイエス様のお言葉にもあるのではと思われます。
マタイ18:3「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません。」
マタイ19:14「天の御国はこのような者たち(子どもたち)の国なのです。」
この世では大人が子どもの模範です。しかし、天国では子どもが大人の模範とする、イエス様の教えでした。己れの力、己れの知恵、己れの経験を誇らず、ただ信じて頼る姿は、神様に対し人のとるべき態度の模範でした。世間では大人になって一人前。しかし、キリスト教では、大人は幼子となって天国人の仲間入りでした。
大人は賢ぶります。見栄を張ります。人の眼、世間体を気にします。ちょっとした自分の善行を自慢します。「もう少し努力してから」「もう少し世間の様子も見てから」。そんなことを言いながら、なかなか神さまの胸に飛び込んで、信頼しきるということができない存在です。
しかし、賢ぶることも、見栄を張ることも、世間体もなく、ただ親に信頼し、安心して生きる赤ん坊の姿を指し示されると、己の生き方に恥じ入るのです。
「あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません。」「天の御国はこのような者たち(子どもたち)の国なのです。」私たちも幼子を模範とし、神様の前に正直に生きる者、神様に信頼しきって生きる者となりたく思います。
以上,神が人となってこられるのに、なぜ赤ん坊の姿をとられたのかを考えてきました。最後に考えたいのは、神はどうして生まれる場所にこと欠いて、飼い葉おけをよしとされたのか、ということです。
飼い葉おけと言って、実際救い主が寝かされたのは、多くの画家たちが描いたようなキラキラ光る金の飼い葉おけではありませんでした。物言わぬ家畜が大きな口をあけて、えさを食べる黒く汚れた飼い葉桶です。
偉大な神が人として生まれるため選んだのは、王の宮殿でも、富める人の家でもなく、赤ん坊用のベッドですらなく、黙々と人間に仕える家畜が餌を食べる桶の中でした。神様は世界で最も汚い場所を揺籃とされたということです。
誕生の初めからこの世の底辺を目指した神。最も高き所にいて良いはずなのに、そこを捨てて、人間の最低に降りてこられた神。人からの歓迎も称賛も求めず、むしろこの世の下の下、底辺で、人に仕えることを喜びとし、ついには人の罪のため十字架に死ぬことを選んだ救い主の神様のお姿を、ここに見ることもできるでしょう。
「人間は上を見て、下を見ない。」というのはルターのことばです。空を飛ぶ鳥は歌うことを喜びとし、人間の様にことばを話せないからと言って不平を呟きません。犬は野原をはねまわることで満足し、人間の様に手が使えないと言って不満を漏らしません。すべての生き物は、神に造られたままの自分を喜び、満ち足りています。
それなのに、人間だけが、神によって尊く造っていただいた自分に飽き足らず、より高く、より上に、より目立って、と肩せりあって生きています。
ちょっと人より上に立ったと言っては喜び、下になってしまったと卑屈になる。自分よりも上にあると思う者を嫉み、下にあると思う者を見下げる。時には人を蹴落としても上に登ろうとする。実に情けない、愚かな生き方を繰り返しています。
しかし、こんな救いがたい人間のために、いと高き神が人の罪の贖いをしようと、点から下り、飼い葉桶の中に赤ん坊として来られました。人間の高慢、争いに対する戒めです。
神が人となり、救い主として来られたのに、これを閉め出した人間の無関心と無礼は本当にひどいものです。しかし、それを承知の上で、こんな罪の世に来てくださった神様の熱心。人間の家に迎えられないなら、人間以下の家畜の桶の中でもよしとして生まれて下さった神様の愛を、今朝私たち心に刻みたいのです。
そして、上ばかり見ていた心の眼を下に向け、自分よりも弱い立場にいる人、苦しんでいる人、困難の中にある人のために仕える生き方を少しでも実践できたらと願って、クリスマスの礼拝をおささげしたいと思います。
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