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メッセージ
待降節の礼拝、第二週目となります。待降節をアドベントと言いますが、これは「到来」という意味のラテン語でした。アドベントとは、この世界に救い主が生まれ、到来したクリスマスの意味を考え、自分の生き方を整える季節となります。
今日、私たちが焦点を当てたいのは、イエス様の母マリヤ。マリヤという女性が、救い主到来の知らせにどう応えたのか。そのことを、ともに見てみたいと思います。
ところで、男性が31歳、女性29歳にして人生で初めて為すこと。これが何かお分かりでしょうか。日本人の男女が結婚する平均年齢です。ちなみに、結婚年齢は年々高くなっているそうです。
それでは、4.4年。この数字は何でしょう。出会いから結婚に至るまでの平均的恋愛期間だそうです。その理由は、すぐに結婚する必要を感じないカップルが増え、恋愛期間が長期化しているからだそうです。
私たち夫婦の場合は、出会いから結婚まで七年かかりました。とりわけ、私の方は、教会の牧師から「早く結婚しろ」と何度もせかされ、叱られた末の結婚でしたから、とやかく言えませんが、平均4.4年と言うのは、意外に長いという気がします。
しかし、こうした現代日本の結婚、恋愛事情は、マリヤの時代のユダヤのそれとは随分違っていたことを、頭に入れておく必要があるでしょう。
その頃、一般的なユダヤ人の婚約は10代の前半から中盤。多くの場合、親同士が決めたことに従うという結婚でした。また、婚約した男女は、結婚式を挙げるまで一緒に生活することは許されませんでしたが、交際を通して、お互いに対する愛情を婚約期間に育てていったと思われます。
マリヤとヨセフはこの様な婚約、いいなづけの関係にありました。
1:26〜29「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」
「ところで、その六ヶ月目に」とあります。これは前の段落で、マリヤの親類のエリサベツという女性が身籠ったことが記されていますが、それから六ヶ月たったことを示しています。
エリサベツが身籠ったこととマリヤの身に起こったことにどんな関連があるのか。これは、後の方でルカが説明していますので、その時に触れたいと思います。
ところで、御使いガブリエルのことばは、マリヤをひどく戸惑わせ、考え込ませました。み告げは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。特に、「主があなたとともにおられます」とのことばがマリヤを戸惑わせたと考えられます。
と言うのは、このことばを神や御使いが語る時、その人は大変な状況に置かれ、心細く、不安な状態にあることが多かったからです。つまり、マリヤは「一体、自分にどんな大変なことが起こるのだろう」と戸惑い、不安になったのです。
そして、御使いが告げたことばは、まさに衝撃的でした。
1:30,31「すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」
御使いに出会うというだけでも驚きなのに、その上身ごもって男の子を産むとの御告げ。マリヤの心はどんなに乱れたことでしょうか。彼女には、結婚式に向けて愛情を育んでいる男性、いいなづけのヨセフがいたのです。
この当時、婚約は法律上結婚と同じこと。この期間に不貞をなせば、石打で死刑というが、旧約時代の定めでした。ただし、実際に刑が執行されることは極めて稀、あるいはなかっただろうとも言われます。
それにしても今日の日本のように、「それもあり」として是認されるような世間の風潮はゼロ。人々の冷たい目にさらされることは間違いなかったでしょう。それに、いいなづけのヨセフに話したところで、信じてもらえるかどうかは分かりませんでした。
先のことを考えると、とてもおめでたいどころの話ではない。不安と恐れで心は張り裂けそう。むしろ、「やめてください。何も婚約中の私でなくったっていいでしょう。この役目は他の結婚している人にしてください」。その様に答えてもおかしくはない、と思える場面です。
そんなマリヤの心を知ってか、御使いは「あなたが産むのはただの男の子ではない。神様のご計画のもと、生まれるべくして生まれる救い主なのですよ」と、親しく語りかけます。
1:32,33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
「すぐれた者」とは神のこと、「いと高き方」も神を指します。つまり、生まれてくる子は神であり、同時に神の子でもあるお方なのです。
聖書の神は三位一体の神。これは先週もお話しました。父、子、聖霊。三つの人格を持ちながら、唯一の神様を私たちは信じています。
そして、マリヤから生まれ人となるのは、このうち子なる神であり、やがて成長するや救い主として働かれ、私たちのために終わることのない神の国を建ててくださる、と言うのです。
神である主がイエス様に与えるダビデの王位とは、旧約聖書に有名なダビデ王に与えられた約束から来ています。
数あるイスラエルの王様の中でも、神を信頼する心一際厚かったダビデは神に愛され、その子孫から救い主が生まれるという特別な約束を、神から受けとりました。しかし、ダビデが立てた国は、神に背き続け、跡形もなく滅びてしまいました。
けれども、神は約束を忘れず、ここにダビデの子孫イエス様を世に誕生させ、今度は二度と滅びることのない、永遠の神の国を建てるとしたのです。
もうひとつ、「彼(イエス様)はとこしえにヤコブの家を治める」とある「ヤコブの家」とは、神の民イスラエルのこと、今で言うなら、イエス・キリストを信じるクリスチャンのことです。
ヤコブはイスラエルの族長の一人で、我が強く、狡賢い人でした。しかし、苦労を重ね、心から神の恵みに頼る信仰に立った時、イスラエルという名前を貰いました。そして、彼の子どもたちがイスラエル十二部族の基となったのです。ために、ヤコブは神の民を代表する名前となりました。
旧約聖書のエゼキエル書に、ダビデの子孫から生まれる救い主が、このように民を治めるという様子が預言されています。それは、自分の利益のために羊を苦しめていた羊飼いに代わり、本当に羊を愛し、仕える羊飼い、牧者の姿でした。
エゼキエル34:15,16、23「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。−神である主の御告げ−わたしは失われた者を探し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついた者を包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものとを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。・・・
わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」
福音書を読む時、私たちはこの牧者、羊飼いが、イエス・キリストの姿と重なる事を思います。イエス様は道に迷った者、傷ついた者、病む者に眼を留め、愛し、仕え、ついにはその様な者のために十字架の木に登り、罪の贖いとなり、死んでくださいました。
この世の王は力で支配する。時に私欲のため、民を苦しめる。しかし、イエス・キリストは神の栄光を捨て、地に下って人となり、愛をもって弱き者に仕え、これを救い、これを養う、そんな王であり、羊飼いなのです。
人を救い、人がみな真に人間らしく生きるため、世界を創造した全能の神が赤ん坊となるという圧倒的なへりくだりの愛でした。
「マリヤ、神はこの男の子を世に与えるため、あなたを用いたいと望んでおられるのだよ」。み告げは神の愛をマリヤの心に伝え、その波を静めたのでしょう。彼女は、神のみこころを確認するため問いかけます。
1:34「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」
マリヤは、御使いが告げたような不思議なことがあり得るのか、あり得ないのかを問題にしているのではありません。むしろ、「それはあるでしょうが、どのようにして私の身に起こるのですか」と尋ね、確認しているのです。
1:35〜37「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」
聖霊がともにいて、身ごもりから出産まで全部やってくださるのだから、何一つ心配しなくても良いこと。年寄りで、普通なら子ども等産めないのに、今出産の日を待つ親類のエリサベツさんという信仰の友が用意されていること。そして、「神にとって不可能なことは一つもありません」との宣言。
マリヤの不安を和らげるため、神がいかに配慮をしておられることか。人の心、女性の心を分かってくださる神様の姿です。
そして、ついに今日のクライマックス、一際輝く告白、応答のことばとなります。
1:38「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
「はしため」とは、女性の奴隷です。そして、奴隷は男女を問わず、主人のものでした。つまり、マリヤは男の子を産むこの時だけでなく、自分の生涯を丸まる全て、「神様あなたのものとしてお使いください」と言ったのです。
何故、マリヤはこの様に思い切って我が身をささげること、献身をなしえたのでしょうか。それは、先ずイエス・キリストが我が身をかえりみず、低く下り、人間の仲間となってくださったからです。
神が人間に、無限の栄光をもつ方が貧しい者に、全能の神がこの世で一番弱い赤ん坊に。神の物凄い献身、これ以上はないというへりくだりの愛に心動かされ、マリヤは心から「私は主のはしためです」と言いえたのでしょう。
クリスマスとは、イエス・キリストの全身全霊の献身に感謝すること、それに応えて「私はあなたのものです」と応え、献身すること。そう覚えたいのです。
キリストの献身に感動し、生涯それを力の源とした人のひとりに使徒パウロがいます。パウロのキリスト賛歌の一部を、今日の聖句として唱えましょう。
ピリピ2:6,7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
さらにです。「あなたのおことばどおりこの身になりますように」という、マリヤ渾身の告白は、ともすれば自分中心の信仰に陥りがちな私たちの心を目覚めさせます。
貯金が貯まりますように、病気になりませんように、人の評判をえることができますように、学校に合格できますように。妻が、夫が、子どもが、隣人が、自分の思うよう行動しますように。
普通、人が祈るのは、自分の願いが人生において実現することでしょう。願いが叶えば神に感謝し、そうでなければ不平不満の山を築く。ちっとも神のみことばがなること、神の御心を考えようとしない。自分に信頼する、自己中心の信仰です。
それに対して、マリヤは、自分の願いは様々にあるけれども、神様のみことばが人生になることを最大の願いとし、神の御心に従うことが、最高の幸せと信じたのです。
皆様は、どうでしょうか。自分の願いがなることを幸いとするのか。それとも、神のみことば、神の御心が人生になることを幸いとする信仰に立つのか。不安と悩みの中で、この信仰に立ち切ったマリヤに、私たちみな倣うことができればと思います。
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