2012年2月12日
礼拝メッセージ


「神様と交わる歩み(3)」
  聖書
ヨハネの福音書15章13〜17節

15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


  メッセージ
空気と光と、そして友の愛。これだけが残っていれば、気を落とすにはまだ早い。」ドイツの文豪ゲーテのことばです。「朋あり遠方より来る、また楽しからずや。」こちらは、お隣の中国、孔子のことばでした。いずれも、友情の尊さや楽しさを伝えるもの。真実の友がいると、どれ程私たちの人生が助けられ、豊かにされるかを物語っています。
 聖書に眼を転じれば、一等星の如く輝くのはダビデとヨナタン王子の友情でしょう。ヨナタンの父サウル王を間に挟んで、互いの利害が対立する立場になっても、ヨナタンは命をかけて友を窮地から救う。ダビデはその友の死に臨んで、友のことを高らかに褒め称える。終生続いた二人の友情は私たちの心に強い印象を残してくれます。
 しかし、真の友を求めながら、この世でそれを得るのがどんなに難しく、稀なことか。これも、しばしば私たちの感じるところです。
 社会的立場の違い、家庭環境や収入、性格、外見、人種や文化、男女の違いなど、友情を阻害する原因と思えるものがこの世には多々あります。けれども、同じ人間同士でさえ結び難い難い真の友情を、神が私たちとの関係において望み、これを実現してくださったというのが、今日イエス・キリストが語るところなのです。

 15:13〜15「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

 大宇宙を創造した神と宇宙の塵にすぎない人間。聖なる神と罪人。月とスッポンどころではない。余りにもかけ離れた神と人間との間に、どうすれば友情が成り立つのか。
 それは、人となった神イエス・キリストが、ただ一方的に私たちを友として選び、尊んでくださったからでした。そして、どれ程友として尊んでくださったかと言えば、私たちの罪の為に十字架の木につけられ、罪のいけにえとして命を捨てるという大きな愛こそ、そのしるしだと言うのです。
 太宰治の名作「走れメロス」の主人公メロスは、自分の身代わりとなってくれた忠実な友セリヌンティウスのために、「死んでも良い」と覚悟して、走り続けました。あのヨナタンも父王サウルに憎まれることを承知の上で、命をかけて親友ダビデを守り通しました。
 セリヌンティウスはメロスに対してどこまでも忠実という美点の持ち主。ダビデも勇気ある兵士にして音楽の名人。女の愛にも勝ってヨナタンを愛したと言われる人。いずれも、友として愛されるに値する存在です。
 それに対して、私たちはどうなのか。セリヌンティウスのように忠実と言うより、神に背き、神を無視してばかり。ダビデのように愛されるに値する善きものもなく、かえって神が嫌われる罪の塊のような存在にすぎません。
 それなのに、こんな私たちのすべてを知った上で、神はわざわざ人となってこの世に生まれ、十字架に死んで罪の救い主となってくださったばかりか、しもべではなく、対等な関係の「我が友」と呼んでくださるというありがたさ、もったいなさなのです。
 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。…わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼ばず、友と呼びました。」弟子のヨハネが生涯忘れることのなかったイエス・キリストによるこの友情宣言を、私たちも心に刻みたいと思います。
 さて、ここでイエス様は「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」として「友とはわたしが命じることを行う者」と説明しました。
 ところで、イエス様が命じられたこととは何だったのでしょう。それは、私たちがイエス・キリストのうちにとどまること、つまり、親しく交わることです。

 15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

 有名なぶどうの木のたとえ。意味は一目瞭然です。私たちぶどうの枝は自分では実を結べない存在。だからぶどうの幹であるイエス・キリストにつながり、とどまることで実を結ぶことができるようになる。小学生でも知っている接木の原理でした。
 それでは、イエス・キリストにとどまること、イエス・キリストと交わるとは具体的にどういうことなのでしょうか。
 三つのことが教えられています。ひとつは、キリストのことばを聞き、心に留めるということです。

 15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。・・・」

 皆様は、イエス・キリストとの交わりで、みことばを聞くこと、みことばを心にとどめると言うことをどれ程意識しているでしょうか。
 以前、祈りについての講演会で、講師の先生が「皆さん、十円祈祷から卒業しましょう」と言われました。十円祈祷とは何でしょう。「どうか、こうしてください。どうか、あれをください。」どうか、どうかと願ばかりを一方的に語るお祈りです。
 しかし、願いばかりの一方通行では、交わりになりません。みことばを聞いてイエス・キリストを思い、賛美する。みことばを心にとめて、一日を振り返り、感謝や罪の悔い改めを語る。こうしたコミュニケーションこそキリストと私たちの交わりであることを覚えたいのです。
 ふたつ目は、イエス・キリストの愛を心に受け取り、喜ぶ時間を持つと言うことです。

 15:9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」

 私と妻は結婚するまで七年間交際しました。その一年目、私たちはいつも一緒にいたいと思っていたような気がします。昼間大学の食堂で出会い、授業が終わるとデートで出会い、デートが終わると妻の家の近くの駅まで一緒の電車に乗り、駅についても別れらがたく、妻の家の傍までともに歩き、ようやく自分のアパートに帰ってくると、今度は近くの公衆電話まで走って電話をかける。
 一体何をそんなに話すことがあったのか。何故あれほどまで一緒に時間を過ごしたかったのか。今から思うと、全く信じられないような情熱です。
 相手の愛を覚え、受け取れる場所にいたい。相手と時間をともに過ごしたい。イエス様に対して同じ思いをもって接すること、それがキリストの愛にとどまることでした。
 三つ目は、イエス・キリストの教えを生活に適用する、従うと言うことです。

 15:10「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

 心から愛する友のことばを聞いてそれを信頼しないという人はいないでしょう。真の友の勧めを聞いて、それを無視する人もいないように思います。むしろそれを実行したいという方向に心が動かされるはずです。
 人間関係においてそうだとすれば、まして私たちを愛し、私たちの幸いを願って語られた友なるキリストのことばを生活に適用しようとしないなら、これ程キリストの心を悲しませることはないでしょう。
 以上、イエス・キリストの友として親しく交わるとは、みことばを聞くこと、キリストの愛を受け取ること、みことばを生活に適用するようつとめることであると確認しました。
 そして、「わたしにとどまれ」と繰り返し教えられたイエス様のお心は、私たちがこれらのことを生活の習慣にするのを願ってのことと思われるのです。
 一般的にですが、私たちがあることを繰り返し、それが習慣になるのは、始めてから三週間後だそうです。そして、その習慣が「心地よい、楽しい」と感じられるまでには、後二週間かかるとか。
 イエス・キリストの友として、親しく交わると言う習慣が一ヶ月と少しで身につき、楽しいと感じられるなら、本気で取り組んでみる価値は十分過ぎる程あるのではないでしょうか。
 最後に、イエス・キリストとの友情が私たちの生活にどんな影響を及ぼすことになるか、三つのことを今日の箇所から考えたいと思います。
 第一に、キリストとの友情は、私たちに実を結ばせるということです。

 15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・」

 新約聖書ガラテヤ人への手紙には、私たちがキリストによって結ぶことのできる実についてこう書かれています。

 ガラテヤ5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。・・・」

 御霊はキリストを信じる人の心に住む神様のことで、新約聖書ではしばしばキリストの御霊、主の御霊とも呼ばれています。つまり、御霊が私たち内に住んでおられるということは、イエス・キリストが私たちの内に住みたもうというのと同じことです。
 本来友となる価値のない私たちを友とし、「天の父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせました」と言われるほど、信頼を寄せてくださるイエス・キリストが私たちのうちに住んでいると思ったことがあるでしょうか。
 クリスチャンとは、キリストが私たちを罪から救う救い主というだけでなく、私たちの内に住む友であることを信じる者です。ということは、私たちが何を考え、何を願い、何を語り、何を行ったか。イエス・キリストはそのすべてを見ておられる同居人、ルームメイトということでしょう。
 それを意識する時、大切な友であるイエス・キリストの心を痛めるようなことはしたくないと思います。また、このような者のため十字架にいのちを捨ててくださったお方の喜ばれる者となりたい、喜ばれることを行わせていただきたい、そうした思いが心を占めるようになるのです。
 こうした交わりから生まれ、育ってゆくのが、御霊の実であることを覚えたいのです。
 第二に、キリストとの友情は、私たちに自分の尊さを確信させてくれます。

 15:6b「・・・また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 ここでは、私たちがキリストの友と言うただそれだけで、父なる神はキリストと全く同じ扱いをして下さると言う驚くべき約束をイエス様は口にされました。
 私たちは神の愛を信じています。神の子とされたことも信じています。しかし、同じ神の子と言っても、イエス様に対する父の神の愛と自分のような者に対する愛とでは、大きな差があるのではないか、いやあって当然なのだ、と思ってはいないでしょうか。
 人間の親がしばしば優秀な子を可愛がり、そうでない子に対する愛とは差があるように、やっぱり天の父もそうではないだろうかと心配し、恐れます。
 しかし、そんな心配や恐れは一切無用でした。イエス様は、「そうではない。わたしの友と言うそれだけで、あなたがたは天の父からわたしと等しく愛され、等しく祝福を受け、等しく扱われているのだよ」と優しく教えてくださったのです。
 天の父から見て、キリストの友である私たちがいかに尊い存在であるか。イエス・キリストとの交わりを通して、私たちこのことを確信し、喜ぶ者となりたいのです。
 第三に、私たちはイエス・キリストとの友情が深まれば深まるほど、人と交わり、人を愛する者へと変えられてゆきます。

 15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」

 聖書を見ると、イエス様がいかに人と交わることを喜び、人の友となられたかが伝わってきます。
 イエス・キリストは結婚式に出席してぶどう酒が足らないと知ると、水をぶどう酒に変えて、人々の交わりを祝福されました。収税人や罪人と言った、社会から除け者にされていた人々と気さくに交わり、食事を共にすることも大好きであったように見えます。
 弟子達と旅をし、語り合い、交わりを深めたこと、若き友ラザロの死には人眼も憚らず涙を流した姿も印象的です。
 諺に「朱に交われば赤くなる。」と言われます。人はよく交わりをする友、仲間によって大きな影響を受けるという意味です。今日は、「朱に交われば赤くなる」から、「キリストに交われば、キリストに似た者となる」とまとめ、私たち一人一人、イエス・キリストとの友情を深め、喜ぶ歩みに進んでゆきたいと思います。

「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれももっていません。わたしがあなたがたに命じることを行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
 ヨハネ15:13,14


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師