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2012年2月19日
礼拝メッセージ
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「神と人に仕える歩み(1)」
−神とともに喜ぶ者に−
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聖書
マタイの福音書25章14〜30節
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
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メッセージ
先回まで、私たち人間が神に創造され、救われた目的について考えてきました。そして、私たちが天の父とは父と子として、イエス・キリストとは友人同士として交わることこそ、創造と救いの目的であることを確認したのです。
イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を負い、死んでくださったという、あの命がけの救いは、私たちと神様との間に親しい関係を回復するためであったことを思い、神様との交わりを良い習慣とすべく取り組みたいと願わされたのです。
それに対して、今日の箇所。イエス・キリストと私たちの関係が、主人としもべの関係に喩えられています。
25:14,15「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」
「天の御国」とは天国のこと。やがて神がもたらしてくださる完全な世界、人の罪も、世の災いもない、幸い満ちる永遠の世界を指します。
そして、天国が来るまでの期間、この譬では旅に出かけた主人キリストが帰ってくるまでの間、しもべである私たちがいかに働いたか、そのことがイエス様によって最終的に評価されることが教えられていました。
それにしても、驚かされるのは主人がしもべに託した財産の多さです。五タラント、三タラント、一タラントとある「タラント」というのは、その頃のお金の単位。一タラントは六千デナリで、一デナリは労働者が1日働いてもらえる分の賃金と言われます。
もし、仮に一デナリを一万五千円とすれば、一タラントは六千デナリですから、三人の内最も託された財産が少なかったしもべでさえ九千万円。三デナリのしもべは二億七千万。五デナリのしもべは四億五千万と、彼らがいかに主人から莫大な資産を任されたかが分ります。
しかも、主人は「おのおのその能力に応じて」資産を預けたと言われます。当時主人と言えば、しもべのことなど考えず、賃金は少なく、仕事は重く、搾れるだけ搾り取ろうというのが常識だったでしょう。
それをイエス・キリストと言う主人は、しもべである私たちの能力に配慮して、それぞれが仕事を重荷とせず、生き生きと働けるよう考えてくださると言う優しさでした。
こうして見ると、これはもう主人としもべの関係と言うより、大切な仕事を分かち合う同労者であり、パートナーと思えてきます。そんな主人としもべの人格的な関係は、この後旅から帰ってきて、しもべたちと楽しげに語り合う主人の様子からも伺えるところです。
ところで、主人が留守の間、三人のしもべはどう過ごしたのでしょうか。これが実に対照的でした。三人のしもべのうち、ふたりは預かったものをよく活用し、よく働いたのに対し、ひとりのしもべは少しも活用することなく、土の中に埋めたというのです。
25:15〜18「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」
果たして、三人はどんな思いで主人の帰りを待っていたのか。
やがて時が立ち、主人の帰国となります。もちろん、これはやがてイエス・キリストが地上に戻ってこられる再臨のことを指します。
25:19〜23「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
昔も今も、清算のためしもべが主人の前に出る時、考えることと言ったら何でしょう。自分の仕事振りを主人に気に入ってもらえたかどうかが不安。主人の期待する成果をあげられたかどうかにビクビクする。そんなところでしょう。しかし、このふたりのしもべの態度からは、そんな不安や恐れは微塵も感じられません。
彼らは愛する主人のためになした仕事を、何の恐れもなく差し出す。主人は、「よくやった。」と手放しで賞賛する。「あなたはわずかな物に忠実だった」と、仕事の成果ではなく態度を心から評価する。「たくさんのものをまかせたい」と、しもべが思ってもみなかったご褒美まで与えて、歓迎する。
その上、「主人である私の喜びをともに喜んでくれ。」としもべの手をとり、肩を抱かんばかりの大喜び。もはや主人としもべと言うより、お互いを大切に思う共同の働き人、一心一体となって労苦した者同士の交わりと見えます。
事実聖書によれば、神様は私たちを、この罪に満ちた世界をあるべき状態へと回復するため、悩み苦しむ隣人を助けるための働き人、神様とともに働く同労者として召しておられるのです。このことを自覚してパウロは言いました。
Tコリント3:9「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑です。・・・」
ここでパウロが念頭においているのは伝道、教会建設の働きです。しかし、神様が私たちを用い、私たちと協力して為そうとしているのは、伝道や教会建設だけではありません。
人々の生活に必要なものを作り出したり、サービスを提供する仕事、子供達への教育、水道の修理をしたり、ゴミだしをしたり、病気の家族の為に寝床を整えたりする家事、教会での奉仕、ボランティア、病人を訪ねること、勉強など、この世界を神のみこころにかなったものに整えるためのあらゆる努力。これらすべてが、神が私たちとともに行いと願っている仕事、聖なる仕事なのです。
皆様は、天国到来までの間、神の協力者として働くためこの地上に生かされていること、そのために各々に賜物が与えられていることを自覚しているでしょうか。そもそも、私たちは神と人に仕える働きを為すために、神によって創造された作品であることを覚えているでしょうか。
エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
ここに言う「良い行い」とは、道徳的に良い行いというよりも、神を愛し、人を愛して為す働き、神と人とに仕える仕事という意味です。
確かに、罪がこの世界に入ってから、仕事には苦痛やストレスが伴うものとなりました。収入があるかないか、収入が多いか少ないか、あるいは社会的地位で仕事の価値やその人の価値を計るという歪んだ見方も生まれました。
しかし、キリストにより罪から救われた私たちは、もう一度仕事について正しい見方を持つ者とされました。それは、仕事は、神様が人間に与えてくださった祝福だということです。
英語訳聖書の父といわれるティンダルは言っています。「神を喜ばせるのに、他よりまさっている仕事というものはない。水汲みであろうと、皿洗いであろうと、靴屋であろうと、そして教会の説教者であろうと、みなひとつだ。皿洗いも説教者もみなひとつで、神と人とに仕えるなら、尊い、聖なる仕事なのだ。」
収入があろうがなかろうが、家の中の仕事だろうが、教会の奉仕だろうが、社会での責任であろうが、神と人を愛してこれを忠実になすなら、あらゆることが神様を喜ばせる働きになる。ティンデルのことばは、このたとえ話に登場する二人のしもべの姿に重なって私たちの心に残りますし、残すべきでしょう。
さて聖書に戻りますと、次に進み出たのは、土中に一タラント隠したしもべでした。彼は預けられた財産を何一つ活用せず、そのまんま差し出して、言い訳します。
25:24,25「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」
このしもべ、言うに事欠いて、「あなたは、自分ではびた一文ださないのに、しもべからは利益を集めようと言うひどいお方だから」と文句をいい、自分の怠惰を正当化しました。しかし、こんな言い訳は裏目に出て、一タラントのしもべはさばかれることとなったのです。しかも、そのさばきは、人間の心の奥にある思いまでも見通す聖なる主らしく、厳正でした。
25:26〜30「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
しもべである自分が、いかにイエス・キリストに愛され、信頼されていたか。キリストから賜物をあずかり、それを活用し仕事を為せば、天国ではさらに大きな喜びを味わうべく生かされていた我が身の幸いを、ついに知らぬままやり過ごした残念な人生です。
しかし、私たちの中にも、この一タラントのしもべ根性は生きているでしょう。
教会の必要に耳傾けず、困難な兄弟姉妹、隣人の事情にも目を閉じて、ただ自分の必要を満たすことだけで毎日を送る賜物隠しは誰か、「私には何の賜物もありませんから」と謙遜な振りをしながら、貴重な賜物を無駄にする怠け者は誰か、と問われるのです。
むしろ、真の謙遜は、与えられた賜物を懸命に活用することで発揮され、神と隣人のため大胆に奉仕することで光ると、私たちこの譬から教えられたいのです。
イタリアのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた「天地創造」。ルネサンスの天才ミケランジェロの傑作として、今も人々の目を奪います。聖書の歴史を天井一面に描くと言う、他に例を見ないこの壮大な絵画の為に、ミケランジェロは精魂を傾けました。
ある時、天井の片隅の部分で、一心不乱に筆を動かすミケランジェロの姿を見つけた友人が言ったそうです。「そんな細かい所は誰にも見えはしないよ。弟子のひとりにでも命じて、描かせればいいじゃないか」と。しかし、ミケランジェロは答えたそうです。「誰が見ていなくても、私に賜物を与えてくれた神が見ておられる。」
たとえ、誰が見ていなくても、人眼など全く惹かない仕事であっても、神と人を愛して、自分が為しうる最善の働きをささげる。こうした心と態度こそ、この譬話でイエス・キリストが最も評価し、喜ばれた忠実さなのです。
最後に、そうは言っても、神さまは自分にどのような賜物を与えられたのか、よく分からない、何を持って神と人に仕えるべきか分らない、と言う方にいくつかのアドバイスをしたいと思います。
第一に、自分の身近な所に助けを必要としている人がいないかどうか、今教会の中でどのような奉仕の機会があるかを知るようにつとめること、知ったなら、「それは自分がすべきこと、できること、したいことなのか」を、神に祈ってみることです。
今私たちの教会では、新長期計画の実行グループを募集していますし、教会学校小学科の教師やアワナクラブのリーダーが必要とされています。是非、考え、祈ってみてください。
第二に、他の人に、「自分の賜物は何か」助言を求めたり、以前「あなたにはこんな賜物がある」と励ましを受けたことを思い出してみることです。自分には見えないものが、周りの人には見えていることがあるものです。
それから、自分の興味や関心を能力がどこにあるのか、考える時間を持つことです。今までの歩みを振り返って、「この働きが人に喜んでもらえた」とか「このことをしていると喜びを感じる」と言う経験が見つけられたら、しめたものと思います。社会での仕事や学びで得た知識や経験も、神様からの賜物でしょう。
さらに、それでも分らない、迷うと言う人は、とにかく求められる働きを始めてみることです。
新長期計画の実行委員は一年間ですから、今年一年取り組んでみると言う気持ちで十分だと思います。教会学校の働きも、教会学校はどんなことをしているものなのか、例えば一ヶ月なら一ヶ月出席すると決めて出席してみる。奉仕するかどうかはそれから決めると言うのも良いでしょう。
イエス・キリストが十字架に死なれたのは、私たちを天国につれて行くためだけではありません。天国も慕わしく、大いなる希望ですが、それと同時に、この地上で、与えられた賜物を活用し神と人とに仕える働きをなすこと、教会の中でも、外でも自分になしうる最善のわざをささげること。そのために、キリストが尊い命を犠牲にして下さったことを覚え、日々歩む者でありたいのです。→エペソ2:10
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四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師 |
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